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探偵と刑事と執着・二

 傷のせいであまり動けないからだろう、姿勢をまっすぐにして眠っている。だが、寝苦しそうということはなく、穏やかな寝息を立てていた。  ウィルクスはハイドの髪を撫で、額にそっと口づけた。彼は起きない。しばらく寝顔を眺めたあと、着替えたスーツやワイシャツをクローゼットにしまった。財布とスマートフォンをパンツのポケットに押しこみ、煙草とライターを手に病室を出る。  喫煙室は一階にあり、クラブのそれのように黒い革張りの椅子や観葉植物の鉢が置かれて、くつろげる空間になっていた。明かりも絞ってある。部屋には誰もいなかった。  ウィルクスは椅子に腰を下ろし、煙草をくわえて火をつけた。生き返った気分だった。すべては遠い悪夢のようだった。  ふいに尻の下で、スマートフォンが振動した。  手に取って画面を見た瞬間、ウィルクスの呼吸が止まる。もう見慣れてしまった番号。ベルジュラックからだ。  たっぷり四十五秒は迷った。だが、ついに震える手で画面をタップし、呼び出しに応える。おそるおそるスマートフォンを耳元に当てたとき、ウィルクスの体は大きく震えていた。 「ウィルクスさん、ですね?」  ベルジュラックが言った。  ウィルクスはうなずいた。 「ウィルクスさん?」  そう問われ、ウィルクスはようやく「はい」と答える。 「ベルジュラックさんですね。刑事たちが言ってましたよ。あなたに何度も電話したけど、出ないって……」 「充電がなくなりましてね。モバイル・バッテリーをパリに置いてきてしまって。そうそう、ぼくはお尋ね者になっていたらしいが」ベルジュラックはさらりと言った。 「もう、解決しましたよ。行き違いがあったみたいですね。ヤードの刑事さんたちは、ぼくが逃げたと思ったらしい。そうじゃないって説明してきましたよ。ぼくは空港のターミナルで思いだして、急ぎの用があって事務所でファックスを借りてたんです。ぼくに似た男がいたのは単なる偶然ですよ」  ウィルクスの体から空気が抜けるように、力が抜けていった。この男はいつも先回りする。説明されて、刑事たちはなんと思っただろう。ベルジュラックの言葉を鵜呑みにしたのか、それとも……。  鵜呑みにしてくれたほうがいいのに、とウィルクスは思った。 「ところで、ウィルクスさん」ベルジュラックが言った。 「会えませんか?」  スマートフォンを握る指が白くなる。ウィルクスは「え……」という声を漏らし、固まった。右手に挟んだ煙草が指を焼くほど短くなっている。紫煙が立ち昇った。  初老の男が一人、部屋に入ってきた。患者着を着ている。ウィルクスはぎくっとした。誰でも彼でも、ベルジュラックの手下に思えてしまう。男はウィルクスとは距離をとった斜め向かい、観葉植物の鉢の横に腰を下ろし、煙草を吸いはじめた。  ベルジュラックが電話越しにささやいた。 「写真のこと、言いましたよね」 「しゃ……写真、ですか……」 「あのことについて話しあいませんか? 来ていただけますか?」  ウィルクスはスマートフォンを握ったまま沈黙した。正直に言ってしまえば、会いになど行きたくなかった。怖かった。また同じことを繰り返してしまいそうで。  そうなるならいっそ、死のうかと思った。 「もし、来てくださるなら」ベルジュラックが言った。「初めてお会いしたホテルで待っています」  電話は切れた。  ウィルクスはしばらく固まっていた。どくどくと心臓が脈打つ。指先が冷たくなり、悪寒で震えた。呼吸が荒々しくなるほど怯えていた。  腕時計を見てみる。午後四時二十分。指に鋭い痛みを感じて見ると、煙草の火が指を焼いていた。慌てて消すと、火傷になっている。傷口を咥えて、スマートフォンを膝に置き、しばらく呆然としていた。  彼の向かいで、男は煙草を吸っていた。ちらりと顔を上げ、どこか困った顔で、「どうかしましたか、ミスター」と声をかけてきた。ウィルクスは首を横に振る。椅子から腰を上げ、喫煙席を出た。ライターを忘れてきたことにも気がつかなかった。  ウィルクスは夫の病室に戻った。ハイドはまだ眠っている。ウィルクスは彼の肩をつかんで揺さぶった。  ハイドはうめき、目を擦っていたが、自分を起こしたのがウィルクスだとわかって、笑顔になる。しかしすぐにパートナーの表情に気がついて、狼のような顔が引き締まった。 「エド? どうしたんだ?」 「ベルジュラックが、会ってほしいって」  ハイドの顔が強張る。ウィルクスは笑顔を浮かべた。 「会ってきます」 「だめだ」ハイドは彼の手首を、寝起きとは思えぬ強い力で握った。「行くんじゃない」 「写真の件で話しあわないかって。あの写真さえ戻ってくれば、おれはまた自由になれる。行ってきます」 「一人じゃだめだ。なにをされるかわからないよ」 「彼はおれを傷つけない。わかるんです。だから、大丈夫。初めてベルジュラックに会ったホテルに行ってきます。シド、ここで待っててください」  ウィルクスは背中を向け、歩きだした。ハイドはベッドの上で固まり、病室から出ていく後ろ姿を見ていた。

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