61 / 65

39.探偵と刑事と血

「どっちにしろ、ウィルクスさんはおれと帰ったほうがいい」  ラクロワが強張った顔で言って、ウィルクスの腕をとる。ウィルクスはその手をやんわりと、しかし確かな意志をもって拒んだ。泣きながら唇の端に微笑めいたものを浮かべる。 「ありがとう、ラクロワさん。でも、おれはベルジュラックさんと話があるんです。心配しないで、帰ってください」  ラクロワの目が泳いだ。彼はふたたびウィルクスの目を見ると、尋ねた。 「話って?」  ウィルクスの背後にいるベルジュラックは答えない。ウィルクスは「たいしたことじゃない」と答えた。答えながら、ハイドがラクロワに写真のことまでは話していないのだと知って、安堵した。 「ハイドさんが悲しみますよ」  ラクロワのその一言が、ウィルクスの胸に突き刺さった。ラクロワは強張った顔で続けた。 「ハイドさんは、あなたを連れて帰ってほしいと言っていた。だから、おれと帰りませんか、ウィルクスさん」  喉の奥からすすり泣きが漏れる。ウィルクスは必死で我慢しようとした。自分の頬を平手で力強く叩く。涙が一筋流れたが、それを境に涙も嗚咽もぴたりと止まった。彼はパリから来た刑事の目をじっと見つめて、言った。 「おれはベルジュラックさんと話をして帰ります。でも、必ず帰る。だから、ホテルの玄関で待っててください」 「必ず帰ってくれますね?」 「ええ。十五分で降ります」 「待っています」  ラクロワはちらとベルジュラックの目を見た。二人の目にはなんの感情も浮かんでいなかった。刑事というさがが、二人の瞳から感情を消し去ったのだ。  ラクロワが無言で出ていく。扉が閉まると、ウィルクスはベルジュラックに向き直った。広く豪奢な部屋に、死んだような沈黙が落ちた。  ウィルクスは黙って一歩、ベルジュラックに向かって踏み出した。パンツの尻ポケットに片手をすべりこませる。 「ベルジュラックさん、写真、返してくれませんか?」 「交換条件を言っていませんでしたね。その三です」  ベルジュラックは和やかに言った。 「ミスター・ハイドを見捨ててください」  ウィルクスの足が止まる。ぶるっと震えた。 「で、できない……」 「じゃあ、しなくてもいい。でも……ぼくが命令したら、いつでもぼくのところに来ること。それができますか? なにも、別れろとは言ってないんですよ」 「意外ですね」  微笑んでつぶやいたウィルクスに、ベルジュラックはかすかに怪訝な顔をした。ウィルクスはもう一歩近寄って言った。 「あなたは執着しない人だと思っていた」 「ぼくは執着する人間ですよ。誰かさんとは違って」 「たしかに、シドは執着しない。おれのこと、愛してくれるけど、いなくなってもいいって思ってるんじゃ……」  そこまで口にしてから、ウィルクスは真っ青になった。たしかに、そう考えて怖くなったこともある。でも、よりにもよって今言うべきことじゃない。彼は恐れた。自分とハイドのあいだにある脆さをさらすことを。ベルジュラックはつけ入るに決まっている。  しかし、そうはならなかった。「そんなことありませんよ」と彼は言った。 「あなたはハイドさんから大事にされている。あなたのこと、かけがえのない人だと思っている。それが自分のことのようにわかるんです」  ウィルクスの膝が震えはじめた。思わず「そうでしょうか?」とつぶやくと、ベルジュラックはまじめな顔をしてうなずいた。 「ええ。だから、あなたは誇り高く生きていけばいいんですよ」  そんなところが好きなんですとベルジュラックがささやく。ウィルクスは虚ろな目をしていた。ベルジュラックのすぐそばまで歩み寄った。 「写真、返してくれないんですね」 「最後の条件を呑めたら。でも、呑む気はないんでしょう?」  ありませんね、とウィルクスは答えた。彼はポケットに入れた手を振り上げた。その手にナイフの切っ先が光った。  携帯用のナイフを握った手首を、ベルジュラックは両手でつかむ。二人の視線が噛み合った。 「ぼくを刺して解決しようと思っても、むだですよ」  瞳の中を覗いて言うベルジュラックに、ウィルクスの呼吸が乱れる。 「違う」彼の声は震えていた。 「お、おれが、死ねば……」  ベルジュラックはウィルクスの瞳を見つめ、かすかに微笑んだ。 「だめですよ、ウィルクスさん。そんなのはメロドラマじみてるし、なにより醜態だ」  ウィルクスは震えだしたが、自由なほうのもう片手で、ナイフを持つほうの手首をつかんでいるベルジュラックの手をつかんだ。二人は無言でもみ合った。骨と骨、筋肉と筋肉が静かにぶつかりあった。  ウィルクスの手がベルジュラックの手首をつかむ。ねじった拍子に、ベルジュラックの手が離れた。その反動で、ナイフを持ったウィルクスの手が跳ねあがる。彼はナイフを自らの首に突き立てようとした。  ベルジュラックがウィルクスの頬を平手で打つ。ナイフが床に飛んで、ウィルクスははいつくばって拾った。起き上がるとき、目の前にベルジュラックの腹が見えた。  ウィルクスの中をどす黒い風が吹き抜けていった。  彼は起きあがりざま、抱きつくようにしてベルジュラックの腹にナイフを突き刺した。ベルジュラックは動かない。ウィルクスの体に腕を回した。  ウィルクスは我に返った。ナイフを握った両手が生ぬるい。血で濡れていた。ベルジュラックのセーターにも血が広がって、真っ赤なシミをつくっている。ぽつっぽつっと床に垂れ、ぶ厚い絨毯に血の飛沫が散った。  二人の目が合った。ウィルクスの体が激しく震える。ベルジュラックは彼の手首に手を重ねた。ベルジュラックの手は冷たく、顔は青ざめていた。 「お――おれ……」  ウィルクスがつぶやくと、ベルジュラックは彼の瞳の中を覗きこみ、くっきりとした口調で言った。 「抜かないで。大丈夫。ぼくに任せて」 「お、おれ、す、すみません、こ、こんな……」  ウィルクスはがたがた震え、ナイフを握ったままでいる。ベルジュラックはちらりと彼の体を見た。返り血はウィルクスのシャツをわずかに汚している。パーカーが黒いため、そちらについた血は目立たない。ベルジュラックはウィルクスの手をナイフの柄から離させようとしたが、力が入っているためなかなか手が離れない。それでも、なんとかウィルクスの手を離させる。  ナイフの刃はベルジュラックの腹に根元まで突き刺さり、埋もれていた。 「ウィルクスさん、来てください。こっちです」  ベルジュラックはよろめきながらリビングの扉を開け、浴室まで行き、扉を開けた。蛇口をひねり、水を出す。 「ウィルクスさん」  ウィルクスは真っ青な顔をして浴室に入ってきた。 「手を洗って」  ベルジュラックに言われるままに、ウィルクスは手を洗った。色の薄くなった血が渦巻きながら排水溝に流れ込んでいく。ベルジュラックは蛇口を締めて水を止めると、タオルを使うように言った。ウィルクスは操られているかのように両手をタオルで拭いた。 「パーカーのジッパー、上げて」  ベルジュラックは言った。ウィルクスは彼の顔の白さに魅入られ、とり憑かれたように震えていた。 「ウィルクスさん、ジッパーを上げて。それで血痕を隠すんです」  ウィルクスは我に返り、震える手で苦労しながらジッパーを胸元まで上げた。ベルジュラックはうなずいた。 「下に降りて、ヴィクトルと帰りなさい」 「べ……ベルジュラックさん」ウィルクスはがたがた震えている。目を見開き、喉が鳴った。 「お、おれはなんてことを……っ、お、おれ、す、すみません、すみませんすみませんっ」 「黙らないとまた咥えさせますよ」  ウィルクスの体がぶるりと震え、言葉が止まる。ベルジュラックは彼の頬骨を指の背で撫でた。瞳を見つめてささやいた。 「大丈夫だから、帰ってください。ね」  ウィルクスはうなずいた。意識しないまま漂うような足取りでホテルの部屋を出た。ベルジュラックは去っていく背中を静かに見送っていた。  ヴィクトル・ラクロワはロビーの椅子に座って待っていた。階段で降りてきたウィルクスの顔が真っ青なことにも驚かなかった。このホテルで顔を合わせたときから、そもそもウィルクスは青白い顔をしていたのだ。 「帰りましょう」  ウィルクスはそう言って歩きだした。ラクロワもついていく。 「……ジャンは? 話し合いは、うまくいきましたか?」 「ええ」 「なんの話なんですか?」  ウィルクスはラクロワのほうを振り向いた。首を横に振り、「今は言えません」と言った。ラクロワは怖い顔をしていた。 「まさか、ハイドさんと別れるように言われたのでは?」 「いいえ。大丈夫です。ラクロワさん、ベルジュラックさんは……」  ウィルクスは無意識に笑みを浮かべた。 「そんなに悪い人じゃない。わかってると思いますが」  ええ、とラクロワはつぶやいた。  二人は黙って病院へと引き返した。  その一時間後、ホテルから警察に通報があった。お客様のジャン・ベルジュラック様が自室の浴室で何者かに刺された、というものだった。  ベルジュラック様は病院に搬送されました。客室に侵入していた覆面の男に刺されたそうです。  支配人はつけ足して言った。 「刺した人間はエクス・エクスか、その配下ではないかと、ベルジュラック様はおっしゃっています」

ともだちにシェアしよう!