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40.探偵と刑事と告白
「もうそろそろ、ムッシュー・ベルジュラックの手術が終わるそうだ」
病院の応接室で、ストライカー刑事がウィルクスとラクロワに言った。
若い刑事二人は並んで椅子に腰かけていた。ラクロワの顔が凍りついている。それでも、冷静を保っていた。
「ジャンはエクス・エクスか、その配下に刺されたと言っていた。もしかしたら、ジャンはエクス・エクスの正体に肉薄していて、それに勘づいたエクス・エクスにやられたのかもしれない」
ラクロワが言うと、ストライカーは曖昧なしぐさをした。
「それは、ムッシュー・ベルジュラックに話を聞かないとわからないことだな。……ウィルクス、寒いのか?」
ウィルクスは無意識に両腕をさすっていた手を止めた。「いや」とつぶやく。
「まったく、エクス・エクスはヤードに災厄をもたらしてくれたよ」
ストライカーはそう言って椅子のひじ掛けを指でとんとんと叩いた。しかし、熟練の刑事らしく苛立ちは見せなかった。スーツの内ポケットに手を入れ、取りだした煙草の箱を弄ぶ。彼はチェーン・スモーカーだった。しかし、自分では箱を開けないまま、それをウィルクスに差しだした。
「吸ってくるか?」
「……いい」
「きみはおれと似たり寄ったりのスモーカーだからな。吸うと気分も落ち着くんじゃないか」
ウィルクスはかすかな笑みを見せた。
「大丈夫。ありがとう、ストライカー。おれ、そんなに動揺してるように見えるか?」
ちょっとな、とストライカーは言った。彼は年下の刑事二人に向きなおった。
「ホテルの人間から聞きこみをした結果、ムッシュー・ベルジュラックはきみたちが外に出た約五十分後に刺されたようだ。『ベルジュラック様がバスルームに入ると、何者かが潜んでいて、ナイフで刺されたそうです』。これはムッシュー・ベルジュラックの言葉を、ホテルマンがそのまま繰り返している。ベルジュラックは客間に逃げ、数分のあいだ、意識を失っていた。意識を取り戻したあと自分で救急に掛け、フロントに電話している。その後見たら、侵入者の姿はなかった。部屋の鍵が開いていたそうだ」
「侵入者の特徴は?」
ラクロワの質問に、ストライカーは痩せた己の額を叩く。
「中肉中背、顔は目だし帽で覆われていた。下は黒っぽいスーツだったそうだ。ホテルマンたちの服装によく似ていたと言っていた。そのせいだろうな。誰にも気づかれず従業員に紛れた。通報を受けてホテルは封鎖したが、部外者はいなかった。さっさと外に出てしまったのか……内部の者の犯行か」
「悪魔のようなやつだ」
ラクロワがつぶやくと、ストライカーは同意した。
「悪魔のように現れ、悪魔のように消えた。今、ヤードと現場を管轄している警察が付近を捜索中だ。それと……結局のところ、ムッシュー・ベルジュラックは生きている。医者の話じゃ、おそらく死にはしないだろう、ということだ。犯人はやり直すかもしれない。ムッシュー・ベルジュラックの病室を見張っておかないとな」
応接室の扉にノックの音がして、制服警官が姿を見せた。
「ムッシュー・ベルジュラックの手術が終わりました。病室に移送するそうです」
「行ってきます」
立ちあがり、ラクロワが言った。
「そばについていてやりたいんです」
ストライカーはうなずいた。
「あとでおれも行くよ」
ラクロワはうなずき、部屋から出ていった。
沈黙が落ちた。ストライカーは後輩の姿をまじまじと見た。
ウィルクスは呆けていた。虚ろな目はあらぬところを見ている。
「だが、まさかムッシュー・ベルジュラックも同じ病院になるとはな」
その言葉に、ウィルクスは視線をストライカーに向けた。
「シドが刺されたのはストランドだ。ベルジュラックさんが刺されたのはエンデル街。わりと近いからな」
「事情聴取にあっちに行ったりこっちに行ったりしなくていいから、有難いよ」
「なあ、ストライカー。ベルジュラックさんは……し……」
「あ?」
「死なないよな?」
「致命傷は回避した、と聞いてるぞ」
「そうか」ウィルクスはつぶやいた。「よかった」
ストライカーはしばらく黙っていたが、急に立ちあがった。
「今から、ミスター・ハイドのところへ行くんだが、いっしょに来ないか?」
ウィルクスの顎がぴくっと跳ねた。
「ベルジュラックさんのことを知らせるのか?」
「もう知らせてあるよ。ちょっと気になることがあってな。来ないか?」
「……行くよ」
ウィルクスも立ちあがった。無意識に前を閉めたパーカーの腹のあたりを触る。ストライカーは扉の前で待っていた。二人はそろって応接室を出た。
○
ハイドは起きていて、ベッドに座っていた。制服警官と話をしている。
「ああ、ストライカーさん。ウィルクス君。おかえり」
顔を上げ、ハイドは穏やかに言った。警官は刑事二人を見て敬礼する。
「ミスター・ハイドに、ムッシュー・ベルジュラックが刺された件で詳しい話をお聞かせしておりました」
「わかった」ストライカーは扉に顎をしゃくった。
「きみは病院の入り口付近にたむろしてる記者たちの相手をしてきてくれないか? フランス語が話せるんだったな? フランスからの記者もきてるんだ。ただ、わかってると思うが……こっちで許可を出した情報以外は言うなよ」
「了解しました」
警官はきびきびした足取りで病室から出ていった。
「具合はどうです、ミスター・ハイド」
見舞い客用の椅子をウィルクスのほうに押しやりながら、ストライカーが尋ねる。ハイドは微笑んだ。
「順調ですよ。ただ、ちょっと治りが遅くて」
そう答えたあと、ウィルクスを見て語調を強めた。
「でも、大丈夫だよ、エド。順調だからね。座って」
ウィルクスは椅子に腰を下ろした。ハイドの顔を見ていると体が震えてくる。途方もない安心感のせいで、抑えていた恐怖が身をもたげ、体を内側から揺さぶるのだ。ウィルクスは体の震えを止めようとした。
「座れよ、ストライカー」
そう声をかけると、ストライカーは「おれはいい」と答えた。ウィルクスを見下ろす。
「きみとムッシュー・ラクロワが帰るとき、なにか異常に気がつかなかったか? 誰かが隠れていたような気配や、周りをうろついていた気配とか」
「いや……なにも気がつかなかった」
「そうか」
そのとき、ハイドは枕元に置いたスマートフォンに着信があったことに気をとられていた。着信画面の名前はアリス。別れた妻だ。電話に出ていいか、二人に尋ねようとした。
そのとき、ストライカーが言った。
「ウィルクス、ジッパーを下ろしてくれるか?」
ハイドは怪訝な顔をしたが、ウィルクスの表情を見た瞬間にすべてを悟った。
ウィルクスの顔は真っ白だった。無言でパーカーの胸元を握った。
「ウィルクス」
ストライカーの声は静かだった。穏やかといってよかった。
ウィルクスはうつむいていた。そのわずかに頭を垂れた横顔が、ハイドには家に帰れない小さな男の子に見えた。
着信のバイブレーションが止まった。
顔を上げ、ウィルクスはパーカーのジッパーに手を掛けた。
だめだ。ハイドはそう叫びたかったが、できなかった。ウィルクスはジッパーを下ろした。
黒いパーカーの下から覗いたシャツの腹のあたりに、どす黒いシミが広がっていた。
「きみがムッシュー・ベルジュラックを刺したのか?」
ストライカーが尋ねると、ウィルクスは答えた。
「ああ。おれが刺した。なんでわかったんだ」
「わかるよ。顔を見てたら、なにかあったってな。なにがあったか、話してくれるか?」
「ああ。話すよ」
そのとき、ウィルクスは振り向いた。ハイドと目が合い、彼は見た。ウィルクスの泣きそうな顔がかすかな微笑みを浮かべているのを。大丈夫、というように、彼は微笑んだ。
ウィルクスはストライカーを見上げた。
「おれが彼を刺したのは、写真のことで脅されてたからなんだ。写真というのは、おれが誘拐されたときに撮られた写真で、それは……」
ウィルクスはベルジュラックとの出会いから、彼をエクス・エクスではないかと思ったこと、パブで口淫をしたこと、空き家で起こったこと、すべてを話した。しかし、ハイドが強請られていることは話さなかった。そのため、話は芯がぼやけて、気持ちの悪い妄想のような形になった。
話し終えると、あたりに死のような沈黙が訪れた。
ウィルクスは麻痺していた。ほとんどすべてを告白できたことで、胸のつかえがとれ、むしろ清々しかった。それでも、ハイドの表情を見る勇気は出なかった。
「よく話してくれたな、ウィルクス」
ストライカーが言った。
「おれを逮捕するか?」
ウィルクスの問いかけに、ストライカーはぶつぶつつぶやく。
「ムッシュー・ベルジュラックはきみをかばった。訴えることはしないだろう。だが、人を刺すことはしてはならない行為だ。わかっているか?」
「わかってる。おれは間違ったことをした」
「だが、きみの気持ちも、なんというか……わかるよ。なあウィルクス、できることなら、今すぐにでも治療を受けたほうがいいと思うぞ」
「ああ」
ウィルクスは虚ろな目で微笑んだ。
「そうするよ。責めないのか?」
「刺したことは責めるさ。だが、それ以外は……倫理規範を裁くのは、おれの仕事じゃない」
ストライカーは二人を見て、言った。
「おれはムッシュー・ベルジュラックの病室に行ってくる。まだ麻酔は覚めないと思うが、話を聞かなくちゃな。彼とエクス・エクスにはなんらかの繋がりがあるかもしれない。というか、邪悪な男らしいな。ひとまず、目が覚めて、彼がなんと言い訳するか聞いてやるよ」
そう言って、枯れ木のような刑事は病室を出ていった。
沈黙が落ちる。それを破ったのはハイドだった。
「エド。ナイフを持っていってたのか?」
「……ええ」
「きみは、自分が死のうとして……」
「ごめんなさい」
ウィルクスはぽつりとつぶやいて、ハイドの顔を見た。
「おれ、すごく悪い子だ。人間の屑だ。ごめんなさい。あなたに迷惑ばかりかけてしまう。捨てられて当然ですよね」
「エド」
ハイドは腕を伸ばした。ウィルクスは怯えた目でその手を見た。ハイドはベッドから降りようとした。「だめだ」ウィルクスはそう言って、自分からベッドに飛びついた。ハイドはパートナーの手を握り、「ごめん」と言った。
「ごめん。きみのこと助けられなくて。ぼくはいつも助けてもらってるのに」
「シ、シドは悪くない」ウィルクスはハイドの手を握って、震えだした。
「シドは、わ、悪くないです。お、おれが、おれがこんな、こんなだめな人間だから……」
ウィルクスはハイドの手に額を擦りつけて、繰り返した。
「捨てないでください。す、捨てないでください……」
捨てないよ、とハイドは言った。きみがいないとだめなんだ。
震える体を抱き寄せると、ウィルクスは顔をハイドの首筋に押しつけた。
涙は出てこなかった。
○
ベルジュラックは夢を見ていた。
ハイドの目の前でウィルクスを抱く夢だ。ウィルクスは最初抵抗しているが、次第におとなしくなり、今は快楽に征服されて、ベルジュラックの下で狂っている。下品な言葉で喘ぎ、卑猥に腰をくねらせて、ベルジュラックにねだる。
ベルジュラックは後ろからウィルクスを犯しながら、窓の外に立っているハイドの顔を食い入るように見つめている。
そのけだもののような鋭い顔がベルジュラックを昂ぶらせた。ハイドは睨みつけるだけで、中に入ってこようとはしない。わかっているのだ。自分のせいで、ウィルクスがよけいに狂っていることを。
そして、ベルジュラックも夢の中で気がついた。
ハイドを守るために、ウィルクスは身を呈して、自分から快楽と苦痛の地獄に堕ちているのだと。
そこでベルジュラックは目覚めた。
そのことに気がついても、彼の心は波立たなかった。
早くウィルクスに会いたくなった。
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