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2.探偵と刑事と雪

 恋人に贈るプレゼントに悩んでいる。  エドワード・ウィルクスは連なるショー・ウィンドウの前をうろうろしていた。十二月の日差しにガラスが反射し、飾られたバッグや靴、ブランドの大きなロゴ、クリスマスを意識してか、やたらゴールドとシルバーが目立つディスプレイを輝かせている。迷いあぐねた結果、思わず高級店が連なるリージェント街に来てしまったが、ここで売られているものはとうてい買えないと諦めた。ウィンドウ・ショッピングを愉しむ気分にもなれない。ウィルクスは服より本に金を使う。唯一、ドクター・マーチンのブーツは頑丈だという理由で二足持っていた。そのうちの一足、黒い編みあげブーツを履いて、人でにぎわう街路を思いつめた顔で歩いていく。  恋人のシドニー・C・ハイドのことを考えた。  ハイドさんはなにをもらってもきっと喜ぶだろう。そう思うからこそ、ウィルクスは頭痛がするほど悩む。いっそ初心に帰って、ノアの箱舟と人形のセットでも買おうか。そんな子どもの玩具でも喜ぶに違いなく、無限に広がる可能性の海に頭がくらくらした。  迷いに迷いを重ねてリバティ百貨店に行ってみようかと思いながら、ウィルクスは人ごみを掻きわける。サンタクロースの服を粋に着こなした黒人の男に注意を惹かれていたので、テイクアウトのコーヒー・カップを持った女とぶつかりそうになり、危うくよけた。薄い剃刀のような風が吹きつけ、ウィルクスはネイビーのダッフル・コートのボタンを喉元まで留めた。  そもそも、ハイドに会う予定がない。  イヴのきのう、「明日はなにしてますか?」と電話してみたところ、「乳母の墓参りにヨークへ行く」という答えが返ってきてウィルクスは驚いた。 「こんな寒い時季に? あ、命日が明日なんですか?」 「いや、命日は二月なんだが、二月は寒すぎるから」  確かにそうだが、よりにもよってクリスマスに行かなくても、とウィルクスは思った。 「帰省シーズンで列車が混んでるんじゃないですか? 車で行くんですか?」 「列車だよ。やっぱり混むかな。でも思いたったから」  相変わらずウィルクスの恋人は適当さを発揮していた。おおらかさは美点だが、几帳面なウィルクスはときどき「ちょっと待ってください」と言いたくなる。だが今回はそれを飲みこみ、「気をつけて行ってきてください」とだけ言って電話を切った。  ヨークへはロンドンから日帰りで行ける。だから夜になって会う約束もとりつけることができただろうが、ハイドがあっさり電話を切ったのでウィルクスはなにも言えなくなった。それでも、プレゼントは渡したかった。  リバティ百貨店の玄関付近でウィルクスは声を掛けられた。振り向くと、友人であるミセス・ノートンの見慣れた顔が蠱惑的な微笑みを浮かべている。彼女は毛皮のコートをまとい、黒いワンピースを着てピンヒールの黒いブーツを履いていた。爛々と輝く緑の瞳に細かいラメの入ったシルバーのアイシャドウを合わせ、横に長い唇にバーガンディのリップをつけている。ルイーズ・ノートンはうれしそうに手を振った。もう片手にはキャメルのハンドバッグとスワロフスキーの小さなショッパーを提げている。 「お買い物? ウィルクスさん。ハイドさんは?」  ウィルクスはミセス・ノートンのほうに歩いていった。 「あの人はヨークに行ってます、墓参りに」 「寒いのにねえ」ルイーズはそう言って、白い歯を見せて笑った。ウィルクスの肘をそっと掴む。「中でちょっとお茶しない?」 「いいですよ。そうだ、あなたに……」  思いついたことに気分が弾み、ウィルクスの焦げ茶色の瞳が輝いた。ミセス・ノートンに頼みごとをしようと口を開く。そのとき、コートのポケットの中でスマートフォンが振動した。ロック画面を見るとハイドからメールが届いている。ウィルクスは覗きこんでくるルイーズのほうを向いて、中に入って待っていてほしいと頼んだ。彼女は快くうなずき、ヒールを鳴らして人ごみの中に颯爽と踏みこんでいった。  ハイドからのメールは一言で終わっていた。 「元気か?」  ウィルクスは返事を打つ。 「元気ですよ。あなたは? ヨークはどうですか?」  すぐに返事が返ってきた。 「墓地に行ったあと教会を覗いたら、アイザックの奥さんに会ったんだ。彼女に誘われて、今、実家の客間にいる」  ウィルクスは眉を上げた。アイザックはシドニー・ハイドのいちばん上の異母兄で、二人は仲が悪い。弟のシドニーは「馬が合わない」という表現をするが、ウィルクスが見たかぎり、事態はもっと深刻だった。  遊び人だった父親の女遊びの延長で生まれたシドニーは、ハイド家の中で肩身が狭い。彼の母親は優しい女だったが、当然のように夫にだけ愛を注いだ。今は亡き乳母だけが唯一シドニーの陽だまりで、逃げ場所だった。そんなふうに発展した人間関係は、今も続いている。  アイザックは末弟のシドニーを冷淡に蔑んでいて、しかし憎むほどの興味は持っていない。シドニーは長兄が苦手で恐れている。じゃあきっと、今は最悪の時間だろうなとウィルクスは思った。  心の中に答えるようにハイドがまたメールを送ってきた。 「兄貴は相変わらず愛想がよくて冷ややかだよ。二月の氷より冷たい。奥さんはいい人で、いろいろ気にかけてくれる。ぼくが結婚式に呼ばれなかったことから推察して、こっちがかなり変わり者だと思ってるんだ。でも、甥っ子二人がいなくて幸いだった。ぼくのことを思いだしてもらうための説明に十分かかるうえ、あの二人はアイザックに輪をかけて冷たいからね」  読んでいて、ウィルクスの胸は悲しく痛んだ。しかしメールからは若干茶化すような響きも感じられ、それが少し慰めになる。彼は顔を曇らせて玄関の脇に寄り、片手をポケットにつっこんで返事を打った。 「じゃあ今、気が重いでしょうね。ところでメール打ってて大丈夫なんですか?」 「ああ、二人ともちょっと席を外してるから。もうすぐ帰ってくると思うが」  しばらく間があったあと、またメールが届いた。 「もう帰りたい」  ウィルクスはため息をつき、「電話掛けましょうか?」と返信した。すぐさま「頼む」と返事が返ってきた。ウィルクスは白い息を吐きながらその場で待つ。二分ほど経って、「帰ってきたよ」とメールが来た。彼はすぐに連絡先をタップして、ハイドに電話を掛けた。三度のコールのあと、恋人の穏やかな低い声が聞こえてきた。 「もしもし?」  その声を聞いただけで、ウィルクスの目に涙がこみあげてきた(理由はわからない)。「会いたいです。帰ってきてくれませんか?」と彼は言った。  電話の向こうで、「呼ばれたのでもう失礼しなければいけません」というハイドの声と、「まあ、彼女?」という女の声が聞こえてくる(ハイドは「いえ、友人です」と答えていた)。  今から帰るよ、というハイドの声にウィルクスはうなずき、待ってますと答えた。ハイドが通話を切る。ウィルクスはしばらく電話の履歴画面を見ていた。スマートフォンをポケットにしまい、ゆっくりデパートの中へ入る。ミセス・ノートンはペーパーバック版『ブラウン神父の秘密』を読んでいた。彼女は顔を上げると微笑んだ。 「ハイドさんから? 帰ってくるって言ってるの?」  魔女とあだなされるミセス・ノートンはいつだって勘がいい。ウィルクスは笑って、「帰ってくるかどうかはわかりませんが」と言った。「とりあえず、お兄さんのところからは脱出できたみたいですね」  ルイーズは謎めくチェシャ猫のようにいたずらっぽい顔をする。ウィルクスは凛々しい顔つきに戻ると、彼女の目を見て口を開いた。 「ミセス・ノートン、お願いがあるのですが。ハイドさんへのプレゼントを探しているんです。いっしょに選んでくれませんか?」 「あらあら」ルイーズ・ノートンは上機嫌だ。華奢なゴールドの指輪を嵌めた手で毛皮を撫で、微笑んだ。「ハイドさんならなんでも喜んでくれるわよ」 「だから困ってるんですよ」 「あの人、どこのブランドが好きなの?」 「知りません。バリーの靴は履いてましたが。……本当のところ、いちばんあげたいと思うものは老眼鏡なんですよね。あの人、ドラッグ・ストアで適当に買った安いやつを使ってるんです。合わないなあって言いながら。確実に目が悪くなりますよ。でもあの人の度数がわからないから」 「困った人ねえ」そう言ってルイーズ・ノートンは天井を見上げた。「じゃあ、いっしょにぶらぶら探してみる?」  お願いします、と言ってウィルクスも天井を見上げた。桟敷席を思わせる壮大な吹き抜けに圧倒され、天井一面の天窓から射しこむ光にも圧倒される。吊り下げられた照明はまばゆく輝いていた。ふいに教会の鐘の音が聞こえてくる。それはディスプレイの中、白銀に包まれたセント・ポール大聖堂のミニチュアから聞こえてきた音だった。 ○  目の前に置かれた、湯気の立つストロベリー・フレーバーの紅茶にウィルクスはほっと息をついた。  ルイーズ・ノートンの客間は暖房がちょうどよく効いている。紅茶の甘い香りと、そこに落とされた蜂蜜も彼の肉体と心をあたため、緩めた。ルイーズはフランス窓の前に立ち、この家のトレード・マークである松の木を眺めていた。外灯のせいで、浮かびあがったその樹はねじれて禍々しくすら見える。彼女はテーブルまで歩いてくると大皿に盛られたクッキーを一枚つまみ、ウィルクスにもすすめた。  時刻は六時過ぎ、あたりは夕闇に包まれていた。ウィルクスはちらちら右隣のカウチのほうを見る。ハイドが眠っていた。  サックス・ブルーのシャツに白いセーター、グレーのスラックス姿(愛用のバリーの靴は、墓地の泥で少し汚れている)で熟睡している。十五分だけと断って、ノートン邸に着くなり眠ってしまった。二十分が経とうとしているが、ウィルクスはためらい、ルイーズ・ノートンは起こそうとする気配さえ見せない。  プレゼントを渡すタイミングを逃してしまったな、とウィルクスは思う。ハイドが渡してくれたときに渡したらよかった。ちらりとテーブルの上を見る。明るい水色の袋と丸めた金色のリボンの上に座る、つぶらな黒い瞳と太い眉毛の茶色い熊のぬいぐるみ。「映画、観てないんですよ」と言うと、「ぼくも観ていない」とハイドは答えた。 「でもこのしょぼくれた姿がかわいいなと思って、気になってたんだ。あと、テッド繋がりで」  ウィルクスのファースト・ネームはエドワード、テッドは愛称の一つだった。もっとも、ハイドから「テッド」と呼ばれたことは一度もない。ウィルクスはぬいぐるみの頭頂部を指でつついた。人差し指を押しつけ、力を込めて押し下げるとぬいぐるみの眉が吊りあがる。 「いじめてるの?」とミセス・ノートンに言われ、ウィルクスは無為ゆえの行動をやめた。じっとぬいぐるみの顔を見て、かわいいといえば、まあかわいいなと思った。それからちらりとカウチを見る。でもあの人のほうがずっとかわいい。ぼんやりとそんなことを思った。  ハイドが目をつぶったまま低い声でうめいて、ウィルクスはどきっとする。なんだか色っぽい声だった。ハイドは目を擦り、「すっきりした」と晴れやかに言って体を起こし、カウチに座り直した。それからウィルクスからじっと見つめられていることに気がついて、屈託なく笑った。 「どうした? ウィルクス君」  ウィルクスは答えずに見つめ続けている。鼓動が高鳴り、耳の裏で血が脈打った。年上の男の薄青い瞳は深く澄んでいて、吸いこまれそうだった。ブルーは冷たい色なのに、教会のキャンドルの炎のようにあたたかく見えた。ハイドはぼんやりしている恋人を見つめ返し、ふしぎそうに微笑んでいる。  お茶を淹れてくるわねと言って、ミセス・ノートンは部屋から出ていった。ウィルクスは我にかえった。テーブルの左側にさりげなく置いたチェックのショッパーに手を伸ばす。中身は黒い小さなスコティッシュ・テリアの飾りがついた名刺入れだ。蓋が壊れそうだ、と言いながら使い続けていることを思いだし、プレゼントにしようと決めた。 「ハイドさん、あの、これ……」  自分でも驚くほど心臓が激しく高鳴る。ウィルクスは緊張のあまり、怒った顔をつくって紙袋を引き寄せようとした。しかしハイドのほうが早かった。彼はカウチから立ちあがると身を乗りだして体をかがめ、恋人の青年の唇にキスした。驚いたウィルクスが目を閉じる間もなく、ハイドは顔を離した。  いきなりなんですか、とウィルクスがつぶやくと、ハイドはあっさり言った。 「プレゼントのおまけ」  複雑そうな顔をしたウィルクスのことなど気にせず、ハイドは彼の左隣の椅子に腰を下ろした。ウィルクスは伸ばしていた腕を引くことができず、結局突きやるような格好で「プレゼントです」と言った。ハイドは顔を輝かせ、無邪気ににっこりした。ありがとう、うれしいな。まだ開けてもいないのに飾り気なく大喜びされて、ウィルクスはそのときなんの脈絡もなく、おれがこの人を守らなくちゃなと決意した。 「はい、お茶よ。レモングラスのフレーバー・ティーにしてみたわ」  茶器が載った銀のトレイを手に部屋に入ってきたルイーズを見て、ハイドは椅子から立ちあがりトレイを受けとる。爽やかな香りがウィルクスのところまで漂ってきた。トレイをテーブルに置いたハイドに、ミセス・ノートンは大きな口で微笑む。 「サンタクロースが来たのね、ハイドさん」 「そうですよ。今年はいい子にしてましたからね」  そのとき勇気が宿って、ウィルクスは椅子から立ちあがった。ハイドの背中を指でつついて、振り向いた彼の唇にそっとキスする。唇を離して目が合うと、ウィルクスは堅苦しい表情で言った。 「おれも、おまけです」  あら、いいわねとミセス・ノートンがクッキーをつまみながら言う。 「男の子たちが戯れてる姿はかわいいものね。わたしも子どもが欲しかったわ」  飛躍した結論をつぶやくミセス・ノートンの言葉は二人の耳に入っていなかった。探偵と刑事は見つめあった。輝く瞳を閉じて、ハイドは恋人の唇にもう一度触れた。ウィルクスも目を閉じる。唇を離してハイドが言った。 「いつも、両手いっぱいの愛と寛容をありがとう」  こちらこそ、とウィルクスはつぶやいた。  ハイドは微笑むと、ミセス・ノートンのほうを振り返って言った。 「マダム、あなたへのプレゼントは絹のストッキングにしましたよ」  雪が降りはじめた。

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