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3.探偵と刑事とお守り△

 年上の恋人が風呂から出たあとボクサーパンツ姿で居間をうろうろしている。二人掛けのソファに腰を下ろして、エドワード・ウィルクスは瓶のギネス片手にその姿をぼんやり眺めていた。  季節は冬だが、暖房のため部屋はあたたかい。第二次大戦後に建てられたフラットだが、気密性は高いし空調はウィルクスが住みはじめた四年前から新しいものに替わっていた。だが防音性はいまいちで、彼は恋人の男が訪ねてくると、いろいろな意味で音漏れに頭を悩ませている。  シドニー・C・ハイドは今、煙草を吸いながらスマートフォンに届いた仕事のメールに返事を打ちこんでいるところだった。  ……いいなあ。  ウィルクスは恋人の後ろ姿を見ながらぼんやり思う。見苦しいから裸でうろうろしないで、というのは倦怠期の定型文だが、それは目の前の男には当てはまらない(と、ウィルクスは思っている)。広い背中、逞しい肩、発達した筋肉と引き締まった体つき。翼の名残のように優美な肩甲骨と、なめらかな背中の窪み。太腿も身が締まり、黒いぴったりした下着に包まれた小さな尻は、はっとするほど形がいい。  青年刑事は恋人の後ろ姿に見惚れ、樹の幹のように締まった安定感のある腰に抱きつきたくなる衝動に駆られる。恋人の下着姿を肴に酒を飲むというのはかなりの幸福だ。そんな発見をして、おれは気持ち悪いなと冷静に思いつつも、ウィルクスはビールをごくりと飲んだ。  ふいにハイドが振り返った。視線はスマートフォンに向けられ、かすかに眉間に皺が寄っている。彼はきれいに髭を剃った顎を親指で擦りながら、煙草をくわえたまま次々届くメールに返信していた。  ウィルクスは恋人のやや険しい表情を眺め、視線を下に向ける。逞しい胸板に小さな乳首が可愛いと思う。むだな脂肪がついていない鍛えられた腹は四十路には見えない。きれいな形の清潔な臍と、その隣のほくろがウィルクスは好きだった。彼は視線をさらに下に向ける。思わずこみあげてきた興奮でみぞおちのあたりが熱くなった。  股間の膨らみを見てしまう。優美な隆起。大柄な体躯に見合うそれが穏やかに薄い布の中に収まっているのはなんだか平和的だ。  唾液が自然に口の中に湧いてきて、ウィルクスは慌ててビールを飲み下した。耳の後ろがじんじんして熱い。顔をしかめ、気持ち悪いどころか変態だなおれは、と彼は思ったが、過剰にそう思うことで心身のバランスをとろうとしていた。  いつのまにかハイドはメールを打つのをやめていて、険しい表情もいつもの快活な笑顔に戻っていた。 「すまない、仕事の最終確認でね」私立探偵はそう言うと、灰皿で短くなった煙草をもみ消し、白木の簡素な椅子を引っ張ってきてウィルクスの目の前に腰掛けた。「待たせたな。じゃあ、撮ろうか」  そこでウィルクスは我にかえり、少々慌てた。腕を伸ばしてビールの瓶をそばのテーブルに置き、腰を浮かせようとする。 「着替えたほうがいいですよね?」  彼も風呂上がりで、黒いカットソーにグレーのパーカーとスウェットパンツ、素足にスリッパという格好だった。 「いや、そのままでいいよ」ハイドは気楽に言ってスマートフォンのカメラを起動させる。「きみの自然な、いつもの姿を出張のお守りにしたいんだ。心があたたかくなるから」  率直な言葉にウィルクスは思わず微笑む。じゃあこれでいいかなと思いつつ、ソファに姿勢を正してきちんと座り直す。それから気がついて、のんびり座っているハイドをちらりと見た。 「……あなたは着替えないんですか?」 「まだちょっと暑くてね。でも見苦しいかな」 「いや、見苦しくはないんですが……気が散るので」  ウィルクスがつぶやくとハイドはにっこりした。彼は椅子から立ちあがって、ソファの足元に置いた黒いボストンバッグの中からゆったりした茶色のパジャマのパンツを取り出して、おもむろに身につけた。それからまた白木の椅子に戻ると(上を着るにはやっぱりまだ暑いらしい)、スマートフォンを両手に構えて微笑んだ。そのあいだにウィルクスはスピーカーから流れているボブ・ディランのアルバム、“Bringing It All Back Home”を消そうとしたが、リモコンが見つからず間に合わなかった。 「じゃあ、撮るよ。はい、スタート」  ほぼいきなりキューを出されて、ウィルクスはまた少し慌てた。カメラを見返し、堅苦しい表情のまま口を開く。 「ハイドさん、元気にしてますか? おれは元気です。ええと、これを撮ってるときは。ロシアは極寒でしょうね」我ながらすらすら言葉が出てるじゃないか、とウィルクスは思う。「元気で無事に帰ってきてくださいね」カメラから目を逸らさず、はきはきした口調で締めた。「待ってます。それでは」  ハイドは録画をやめると首を傾げた。 「ウィルクス君、緊張してるのか?」  刑事は眉間にかすかな皺を寄せた。 「いえ、緊張はしていない、と思っているのですが。だめでしたか?」 「表情が固い気がしてね。すまないが、もう一回撮っていいか? ……ちょっと待っててくれ」  ハイドは立ちあがるといったん居間から出た。ウィルクスは彼の後ろ姿を見送る。ハイドはすぐに戻ってきたが、手に持っているものを見てウィルクスは眉を上げた。 「なんですか?」  差し出されたものを受け取ると、それはハイドがさっきまで着ていたサックス・ブルーのボタンダウン・シャツだった。 「きみはぼくの匂いが好きだからね」  さらりと言われてウィルクスは眉を吊り上げる。しかし頬骨のあたりがかすかに赤くなった。ハイドは「反論は認めるが受理はしない」という顔で微笑み、「ライナスの安心毛布」と言った。  ウィルクスはなんとか呆れた顔をつくろうと努力する。シャツを膝の上に置いた。 「仕方ないですね」  照れ隠しで怒った顔になりながらシャツを両手で握り、息を吸う。 「じゃあいきますよ。ハイドさん、お元気ですか――」 「ちゃんと嗅いで」  本筋とまったく関係ないところでダメ出しを受け、ウィルクスはますます怒った顔になり、ますます赤くなった。じろりと恋人を睨みつけてもハイドは堂々としている。 「ライナスは毛布を持って指をしゃぶっている状態で安定しているんだから、きみも嗅がないと」  おれはそこまでしなくても大丈夫です、と反論しながらもウィルクスはシャツをつかむ手を顔の前に持っていった。そっと胸元に鼻先を寄せるとなじみのある匂いが膨れあがり、花のように咲いて脳を掻き回した。香水と肌の匂い。ウィルクスの目の奥がとろけていく。大好きな匂いに、吸いこむ空気が麻薬に変わる。しばらくこの匂いともお別れなのか。そう思うと胸の底に寂しさが広がった。ウィルクスは息を吸いこむ。  今日はまだ、キスしかしてないなと彼は思った。綿菓子に触れるようなキスだけだ。会ったのも久しぶりで、あさってになればあの人はロシアに行ってしまう。帰ってくるのはずっと先だ。ウィルクスの目がうるんだ。脳の中で花が咲き乱れ、鼻腔に濃い匂いが流れ込んでくる。肉体の器官がすべて恋人の気配で充たされた。  ウィルクスはシャツに鼻先を埋めたままカメラを見た。そしてふいに、撮られていることに気がついた。彼はシャツを顔に当てたまま、反射的に口を開いた。 「ハイドさん、元気ですか? 会いたいです」そこで言葉に詰まったが、すぐにまたしゃべりだした。「会いたいです。早く帰ってきてくださいね。……あなたとしたいです」  しゃべり終わってもウィルクスはしばらく呆然としていた。心臓が激しく高鳴り、焦げ茶色の目は内側から噴き出す蒸気で曇っている。我にかえったときにはすでに遅かった。  ハイドの顔つきは引き締まっていた。薄青い瞳は白い照明で爛々と輝いている。獲物をつけ狙う狼の目にウィルクスは震え、欲情が肉体の芯を飲みこんだ。鳥肌が立つほど興奮し、全身に汗がにじむ。彼はハイドが欲情しているときの据わった目つきを愛していた。  しかしハイドは微笑みを浮かべた。笑うと欲情のぎらつく光が温厚さに紛れてしまう。ウィルクスは焦り、それを探そうとした。ハイドがじっと彼を見つめてささやいた。 「帰ってきたら、いっぱいしよう」  まるで優しい叔父さんが甥っ子と遊ぶ約束をしているみたいだ、とウィルクスは思った。抱いたシャツに所在なげに顔を押しつけて、彼はうなずく。もう終わりなのかと思うと胸に寂しさがこみあげてきた。 「それとも待てないか?」  低い声でささやいたハイドの瞳は力強く飢えていた。  抱えたシャツは膝まで垂れている。その向こうでウィルクスはそっとスウェットパンツの上から脚のあいだに触れた。軽く力を入れて押さえただけで快楽の電流が走る。手のひらを押し返す弾力に、気分が悪くなるほど昂ぶった。  シャツの向こうで慰撫を繰り返しながら、ウィルクスは呆然と恋人の顔を見つめた。ハイドはスマートフォンの画面を見つめている。 「ハイドさん、あの……」ウィルクスは押し殺した声でつぶやいた。「音楽、切ってくれませんか……」  ハイドはスマートフォンを持ったまま腰をあげ、スピーカー本体の電源を切った。ボブ・ディランはセックスには合わない、とかつてウィルクスが真面目な顔で口にした言葉を思いだす。ハイドが白木の椅子に戻ると、もともと快楽に弱い恋人の限界値が今夜はさらに下がっていた。スマートフォンを構えると、ウィルクスは見ているのか見ていないのか判然としない、焦点の合わない目をカメラに向けた。 「エドは助平だな」  ハイドがつぶやくとウィルクスは痛々しいほど真っ赤になった。それでもシャツに顔を埋め、襟のすぐ下あたりの布を口に入れていた。唾液でサックス・ブルーが濃い色に変わる。噛みながら恋人を見上げ、ついに下着の中に手を入れた。熱い肉の塊が手のひらを押しあげ、ウィルクスが包みこむと手の中はたちまち濡れた。ゆっくり上下に擦りあげると目の奥に白い光が散る。スリッパの中で爪先が丸くなり、腰が震えた。 「なにか言って」  ハイドに低い声で促され、ウィルクスはカメラをちゃんと見なければいけない気がしてきた。きらきら光るレンズに羞恥と興奮が掻き立てられ、彼は恋人の目を見つめるようにそこを見つめた。  なにか言って、ともう一度ハイドが促した。 「なにかって……」手つきが次第に荒々しくなり、淫らな音が小さく漏れる。ウィルクスはシャツを握りしめた。「な、なにを言えばいいですか」 「なにを考えている?」 「か……考え……?」  手を上下にすべらせると肉茎が跳ね、先端が泡立って先走りが垂れ落ちる。視界がぼやけ、ウィルクスはどこを見ていいのかわからなくなりながら、意味もなく濡れ犬のように首を振る。息を吸うだけで感じた。彼は口の中が渇いたまま、かすれた声でつぶやいた。 「正直に言っても、いいですか」 「ああ」  ウィルクスはシャツに顔を埋めてカメラを見上げた。 「……ケツが寂しい」  ハイドは笑った。飾り気のない愉しそうな笑いにウィルクスの顔が緩む。肉体と心が緩むと、快楽と欲情がこみあげてきて彼の殻を突き破った。ウィルクスは身震いして裏側を人差し指で強く圧迫する。膝が跳ねた。  ハイドは画面から顔を上げ、ウィルクスの目を見つめてささやいた。 「きみは変わらないな、エド」年上の男は微笑んだ。「ロシアから帰ってきたときもきっとそうだと思うと、安心する」  ウィルクスは目を細め、ぼやけた目で恋人の青い瞳を見た。シャツを鼻に押しつけ、恋人の肉体を愛するように自分自身を愛していた。顔が緩み、かすかに歪む。熱い呼吸を隠すシャツの内側で快楽も熱に変わる。立てた両膝が跳ねた。 「あなたも、な、なにか、言ってください」 「助平なきみが好きだよ」 「はい」 「気持ちいいか?」 「は、はい」 「なにをしてほしい?」  ウィルクスはシャツを握りしめた。半開きになった口から唾液が垂れた。 「連れていってほしい」彼はハイドの目を見つめてつぶやいた。「いっしょに」 「また帰ってくるよ」  ウィルクスはうなずくと目を細めた。力を込めて握ると男根が跳ねる。 「い、い、入れてください」  あとでね、とハイドは微笑んだ。その目が据わっていることに気がついて、ウィルクスは麻薬に飲まれたような、世界が溶けていくほどの恍惚に襲われた。吐く息が熱く震え、顎が震えた。全身が汗に濡れ、目の奥に光が満ちた。 「う……っ」  低い声が漏れ、ウィルクスは奥歯を噛んで熱を吐き出した。上擦った息をつきながらシャツから顔を上げる。いつのまにかハイドが目の前に立っていた。人差し指がウィルクスの唇に触れる。唇とシャツは細い糸で繋がっていた。ハイドは糸に指を絡めて、ウィルクスのべたべたになった口の周りをティッシュペーパーで拭く。青年は赤く染まった顔を上げると、うるんだ目でハイドを見上げ、呆けた顔を歪める。 「シド、す、すみません……シャツ、よ、汚してしまいま……」  ハイドは恋人の濡れた手を握ると、その手を自分の脚のあいだにそっと押しつけた。ウィルクスはその場所をじっと見つめ、ズボンの上から昂りに口づけた。ハイドの手がウィルクスの頭を撫でる。彼らは彫像のように、しばらくじっとしていた。形を覚えこむように押し当てた唇を離し、視線を上向けると青い瞳と目が合う。ウィルクスはよろこんでその場にくずおれた。 ◯ 「また風呂に入らないとな」  居間のソファの上でハイドがつぶやくと、ウィルクスもうなずいた。自分の吐き出した精液で腹の上が濡れている。ハイドがそこに舌を這わせるとウィルクスの身体がびくっと跳ねた。 「……舐めると汚いですよ」  かすれた声でつぶやく恋人の精液を舐めとって、ハイドはのんきに笑った。 「きみだって、いつもぼくのを飲んでくれるじゃないか。成分はいっしょだよ」  成分って……とウィルクスが赤くなったまま呆れた顔をしてもハイドは気にしない。体を起こしてソファに座りなおした。 「撮らせてもらったビデオ、旅先で何回も観返すよ」  ウィルクスは片膝を立てて年上の男を睨み、「消してください」と言った。ハイドはどこ吹く風だった。再生して見せてこようとするのでウィルクスはますます眉を吊り上げ、赤くなって焦る。 「見せてくれなくていいです! ……絶対にスマホ失くしたり、警察に捕まったり、情報機関の人間につけ狙われたりしないでくださいよ」 「気をつけるよ。もし誰かがこれを観たら、きみを連れ去りたくなるかもしれないからね」  またそんな口説き文句を、と言おうとしたウィルクスの口をハイドはキスで塞ぐ。覆いかぶさってくる年上の男の首筋に腕を回して、ウィルクスは彼の匂いに思慕を募らせた。  本当は、ハイドが撮ったのは最初のビデオだけだった。以前、同業者がウイルスに感染したパソコンで顧客のデータを流出させて以来、漏らしてはいけない秘密や情報は一部を残して、なるべく早く処分することにしていた。恋人の青年が送ってくれた愛の手紙も、メールも、自分の返信も、ウィルクスが自分の性的指向をカミングアウトする気になるまでは処分することに決めていた。  それに自分だっていつ死ぬかわからない、客死する可能性すらないわけではないのだから。そうハイドは思っている。  唇を離し、見つめあうとウィルクスはかすかに笑って、「無事に帰ってきてくださいね」とささやいた。  ハイドも微笑んでうなずく。こんなときいつも、彼は生と死に隔てがない世界を夢見ている。

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