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5.探偵と刑事と対の顔・一△

 見てもらいたいものがあるのでうちに来てほしい、というメールを恋人からもらって、シドニー・C・ハイドは喜んだ。お互い仕事が忙しく、会うのはしばらくぶりだった。そのとき、ハイドは「それ」について、ほとんど覚えていなかったと言ってよかった。それに、恋人があえて核心をぼかして送ったメールでは伝わりようがない。だから、ハイドが土産代わりに(というよりももっと軽い気持ちで)恋人に見せてあげようと思いたち、黒い紙袋に入れた小さな荷物をデートのその日に持参したのは、まったくの偶然だった。  彼は箱を開け、リモコンに電池を入れ、動くかどうか確認し、また箱に戻して持っていった。 ○  十三歳離れた年下の恋人、エドワード・ウィルクスが、食事をいっしょにどうかと誘った時間は午後八時だった。しかしハイドは以前からの予定で、新しくウィンポール街にオープンした大規模な探偵社の社員と食事をする約束になっていたので、その時間には間に合わなかった。九時で切りあげるつもりだったが、探偵社の社員は同業者であるハイドの話を聞きたがり、情報戦ばりの駆け引きが展開されたため時間はどんどん過ぎていった。  彼は結局十時過ぎにスコットランド・ヤードにほど近いフラットを訪れた。ヤードに勤める刑事のウィルクスは四年ほどそこに一人で住んでいる。  出迎えた彼はグレーのパーカーに白いスウェット、グレーのスウェットパンツを着て、裸足にスリッパを履いていた。どうやら風呂上りらしい。急いで乾かしたため、茶色い短髪はまだ少し湿り気を帯びていた。ウィルクスはハイドのコートをあずかり、それを部屋の隅のコート掛けに掛けながら、しきりに天気の話をしていた。 「今日は雪にならなくてよかったですね。この前の大雪のときは電車も止まって、でもバイクじゃ危なくて乗っていけなくて、大変でした。結局、ヤードまで歩いて通勤したんです。革靴の中に雪が染みこんできたんですよ」  ほんとうに今日は雪にならなくてよかったね、と答えながら、ハイドは勧められたソファに腰を下ろし、黒い紙袋をさりげなく脇に引き寄せた。ウィルクスも袋には気がついていたが、自分から尋ねることはしなかった。彼はコートを掛け終わると、「ちょっと待っててくださいね」と言ってキッチンに向かおうとした。 「なにか飲みませんか? 新鮮なトマト・ジュースの缶を同僚からもらったので、ブラッディ・マリーができますよ」 「そうだな、ありがとう。きみも飲むか?」  ウィルクスはどこか上の空でうなずいて、居間を出ていった。ハイドはエアコンが動くかすかな音を聞きながら、食卓テーブルの上に積み上げられた本の山を観察し、ほとんどすべて読んだことのある本だということに気がついて、ふしぎな気持ちになった。  しばらくして、ウィルクスが黄緑色のドットが散ったプラスチックのトレイにブラッディ・マリーのグラスを二つ載せて、居間に戻ってきた。ハイドに一つ渡し、自分も取ったあと、ややその場に立ち尽くす。彼はハイドの座るソファのそばに簡素な白木の椅子を引っぱってきて腰を下ろした。その時点でハイドはすでに恋人がなにかを言いだしかねていることに気がついていたが、助け舟を出すのはもう少し様子を見てからにしようと考えた。ウィルクスはしっかりした青年だ。それに、なぜためらっているのかはわからないが、十分善戦しているように探偵の目には見えた。ウィルクスはカクテルを続けて二口飲み、しばらく顔を伏せて沈黙したあと、突然口を開いた。 「ハイドさん」 「ん?」  年上の男の薄青い瞳がまっすぐに注がれてウィルクスはややためらいを見せたが、目を伏せると同時に急に怒った顔になって、叩きつけるように言った。 「あの、と、届きました」 「届いた? なにが?」  首を傾げるハイドにウィルクスはそわそわしはじめる。ちらりと年上の恋人の顔を見てみると、演技ではなく察している様子がみじんもない。刑事は椅子から腰を浮かせ、視線を泳がせたあと、ちいさな声で「待っててください」とつぶやいた。いつも姿勢のいい長身の体をやや丸めて、彼は居間を出た。  戻ってくるのに、ブラッディ・マリーをつくって持ってきたときよりも時間がかかった。彼は片手に白い紙袋を持っていた。見上げてくるハイドの前に立ち、犬がうろつくようにうろうろしたあと、また唐突に袋の中に手を入れて、のろのろと中のものを取りだした。  ふだんは鋭い焦げ茶色の瞳がうるんでいる。ハイドはそれをしっかり確認したあと、差しだされたものに視線を向けた。ポップなカラーリングと洗練されたデザインで飾られた長方形の箱を見ても最初はなにかわからなかったが、記憶が甦ってくるとともに、以前ウェブサイトで見たものであることを思いだす。ハイドは目を丸くしたが、やがて屈託なく微笑んだ。 「これ、前にきみが買おうかって言ってたバイブだな。注文して、届いたんだね」  ウィルクスはこくっとうなずいた。ハイドは物珍しそうに箱をためつすがめつして、好奇心に輝く目で「開けていいか?」と尋ねた。ウィルクスはまたうなずいた。 「バック用のバイブか」ハイドは箱を開け、緩衝材とビニール袋に包まれた物体を取りだした。「ネットで見たときも思ったけど、なんだか可愛い形だな」  バイブレーターは、色は紫と言うよりかはラベンダー色と言ったほうがいいような淡いパープルで、素材は柔らかいが、中の芯はしっかりしている。ただの棒というわけではなく、全体的におうとつがあった。さらに、サボテンが腕を伸ばすように短めの突起が一つついている。ハイドは表面を触りながら興味津々という顔をしていた。 「この短いでっぱりでたぶん、中のポイントを刺激するんだろうね。使ってみたか?」  このまえ新しく買ったスニーカー、もう履いたのか? そんな調子で尋ねられ、ウィルクスは一瞬ぽかんとしたあと激しく首を横に振った。すでに頬骨のあたりが赤く染まっている。ふだんの整った、やや強面の面差しは早くも揺らぎはじめていた。目の前に突っ立って固まっている彼に、ハイドは穏やかな微笑みを向ける。 「でも、電池は入れてあるみたいだな。動かすとどうなるんだろう。……へえ」  彼は好奇心の眼差しを熱く注いで、目の前で身をくねらせはじめた玩具をじっと見つめた。 「最近のはすごいな。音も静かだし、手触りはいいし」  そう言いながらしばらく玩具をそのままにしておいた。うごめくそれにウィルクスの視線が釘付けになっている。未知の玩具に怯えながら、でも興味津々の仔犬、とハイドは心の中で思った。スイッチを切って恋人を見上げると、ウィルクスと目が合った。刑事は慌てて逸らした。赤くなった耳を眺めながら、ハイドは自分が持ってきた土産のことを思いだした。出すタイミングは確実に今だ。そう確信し、膝の上にバイブレーターを置いて黒い紙袋に手を伸ばす。  突然ウィルクスが言った。 「あ、あの、あの……な、なんだか、思っていたより、で、でかかったんですが……」  ハイドは自分の膝の上の玩具を見下ろし、恋人を見上げた。目にうっすらと涙を浮かべ歯を食いしばっている、ふだんは凛々しく強面の刑事を見て、ハイドの肉体の底から欲情の火柱が吹きあがった。  彼はにっこり笑って言った。 「確かに、少しサイズが大きめだな。でも、ぼくのを受け入れているんだからこれくらい大丈夫だよ。……これより細いやつはなかったのか?」  ウィルクスはまるで糾弾されたようにびくっとした。目を逸らしながら低い声でつぶやく。 「あ、ありました。でも、その……ほ、細いと……あ、あんまり細いのもどうかなと思って……」  細いともの足りないという言葉を必死で婉曲的に表現しようとしているウィルクスの羞恥心の強さ、いじらしさにハイドの胸は締めつけられる。同時に下腹部が熱くなった。彼は手を伸ばしてウィルクスの手首を握った。年下の男は目を泳がせ、しかしつかまれたことに対してはなんの抵抗もしなかった。ハイドに強く引っぱられ、ウィルクスはよろめいてハイドの腿の上に跨る格好になる。彼に腰を抱かれ、浮いた尻を強く抱き寄せられて、ウィルクスはなすすべなくハイドの両肩をつかむ。抱き寄せられ、自分の股間がハイドの腹に押しつけられた途端、じわじわ背骨を這いのぼってきた興奮がウィルクスの脚のあいだで弾け飛んだ。  彼はハイドの肩口に顔を寄せ、どうしようもなくなり股間を彼の腹に押しつける。 「ご、ごめんなさい……」  震える声でウィルクスがささやくと、ハイドは彼の後頭部と腰を大きな手で抱き寄せた。 「大丈夫だよ、エド。ぼくも同じようになってるから」  そう言われて、ウィルクスの欲情と興奮はさらに募った。自分の尻のあいだに恋人の牡を感じる。昂ぶり、硬く凝固していた。密着しているのはパンツ越しにもかかわらず、布はまるでその熱気でみるみるうちに溶けていきそうに感じた。ウィルクスは無意識に腰を揺すり、昂ぶりにますます尻のあいだを押しつけて、矢のようなその道具に恍惚となった。それでもハイドが手を伸ばして玩具を手に取ると、彼は身を震わせた。 「あの、お、おれ、怖くて……」  欲情と興奮と葛藤に胸を圧迫されながら必死でウィルクスが訴えると、ハイドは指で彼の髪を梳きながら優しい口調でささやきかけた。 「ぼくもいるから、怖くないよ」 「で、でも……お、おれは……」  ウィルクスは恋人の肩をぎゅっと握りしめて、耳の中で脈打つ血の音に苛まれながら、追い詰められて告白した。 「おれは嫌なんです、自分のエロさが」  ハイドが黙ると、ウィルクスは恐怖に駆られたように訴えた。 「わかってると思いますが、おれは、考えただけでこうなっちゃうんです。あれが動いているのを見ただけで、あそこが痛くなるほど勃ってしまうんです。怖いし、嫌なんです。す、すごく……」彼は唾液を飲みこんだ。「すごく、救いようのない魔法にかかったように、淫乱になってしまうんです」 「シンデレラのガラスの靴のように?」  ウィルクスは年上の男の肩をぎゅっとつかんだ。上擦る呼吸を漏らし、目を閉じて、「あなたはわかってないんだ」と言った。 「お、おれが、どれだけ救いようがなくそうなってしまうのか。い、いやらしいことが大好きなんです。でも、け、軽蔑しないでください……」 「しないよ、エド」ハイドは暗示にかけるように、低く落ち着いた声でささやいた。「きみがそういうことが大好きでも。ぼくはすぐにいやらしい気分になってしまう、淫乱なきみが好きなんだ。ぼくだってそういうことが好きだ。いっしょに気持ちよくなろう。そう言っても、やっぱり嫌で怖いか?」  ウィルクスは黙ってハイドの首筋に顔を埋めた。香水と肌の香りが混ざりあったにおいが漂ってきて、ウィルクスは心和むと同時に肉欲の熱気で朦朧となった。 「きみはいつもしっかりして、外ではちゃんとしているんだから、大丈夫だよ」  ハイドの腹に脚のあいだを押しつけ、尻に当たる逞しい塊に朦朧となりながら、ウィルクスは首を横に振った。ハイドは彼の背中を抱いてなだめるように上下にさすった。 「淫乱なきみを、きみは認められないかもしれない。じゃあ、もう一人の自分だと思ってみるのは? きみの中にはまじめでしっかりして潔癖なエドと、淫乱で快楽に弱いエドがいる。ベッドにいるときだけ、もう一人のエドを自由にしてあげるんだ。そうすることで、彼はきっときみのことを助けてくれる」  がっしりした肩を抱きしめたまま、ウィルクスは目を閉じていた。呼吸を落ち着けようと努力していた。ハイドの言葉は彼の耳に、甘美な春風のように聞こえた。恋人の体を抱いて、ハイドはさらにささやいた。 「ぼくはどんなきみでも嫌いにならない。絶対に」 「た、例えば、行為の最中に、失禁してもですか?」 「ああ、嫌いにならないよ。例えきみが本当の意味で淫売にふさわしい人間だったとしても。強姦魔であっても。例えだれかをなぶり殺してきたとしても。ぼくをとっくに裏切っていたとしても。絶対に嫌いにならないよ」  ハイドはそう言って顔を上げた。ウィルクスの顔を覗きこみ、わずかに表情を曇らせてささやく。 「ごめん、怖かったかな……」  ウィルクスは答えなかった。うつむいて唇を噛み、真っ赤になった顔が青ざめたかに見えた。彼は肩を震わせ、背を丸めてハイドに抱きついた。 「痛いんです」耳元でウィルクスが言った。「た……勃っちゃって。まだなんにもしてないのに、い、いったらどうしよう」 「いっても、大丈夫だよ。……ベッドまで待てるか? ここでする?」  しばらく黙ったあと、ウィルクスは首をかすかに縦に振った。ハイドは彼の頭を撫で、耳の薄いふちを軽く噛んだ。年下の男は震えて、それでも狂おしく次の行動を待っていた。

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