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6.探偵と刑事と強い心

 恋人が寝室の営みに乗ってこない、どころか拒まれる。二週間ほど前のことだ。 「今夜はちょっと……」  そう言われて、シドニー・C・ハイドは速やかに身を引いた。十三歳下の恋人、エドワード・ウィルクスは自宅のソファに腰を下ろしたまま、隣に座るハイドのほうを向いてすまなそうな顔になる。 「すみません、あんまりそういう気分じゃなくて……」  謝るウィルクスに、ハイドは首を振る。 「気にしなくていいよ。気分が乗らないときにむりにする必要はないんだ」  悲しげな表情で微笑む年下の青年の顔が青白く見えて、ハイドはなんだか心配になった。体調が悪いのかと尋ねると、そうではないんですが、と曖昧な答えが返ってくる。しかし、尋問をする気はない。ハイドが微笑んで恋人の膝を軽くたたくと、ウィルクスは目を細めて、映画観ませんかと尋ねた。  気もそぞろになっていたハイドは思わず『オーメン』を選んで、DVDをセットした以降は甘い空気が微塵もなくなった。 「その次のデートでも断られました。観た映画は『シャイニング』です。その次も断られました。ついおとといなんですが。映画は『マルホランド・ドライブ』。ホラーより怖かったですよ。ウィルクス君は泣いてましたが」  そう言って、ハイドは両手をだらりと膝の上に垂らした。眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情で目の前の無表情な顔を見る。ハイドの異母兄、大学教授のフレデリックは見つめられて咳払いした。 「ウィルクスさんだって、その気になれないときはあるだろう。おまえも四十なんだから、焦らず彼に合わせてあげるべきだよ」 「同感。それにしてももっとムードのある映画を観ろよ。なんでことごとくホラーとダークなサスペンスなんだ?」  フレデリックの隣の椅子に腰を下ろし、脚を組んだ作家のイヴ・ド・ユベールが呆れた顔で言う。シドニー・ハイドは首を傾げた。 「怖い映画なら抱きついてくれるかなと思って」 「ウィルクスさんはどう見てもそういうタイプじゃないだろ。強面の刑事だぞ」 「でも、手は握らせてくれたよ」  結局のろけかい、とユベールはますます呆れた口調で言うが、顔はニヤニヤしていた。教授は無表情で紅茶を飲んでいる。  ハイド家の次男フレデリック・N・ハイドは、色のあせた金髪、骸骨のように痩せた顔立ちの背の高い男だった。年齢はシドニーと六つ離れた四十六歳、しかし弟より白髪はずっと少ない。だが、一つ違いの長兄アイザックに比べて顔には皺が多かった。  兄と母親を同じにするフレデリックの瞳は、緑と茶色のあわさったヘーゼルナッツ色だ。鋭いその目は落ち窪んだ眼窩の奥から弟をじっと見つめている。まるで実験のとき、使用する化学薬品を計量しているかのように。  それとは反対に、イヴ・ド・ユベールの目はあくまで下世話な好奇心で輝いている。それに、シドニーを慰めてやりたい気持ちもちょっぴり。  作家である彼はしっかり理性的でありながら、「感情には、理性にはまったく知られぬ感情の理屈がある」ことも真実だと思っている。感覚的なものも大事にして、直感は鋭い。ユベールのそんな素質は彼の容貌、顔立ちにもあらわれていた。  官能的なのだ。感覚や感情を重んじるユベールは己の欲望にも忠実に、いつも洗練された色香を振りまいている。完璧にコントロールされた色香だ。暴走しないし、無邪気でもないし、持て余しもしない。そのために、彼はおもしろいように男たちを惹きつけることができる。 (ウィルクスもハイドには言っていないが、ユベールの性的魅力に惹かれる瞬間がある。もちろん、ただ一瞬惹かれるだけだ) 「おれの強敵はきみだけだよ、シド」とユベールは言う。  彼は留学生で、かつてシドニーが大学生だったころ彼の一年先輩だった。二人の因縁はそのときから続いている。  ユベールはシドニーに愛を告白した。シドニーはそれを、自分は同性愛者ではないからとすげなく断った。 「これまで断られたことは、おれはほぼ皆無なんだよ」  今でもそう言うユベールに、シドニーは端的に答える。 「きみの殺虫剤的な魅力でぼくは落とせない」  趣きがないなあとユベールは呆れる。  そんな、シドニーと(ある程度)関係の深い二人が同じ場所にいるのは単なる偶然だった。  休暇を利用してロンドンに出たついでに弟の様子を見にきた教授と、映画の脚本を書くことになって、ぶつくさ言いながら取材に渡英してきたフランス人作家は、同じ時間にシドニーの探偵事務所ではちあわせた。以前にも会ったことがあるので、二人は旧交をあたためるようにすぐ打ち解けた。  そして場が和んできたところで、悩み相談がはじまったのだ。  シドニーは思わずぽつりと胸のつかえを彼らに話していた。しかし彼は話し終えたところで我に返った。同性愛者で、恋愛の機微に関しては百戦錬磨のユベールに相談するならまだしも、独身主義者の兄には話さないほうがよかったかもしれない。フレデリックは無表情で黙りこんでしまった。 「フレッド、なんだかあなたには話さないほうがよかったですね」  ほんのかすかに赤くなっている弟を見て教授は目を丸くする。 「おまえの辞書に『恥ずかしい』とか『照れる』が載っていたのは驚きだな。別に気にしなくてもいい、おまえたちの性生活を聞いたところでなにも思わないよ」  フレデリックは弟が青年とつきあっていることを知って、「同性愛には嫌悪を感じるが、理性的に考えるとそういう性愛の形もあることを認めざるを得ない」と言い切った人物である。そんな彼も、ウィルクスのことは気に入っていた。まじめな若者で、浮世離れした弟にめげず、彼をまっすぐ愛してくれるところを有難いと思っていた。シドニーはこれまで何人もの女とつきあってきたが、その浮世離れした性格でいつも最終的には愛想を尽かされる。フレデリックはそれを知っていたので、ウィルクスになら弟を任せられるなと思っていた。リボンを掛けて、末永くよろしくと進呈したい気分ですらある。  いっぽう、ユベールは完全におもしろがっていた。義眼をはめているせいで斜視気味になった黒っぽい左目がニヤニヤ笑いと共に細められ、癖のある色香を放っている。 「なんにせよ、愛の営みは大事だぞ」と彼は無責任に言った。シドニーは眉を寄せ、深刻な顔になる。 「拒まれることは初めてなのか?」  ユベールの質問に、シドニー・ハイドは暗い目を伏せた。 「前も拒まれることはあったが、その次のデートでは受け入れてもらえたよ。三回連続なんてことは……。愛想を尽かされたのかな」  気落ちしているシドニーを見て、大柄な男が肩を落としている姿は可愛いな、とユベールは内心思っていた。フレデリックは少し心配そうな顔になる。 「別れ話の兆候はあるのかね?」  気を遣って尋ねた兄に、弟は思いだそうとして虚空を見つめる。 「そんなことはなかったと思いますが。手をつなぐのも、キスも許してくれます。でも、そう言われればいつもどことなく緊張していたような……」 「子どもができたのを言いだしかねているんだな」  真顔で言ったユベールにシドニーは明らかに狼狽した。あいかわらず、自分に子どもができることが彼のウィーク・ポイントだった。冷静なときは、ウィルクスとつきあっていれば絶対に弱点を踏み抜かれることはないとわかって安心しているのだが、動揺しているときはそうではない。 「落ち着けよ、シド」  ユベールに言われて、彼は眉を吊り上げた。 「いいかげんなことを言わないでくれないか、イヴ。真剣なんだぞ」 「きみは頭がいいが、一部、ちょっと緩いな」  悪意なく言うユベール、普段は穏やかな顔を曇らせているシドニー、その目の前で兄は考えこんでいた。彼は顔を上げると弟の目を見て言った。 「悩みを打ち明けることは健康のためにはいいと思うが、わたしたちの前であれこれ言ってもはじまらないんじゃないかね。本人に訊いてみればいいだろう」 「……兄さんは端的なことを良しとしているんでしたね」  シドニーはため息をつくと、大きな片手で顔を覆った。目を擦る。フレデリックは静かに尋ねた。 「真実を知る勇気が出ないのか?」 「心の準備ができていないんです」 「準備ができる日は、おまえには一生こないだろう。おまえはウィルクスさんが大好きだからな」  目を擦っていた手を下ろし、シドニーは兄の目を見返した。 「はい、兄さん」  兄弟のやりとりを見守っていたユベールが、思うところありというかんじで口を開いた。 「落ち込むのはまだ早いぞ、シド。きみに愛想を尽かしてるんじゃなくて、もっと別の理由があるかもしれないよ。例えば、ウィルクスさんが誰かから、きみとつきあっていることを非難されて、気にしているとか」 「決闘を申し込むよ」  シドニーは真顔で言った。ユベールは肩をすくめる。 「そもそもウィルクスさんは、きみとつきあっていることをまわりにカミングアウトしてるのか?」 「してないと思う。職場の人たちも知らないよ。……いや、ストライカーさんという鋭い刑事はいるが。だが、彼だって確信はしていないはずだ。知っているのはきみや兄、二、三人の友人、ごく一部の人間だけだ」 「ホモフォビア連中の風当たりは強いからな。密かに悩んでいるのかもしれないぞ」 「それなら言ってくれればいいのに」シドニーは悲しそうに言ったあと、困った顔で微笑んだ。「だが、ウィルクス君はあまり自分の悩みを口にしないからな」 「お兄さんの言う通りだと思うぞ、シド。本人に訊いてみるのがいちばんいいよ」 「確かに、それがいちばんだが……」  躊躇しているシドニーに、兄が慰めの言葉を掛けようとする。ユベールは上着のポケットからスマートフォンを取りだすと、すばやく連絡先をタップして電話を掛けた。コールの音がしてシドニーの目が丸くなる。 「どこに掛けてるんだ?」  いいからいいから、というしぐさでシドニーをなだめ、ユベールは耳にスマートフォンを当てたままにこやかに言った。 「あ、もしもし? ウィルクスさんですか?」  探偵は唖然とする。教授は手を伸ばして弟の膝を軽く叩いた。ユベールは笑顔で続ける。 「今、仕事中ですか? ああ、休みなのか。ちょうどよかった。今からシドの家に来てくれないか? わたしとフレデリックさんがいるが気にしないで。そう、シドが訊きたいことがあるそうだから」  電話でもいいですよ、と言ったウィルクスの声はその場の全員に聞こえていた。ユベールは首を振る。 「直接、会って話したいそうだ。悪いんだが、お越し願えるかな? ありがとう。じゃあ、またあとで」  電話を切ると、ユベールはまじめな顔でシドニーを見た。 「死を乗り越えなければ、本当に生きることはできないんだぞ」 「作家みたいなことを言わないでくれ」  探偵は眉を寄せてうめき、つぶやいた。 「ありがとうイヴ、勇気を出すよ」  そうしろそうしろと言うユベールの隣で、フレデリックは膝に乗せたソーサーに飲みほしたカップを置き、鋭い目を和らげて弟に言った。 「万が一のことがあれば、やけ酒につきあおう。午後九時まででいいならだが」 「ありがとうございます、兄さん」  そう言ってシドニーはうつむき、膝のあいだで両手を擦りあわせた。背中に負う影が濃くなっているのを目にして、作家と教授は顔を見合わせた。その悲壮感は、もし犯罪シンジケートの根城を単身訪れたとしてもこれほどではないだろうという感じだった。しかしユベールがあえて別の話題を出して誘いかけると、シドニーはそれに乗った。  三人はしばらくアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』について談笑した。  三十分が経とうとするころ、事務所兼居間の扉をノックする音がした。どうぞ、とシドニーが普段と変わらぬ声で返事をすると、ネックウォーマーで鼻まで覆ったウィルクスが入ってきた。 「よく来てくれたね、ウィルクス君。バイクで来たのか?」  シドニーが声をかけると、ウィルクスはうなずいてネックウォーマーを押し下げた。手袋を脱ぎながら「そろそろ雪になりそうですよ」と言った。彼は作家と教授に礼儀正しく目礼した。アイザックも目礼を返す。ユベールが椅子の中からにこやかに手を振った。 「ようこそ刑事さん、さあ座って。シドの隣に行くかい?」 「ええと、そうですね。隣の椅子、座ってもいいですか?」  シドニーはうなずいて腰を上げかけた。 「お茶を淹れてくるから待っててくれ」  ユベールがそれを止める。 「お茶ならおれが淹れてくるから、きみは座ってろよ。あ、でも茶葉の場所がわからないな」  ぼくがするから……と言いかけたシドニーを制し、兄がさりげなく立ちあがった。 「わたしはわかるよ。ユベールさん、いっしょに淹れにいきましょうか。我々のお茶も濃くなってしまったし」  そうしましょうか、と答えてユベールはさっさと部屋から出ていく。フレデリックも振り返らず、行ってしまった。ウィルクスは立ったまま二人を見送り、ハイドのほうを振り向いた。  部屋に緊張が走った。  ハイドはウィルクスに椅子を勧めるよりも自分が立ちあがってしまった。ウィルクスは片手に手袋を持ったまま、ハイドを見上げた。探偵の胸の中では心臓が暴れ、拳を力強く肋骨に叩きつけている。なだめるようにハイドは右手を胸に押し当てた。ウィルクスの目を見ると、刑事は首を傾げた。 「どうしたんですか、ハイドさん。なんだか怖い顔をしてますが。おれに訊きたいことって、なんですか?」  ハイドは息を吸うと口を開いた。 「エド……きみはここ三回、ぼくとデートはしても寝るのは拒んだね」  ウィルクスの目は一瞬泳いだ。なにかを隠しているように見えて、ハイドの心臓が不穏な音を立てる。彼は両手の拳を握りしめ、身を乗りだすようにしてまた口を開いた。 「もちろん、したくなければしなくていいんだ。むりをさせたくはない。ただ、理由があるんじゃないかと思ってね。言いだしにくいことかもしれないが……」  そう言いながら、ハイドは自分の体が汗ばみ、燃えている感覚を覚えた。だが指先はとても冷たく、彼は逸らし方を忘れた目でウィルクスの瞳を見据えたままだった。沈黙が続く。ハイドは勇気をふりしぼり、「別れたいと思っているのか?」と尋ねようとした。  ふいにウィルクスは目を逸らし、眉を吊り上げて赤くなった。  ハイドはきょとんとする。彼はどうして照れているのだろう、と思った。ウィルクスは手袋をパンツの尻ポケットにつっこむと改めてハイドの目を見つめた。刑事の目はどこか勇ましかった。 「ハイドさん、あなたに言いたいことがある」ウィルクスは息を吸った。「おれと結婚してくれませんか?」  ハイドはますますぽかんとした。ウィルクスの目はさらに鋭くなる。年上の男は気がついて、「あっ」と言った。 「プロポーズしてくれたのか?」  ウィルクスは赤くなったまま眉を吊り上げ、背筋を伸ばした。 「どう聞いてもそうでしょう」  冷静な声を聞いて、ハイドの胸の奥で星がはじけた。彼は両手を伸ばすとウィルクスの手を握った。  刑事は恋人の目の奥を覗きこむと、薄青いそこに浮かんだ涙を見てはにかむように微笑んだ。 「あの、ずっと前から言いだそうと思っていたんですが、なかなか勇気が出なくて……。それで、ベッドの誘いも断ってしまいました」 「え、それはなぜ?」 「あなたと寝たあと、気分が緩んでるときに言おうかとも思ったんですが、情事のあとに言うのって、なんというかその場限りで都合のいいことを言ってる、みたいな気がちょっとして……」 「そんなにいろいろ気にしててくれたのか?」 「勇気を出すまでに三回かかってしまいました。でも今回、ユベールさんに電話をもらって、今しかないと思ったんです」 「きみは強い子だな、エド。ぼくなんかよりずっと勇気があって、強い子だ」  ハイドが目を細めて言うと、ウィルクスは微笑んだ。 「あのホラー映画上映会が勇気をくれましたよ。怖いことがあってもかまわないと思ったんです。それで、あの……ハイドさん、返事は?」  ささやくウィルクスの両手をハイドがぎゅっと握った。二人は互いの瞳を見つめた。 「よろこんで、きみの伴侶になるよ」  ウィルクスは目を閉じ、ハイドの背中に両腕をまわした。ハイドは彼をきつく抱きしめ、二人は息を殺した。抱きあう両手の下に熱と厚みを感じる。肉体と肉体があり、けっしてひとつになれないことがかえって彼らの心を強くした。ハイドはつぶやいた。 「いつか、ぼくが言うんだろうと思っていた」 「でも、おれが言うことになりましたね。あなたのいつかを信じていなかったわけじゃない。でもおれは、思い立つとそのことばかり考えてしまうから」 「いま結婚してほしい」という思いは、世の中が変わり、結婚できるとわかったら、「いつか結婚してほしい」にすり替わる。ハイドはそのことをウィルクスには言わなかった。 「きみは強い子だ」  ハイドがもう一度言うと、恋人は笑った。 「ええ、そうですよ」輝く瞳で彼は言った。「でも、強いだけじゃだめだ。本当の強さって、壊れないことじゃないと思うんです。なんとなくだけど」  そのとき、ハイドは思った。そう、壊れないことじゃない。なぜなら自分は彼を何度も壊してきた、自殺しようとして。彼の好意を無に帰すような振る舞いをして。性に対しても潔癖でありたいと望む彼の鎧を粉々に砕き、淫乱な本性を白日の下にさらした。  それでも彼はしなやかに甦る。傷ついた体を引きずりながら、今でもそばにいる。 「いつも思うんだ。ぼくを置いていくのは、きっときみのほうだよ」  抱きしめたままハイドがささやくと、ウィルクスは彼の腰を両手できつく抱いた。そうありたいですねと答えた。  二人は黙ったまま抱きあっていた。  階段をのぼる足音がして人の話し声が聞こえてきた。教授と作家のほうは、扉の向こうから声が聞こえてこないことに気がついている。  ユベールが事務所の扉をノックすると、穏やかな声が「どうぞ」と言った。

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