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7.探偵と刑事と妻
婚約したあとも日々はつつがなく過ぎた。シドニー・C・ハイドとエドワード・ウィルクスは、結婚の日取りを八月に決めた。他にも決めたことはいくつかある。
結婚式は挙げず身内のパーティを開こう。結婚の一か月前には、ウィルクスは職場にカミングアウト及び、結婚の報告をする。それから自分のフラットから引っ越して、ハイドの家に住む。彼の寝室は狭くてダブルベッドを置けないから、ウィルクスはひとまず、客用寝室で寝起きする。
シドニー・ハイドの異母兄でいちばん上の兄、アイザックはパーティに呼ばないということも決めた。シドニーは穏やかな口調でウィルクスに言った。
「ぼくも兄貴の結婚式には呼ばれなかったから、いいんだ。ぼくはふだん、一族の一員にほとんどカウントされていないし。それから、きみが気にするかもしれないから言っておく。そういう事情で、アイザックも『階級が違う』なんて難癖はつけないよ。ぼくは今や一介の私立探偵だからね」
そう言ったシドニー・ハイドはなんだかうれしそうだった。
階級の違い以前に男同士であることは許されるのだろうか。ウィルクスはそう思ったが、婚約者が相変わらずのおおらかさで「大丈夫」と請け負うので、それ以上考えないことにした。
ウィルクスも父親を呼ばないことに決めた。彼と父親はほとんど絶縁状態だ。厳しい父との二人暮らしに嫌気がさしたエドワードが十代で家を離れ、ロンドンに出て以来、連絡をとったのは一度だけ。スコットランド・ヤードに就職した報告だけだった。今回、結婚の報告はすることにした。
息子が男と結婚したと聞いたら、親父はなんて思うかな。きっと嫌だろうなとエドワードは思う。だから復讐のつもりで、そして義務心から手紙で報告することにした(お互いにメールアドレスを知らないし、電話は気づまりだ)。
二人とも決めたことを手帳にメモした。まだ若く、自分からハイドにプロポーズした手前もあって、ウィルクスは焦りがちだった。ハイドはそれをなだめ、まだこんなに時間があるから急いで決めなくても大丈夫だと言う。穏やかな低い声でそう言われると、ハイドのおおらかさとゆったりした物腰に感化されて、ウィルクスは気負いを緩める。それを何度か繰り返した。
ウィルクスは激務が基本の刑事で、ハイドもよく声がかかる私立探偵だ。お互い忙しく、会えないこともあり、電話やメールも頻繁ではない。それでも、二人は時間があえばぽつぽつとそんな話をした。
年下の恋人が焦るのもむりはない、とハイドは思う。なにせ初めての結婚だし、アドバイスをしてくれるような人間は周りにいないようだ。
ハイドは落ち着いていた。彼にとっては二度目の結婚となる。
二月も半ばを過ぎ、ハイドの四十一回目の誕生日を目前にしたこの日も、二人はデートがてら結婚生活のことを話しあっていた。
○
「寝室のことはもう話したね」飲み干した紅茶のカップをテーブルの端に置き、ハイドが言った。「客用寝室を好きに使ってくれ。きみの持ち物は本がかなりあるようだね。寝室に本棚を置くといいよ。薄型でいいならそれくらいのスペースはある。今度、見にいこう」
ウィルクスはうなずいて、カップの底にたまった砂糖をスプーンでかき混ぜた。探偵事務所兼居間の奥に視線を向ける。デスクの向こうに、壁に造りつけられた天井まで届く本棚がある。ウィルクスは目を輝かせた。
「あの本棚の本、おれも読んでいいですか?」
「もちろん、いいよ。きみの仕事に使える本もあるし、黄金期の推理小説も置いてある。それからユベールの書いた本。興味あるか?」
ハイドの大学時代の先輩で現在作家の男の名を出すと、ウィルクスはこくりとうなずいた。
「ユベールさんは純文学作家でしたっけ?」
「かぎりなくポルノに近い小説を書く純文学作家だ」ハイドは重々しく言った。「そういう描写がふんだんに入っていてたびたび物議をかもしだしている。そしてとても売れているんだ。新しい本が出たら毎回ぼくに送りつけてきてね。おかずにしろなどと言ってくる」
猥談があまり得意ではないウィルクスは引き攣った顔をした。ハイドは飄々としている。
「中身はフランス語なんだ。きみはフランス語がわからないと言っていたな。ぼくが読んであげるよ」
「……遠慮します。おれはポルノよりミステリがいい」
「きみがユベールにねだったら、彼はきっと書いてくれるよ」
おもしろそうに言って、ハイドは急に腕時計を見た。ちらりと視線を落としたかんじで、表情は変わらなかった。彼は本棚を見ているウィルクスに向かって言った。
「ウィルクス君、悪いんだが少し席を外してもらえないか? あと十五分くらいで来客があるんだ」
ウィルクスは本棚のほうから振り返り、あっさり「わかりました」と答えた。
彼は慣れていた。ハイドは自宅を仕事場にしているうえ、なにかと融通をきかせるから、とんでもない時間やなんの前触れもなく依頼客がやってきたりする。
ウィルクスも仕事で急に呼び出しがあることに慣れていたし、ハイドの仕事と彼のやりかたにはなんら不満を抱いていない。例えデートの途中だろうと席を外してほしいと言われれば、外を一時間ばかりうろつくことも苦にはならなかった(近所にウィルクス好みの、怪奇小説とミステリが充実したとてもマニアックでおもしろい本屋があるのだ)。
ハイドは恋人が了承してくれたので、ほっと息をついた。自分のカップを銀のトレイに載せ、椅子から腰をあげる。ウィルクスもそうした。彼がソファに置いたメッセンジャー・バッグのほうに手を伸ばすと、ハイドは「終わったら電話するから」と言う。ウィルクスはうなずいた。腰をかがめてバッグをとり、振り向く。そのとき、彼は部屋の向こう、対角線上にある閉ざされた扉を見ていた。
ノックの音がした。
ハイドの肩がかすかにぴくっと動いた。彼は扉のほうを振り返り、一瞬言葉に詰まった。彼が「どうぞ」とも「少しお待ちください」とも言わぬまに、扉が開いた。廊下の絞られた明かりに背後からぼんやりと照らされ部屋に入ってきた客を見て、ウィルクスは一瞬で惹きつけられた。
若い女だった。
灰色がかった、柔らかな乳白色の肌の女で、見事なブロンドの髪は波打ちながら背中へ流れている。かなり小柄な体を白いハイネックのセーターと濃いブルーのジャンパースカートで包み、柔らかい革でできた、茶色い膝丈のブーツを履いていた。華奢な片手に脱いだトレンチコートを持っている。
女は濃い青色の瞳でじっとハイドを見つめた。長く、一本一本が上を向いた透きとおる睫毛の奥で、大きなその瞳は冷たく輝いている。小さな美しい顔には薄茶色のそばかすが浮かび、それは彼女の手にも浮かびあがっていた。女は微動だにせず扉の前にたたずみ、ハイドの目を捕らえて弱みを見せなかった。
ハイドは女の目を見つめていたが、急に黒々した眉をやや下げた。
「早かったね。約束は八時三十分だよ」
「遅れるよりいいんじゃない?」
女は冷たい声で答えた。部屋が静かになる。ウィルクスはまだ彼女に見惚れていた。しかし、女は彼のほうをちらとも見なかった。まるで自分の青い瞳がナイフででもあるかのように、眼差しをハイドの目に突き刺している。
突然ハイドが振り返り、ウィルクスの肩に触れた。刑事は我にかえり、ハイドのほうを向く。年上の恋人は今はまた女のほうを見ていた。
「紹介するよ、アリス。友人のエドワード・ウィルクス君。ヤードの刑事だ。ウィルクス君」ハイドが振り向き、二人の目が合う。静かな声でハイドが言った。
「彼女はアリス。――ぼくの別れた妻だ」
ウィルクスの胸の中で、心臓はきしむ床を踏んだときのように音高くぎしっと鳴った。彼は女の顔を見つめた。アリスは右手でコートを持つ左手首に触れると、すべるような眼差しでウィルクスを見つめ、「初めまして」と言った。金属的な高い声。まくしたてるとさぞ不愉快な声になるだろう。しかし、ウィルクスは気がついていた。歌ったらきっと美しい声だ。今、彼女の声はぴりぴりと張りつめていた。
でも、それじゃあおかしくないか? ウィルクスはまずそう思った。ハイドが結婚していたのは十数年は昔の話だ。それなのに、アリスは二十歳を三つか四つしか出ていないように見える。かなり若いころに結婚したのだろうか? 十六歳のころとか。それでも、彼女はウィルクスより年上ということになる。
大柄な体をそっと前に出して、ハイドは妻を手招きした。アリスが刺すような目を向ける。
「やめて」落ち着いた、凍ったような声で言った。「あなたの犬じゃないのよ」
ウィルクスは息苦しくなった。おれなら、あんなふうに呼ばれてもかまわない。犬みたいに尻尾を振ってついていく。急にそんな自分の姿に気がついて気が滅入った。ウィルクスの心情に気がついたかのように、アリスはちらと彼を見た。ハイドは手招きした手の行き場をなくして挙げたままにしていたが、ふいに腕を下ろしてウィルクスのほうを向いた。刑事は恋人の薄青い目にも、表情にも、なんの感情も読むことはできなかった。
ハイドは低い声で言った。
「ウィルクス君、すまないが少し席を外してくれないか?」
ウィルクスは床に引きずったバッグを拾いあげ、背中に背負おうとした。アリスは背筋を伸ばし、コートを持ち直す。その下に隠れた小さな白いハンドバッグが揺れた。彼女は後ろを向くと扉を閉めた。外から漏れる明かりが消え、彼女は部屋の中央へ進み出てくる。事務所の白っぽい明かりに照らされて、肌は青ざめて光っていた。アリスは言った。
「出ていっていただかなくていいわよ、シド。わたし、すぐに帰るから。お祝いを言いにきたの」
「お祝い?」
「結婚するそうね」
彼女がそう言った数秒後に、ハイドはやや背を反らせるように体をまっすぐにした。ウィルクスが見ると、彼は穏やかな笑顔を浮かべている。すぐにあっさりうなずいた。
「そうなんだ。わざわざありがとう、アリス」
「また踏みだすのね?」
「ああ。幸い、いい相手がいたから」
アリスはハイドの目を凝視していた。彼女の青い瞳は微動だにせず、きらきら輝いている。銀色の杭のようだとウィルクスは思った。例えば吸血鬼の胸に打つような。その目の力があまりに強いので、彼は自分が刺されたような痛みを感じた。だが、アリスの目は一切ウィルクスのほうに向いていない。薄く白いまぶたが半ば降りて、その下からハイドを見ている。ハイドも微動だにせず、妻の目を見返し続けている。彼もウィルクスのほうは一切見なかった。眼差しと眼差しがぶつかり合う。ハイドとアリスはまるで見えない水槽に閉じこめられているかのようだった。中にたたえた水が凍りつき、二人も凍りついてしまった。
ぴくりとも動かないハイドの彫りの深い横顔を見て、ウィルクスの目に彼は狼そっくりに見えた。つがいを選ぶけだもののようだった。相手の出方をうかがう興味と、吟味する冷徹さがその瞳に浮かんでいる。それを嗤うように、アリスは顎をツンと上げた。
「よかったわね。だからわたしを選んだのは完璧に失敗だった、ってこと?」
「きみのことは一言も言っていないじゃないか」
ため息を押し殺すようにハイドが言った。トレイに置いたカップを片手でいじって、小首をかしげる。
「きみは自分の幸運を喜んでいるんだと思っていた。ぼくみたいな甲斐性のない男から逃げることができて」
白い額に青筋が走ったのがウィルクスには見えるようだった。
「なに、それ。本気で言ってるの?」アリスは肩にかかる髪を払い、怒りが燃える目で夫を睨みつけた。ほとんど色のない唇の端が震えている。「わたしがどんなにあなたを愛しているか、あなたは知ってるくせに」
「わかってたよ。だが、それはもちろん別れる前の話で……」
「別れた後もよ。わたしの気持ちを勝手に解決済みにしないで。あなたこそ、自分の情熱をなかったことにするつもりなの?」
「ぼくは若かったんだ、それで……」
「今は賢くなったと言いたいの? 間違いに気がついたって? そうやって思いあがっていればいいのよ。わかってるわ。あなたがわたしを嫌いになったって。今でもそれが許せない」
アリスは両手を握りしめ、勢いよく開いた。そのはずみでバッグが大きな音を立てて床に転がった。ハイドは歩いていって身をかがめ、バッグを拾った。アリスの前に立つと、大柄で逞しいハイドは小柄で華奢な彼女をすっぽり覆ってしまうようだった。彼はバッグを渡そうとした。
「アリス、ぼくらはもう別れているんだ。それに、きみのことは嫌いじゃない」
アリスは夫を鋭い目で睨んだ。ハイドは困った顔で、バッグを持ったまま薄青い瞳を細めている。
「そうじゃなくて、いっしょに暮していけないと思っただけだよ」
「あなたはわたしからなにもかも奪ったわ」押し殺した声でアリスが言った。「わたしの心。平穏。長い時間。他の男への愛。わたしの処女」
はっきり言った彼女の言葉に、ハイドはそのとき初めて動揺したそぶりを見せた。とっさにウィルクスのほうに顔を向け、「聞かなかったことにしてほしい」と目で言った。それは完全に、ハイドの紳士としての気遣いから出た言葉だった。女性がそういう類のことを口にしたら、男は聞かずにいるべきだと思っているのだ。その気遣いはウィルクスも理解できる。だから無表情な顔で目を伏せた。
ただ、内心で思った。なんて激しい女なんだ。確かに、いっしょに暮らすには相当の覚悟と努力がいりそうだ。
「でも、奪ったものを返してほしいとは言わないわ」アリスはハイドの目を見つめて言った。「もうあなたにあげたものだもの。わたしはずっとあなたが好きよ。でも、結婚おめでとう。あなたが新しい女性と、幸せな人生を過ごせることを祈っているわ」
「本当にそう思っているのか?」
そのとき初めてアリスの表情が変化した。目が見開かれ、すぐにまぶたがかぶさった。小鼻がひくひく震えて、彼女が涙をこらえていることがウィルクスにもはっきりわかった。
「思っているわ」低い声でアリスが言った。「この世界の誰よりもそう思っているわ。だって、あなたは幸せから遠い人だもの。あなたはなんでも受け入れる。すべてどうだっていいからそれができる。まるで自分が開いた窓になったみたいに。だから、受け入れるくせに心は満たされないのよ。そして身軽に、あらゆる垣根を飛び越える。人種や階級だけじゃない。生死のへだたりも。つい、死へ踏みだそうとしてしまう。まだそんなふうに生きているの?」
「そうだよ」ハイドは答えた。「ぼくはいまもそんなふうに生きている」
そのとき、ウィルクスはこの男の背中にしがみつきたくなった。腕に抱え、思いきり引っぱって、彼をこの世界に引き留めたかった。そうしないと、ハイドの足の爪先はもう世界の淵に触れそうだった。彼は今にもそこから身投げしそうに見えた。
そのとき、ウィルクスとアリスの目が合った。彼女はすぐにハイドのほうを向いた。
「わたし、あなたのことがとても心配なのよ」
ハイドはバッグを手に持ったままアリスの顔を見下ろして、ありがとうと言った。
「きみも、どうぞ幸せに」
バッグを受けとるアリスの手は震えていなかった。伸ばした腕は少しだけぎこちなかった。彼女もまた、ありがとうと答えた。ハイドは急に後ろを振り向くとウィルクスの目を見て、彼の腕をとった。
「アリス、紹介するよ」ハイドはウィルクスの腕を握り、自分のほうに引き寄せた。「彼がぼくの結婚相手だ」
またウィルクスとアリスの目が合った。彼女は目を見開いた。それから、ゆっくりまぶたが半ばまで降りた。
「そう」顎をツンとさせ、彼女は静かに言った。「あなたが飛び越えるものの中に『性別』も入っているわけね」
ハイドはうなずいた。彼は穏やかに言った。
「彼はまじめで、頑張り屋で、一途で優しい人でね。ぼくにはもったいない相手なんだ」
「やめて。あなたを愛しているわたしの前でそれを言うの? 相変わらず欠落のある人ね。大事ななにかをどこに置いてきたの?」
「生まれつきだろうね」
ハイドはそれで話を片付けようとした。アリスはきっとなって夫を睨んだ。それからつぶやいた。
「心安らかに生きてほしいのよ。それだけなのよ。でも、わたしの力ではできなかった。そう言ったら、あなたは『奇跡なんか期待していない』って言う?」
「いや、言わないよ。ぼくは奇跡が起こればいいといつも思っている。だが、奇跡が起こる可能性には期待していない。……外は寒いよ、アリス。気をつけて帰りなさい」
わかったわ、とアリスは言った。ハイドの手の力が緩み、ウィルクスの腕は自由になった。彼はアリスに向かって、とっさに言っていた。
「おれも思っています。心安らかに生きてほしいと」
アリスはなにも言わなかった。ただ冷ややかな目でウィルクスを見た。彼女は自分で扉を開け、出ていった。
ハイドがため息をつく。彼はウィルクスに向きなおると気遣う顔で言った。
「びっくりさせてすまない。アリスはとても激しい女性でね。芯が強くて、意気地があって、愛らしい人でもあるんだが」
はっきり言ったハイドの言葉にも、このときのウィルクスはなぜか嫉妬しなかった。疲れたような薄青い瞳を見つめ、穏やかな微笑みを見た。ハイドは腕時計で時間を確認すると、テーブルの端に置いた銀のトレイを片付けようと手を伸ばした。しかしその手を途中で止めて言った。
「彼女はどこで聞いてきたのかな……結婚のことを。自分から言うつもりはなかったんだが」
彼はテーブルから顔を上げて、わずかに開いたカーテンの向こう、暗闇に沈む窓の外を見ようと目を凝らした。窓ガラスに二人の姿がおぼろげに映っていた。
「雪になっていないといいんだが。……エド?」
ハイドが黙っている恋人のほうに顔を向けると、ウィルクスも窓の外を見ていた。
「シド」彼は暗闇を見つめたまま言った。「あなたとアリスさんは、とても似合いの夫婦に見える。でも……おれは彼女のことが好きになりそうです」
そうか、と言って、ハイドは微笑んだ。
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