10 / 65

8.探偵と刑事と我が家

 あっというまに八月がやってきた。  結婚しても特に変わりはなかったな、とエドワード・ウィルクスは思う。  恋人の私立探偵、シドニー・C・ハイドと結婚して一週間と半ばが過ぎた。シドニーは言っていた、 「アイザックに、一年しかつきあっていないのに結婚するのかと言われたよ。同じようなどうでもよさそうな口調で、『好色な親父と義母さんの息子なだけはある。……ああ、わかってるよ。相手が身ごもったからじゃないというのは。お幸せに』とも言われた」  パートナーがしょんぼりしていたので(彼は長兄アイザックの冷ややかな愛想の良さに出くわすといつもしょんぼりしている)、ウィルクスは慰める。 「でも、まあ、兄貴のことはいいんだ。アイザックはアイザックで勝手にやればいいんだよ」  シドニーはそう言って元気を出そうとしていた。  結婚にこの異母兄が影を落とすかに思われたが、案外そんなことはなかった。結婚生活は順調に過ぎていく。  ウィルクスにとっていちばん変わったことと言えば、それはなによりもまず家である。四年あまり住んでいたフラットから引っ越して、ストランド街に建つハイドの探偵事務所兼自宅に住むようになった。ハイドの寝室はあまり広くなく、二人用の大きなベッドを置くことは難しい。そのため、ウィルクスはひとまず客用寝室で寝起きしている。新婚にしていきなり寝室が別だが、ウィルクスは不満を口にしなかった。いっしょに寝たいときはハイドの寝室に行くようにしている(そしてここ十日のうち、いっしょに寝たのはわずか一日だ)。  ウィルクスが借りていたフラットは家具も備えつけなので、仕事で多忙ではあったが、引っ越しはそれほど大変ではなかった。荷物のほとんどはいつのまにか増殖していた本の山とDVDで、それは彼が眠る客用寝室に、本棚を新調して並べてある。ウィルクスは読書が好きなので、結婚によりハイド家の本棚から好きな本を引っぱり出して読めることをとてもよろこんだ。そのほかに引っ越して変わったことと言えば、職場のロンドン警視庁がやや遠くなったくらい。  ハイドの別れた妻、アリスからは一切なんの連絡もこなかった。 ◯  出張の報告書をパソコンに打ちこむ手を止めて顔を上げ、ウィルクス刑事は犯罪捜査部のオフィスをちらりと見回した。午後四時前、同僚たちはみんなそれぞれ自分の仕事を片付けている(一部、マグカップ片手に隅のほうで雑談している刑事もいた)。夕方だが夏なのでまだ日差しがきつい。ブラインドが日光を遮り、このところ調子が悪い空調設備は少し力不足。ウィルクスも一息ついてマグカップから冷めたコーヒーを飲んだ。  職場に結婚の報告及びカミングアウトをしたのは結婚の一か月前だが、おおむね好意的に受けとめてもらったとウィルクスは感じている。裏ではなにか言われているのかもしれないが、ハイドが言うには「憶測するしかない人間関係のあれこれは、好意的な意味で受けとめるのがコツ」だそうで、ウィルクスもそうしようと決めている。  上司や同僚はみんなおめでとうを言ってくれ、そのあと続く言葉は「仲良いもんな」や、「お似合いだよ」、それに一人「デキてるのかなと思ってた」と言った同僚がいた。「あの探偵を御せるのはきみしかいないよ」と言ったのは乗りのいいハーパー刑事で、「どう見ても御しきれてないように見えるが、あの探偵相手に躍起になってもむだだろうからほどほどにな」と核心を突く祝いの言葉をくれたのは皮肉屋のストライカー刑事であった。  結婚祝いのパーティに参加した刑事たちは少数派だが、それが例え義理でであろうと、ウィルクスはうれしかった。  ちなみに彼はそのパーティから時間が経ったこの日、妻の食あたりで出席できなかったストライカーから「おめでとさん」という言葉とともに写真立てを贈られていた。木の写真立てで、花びらの部分が螺鈿細工になったすずらんのレリーフがあしらわれている。ウィルクスは帰宅してハイドに見せることを楽しみにしていた。  あの人は今、なにをしているのかな。そんなことを思いながらウィルクスはマグカップをデスクに置き、首を回してキーボードに指を乗せる。ふたたび打ちこみ作業に戻ろうとしたところで、オフィスの入り口付近に座る同僚の声が聞こえてきた。 「こんにちは、ミスター・ハイド。どうしましたか?」  ウィルクスは顔を上げた。ちょうどパートナーと目が合う。白いサマー・セーターにグレーのスラックス、茶色い革のブリーフケースを手にしたハイドはにっこり微笑み、尋ねかけた刑事にも笑顔を向ける。 「ミスター・ハーパーに用事があって来ました」  ハーパーは赤いマグカップから紅茶を一口飲むと、「ちょっと待っててください」と部屋の反対側から声を張りあげた。 「中に入ってお待ちください、ミスター・ハイド。てっきりウィルクスに用事かと思いましたよ」  応対している刑事が言うと、ハイドは首を振る。 「一週間後に、証人として出廷するんです。資料をお借りしようと思いまして」  聞いてない、とウィルクスは思った。今朝、ヤードに来るなんて言ってなかった。「そういえば、ウィルクス君に用事があるわけじゃないので彼には言ってません」というハイドの声が聞こえてくる。  そういう人なんだ。ウィルクスは自分を納得させてパソコンの画面を見ていた。隣の席の同僚、トルーマン刑事が肩をつついてくる。振り向くと、同僚は声をひそめて言った。 「旦那さんが来てるけど、挨拶しなくていいのか?」 「いいよ、別に。おれに用事じゃないんだし」 「喧嘩してるわけじゃないんだな?」 「してないよ。あの人とは喧嘩できない。怒らないからさ」  いいなあ、平和な家庭、とうらやましそうに言った独身の同僚の言葉をウィルクスは聞き流そうとする。そんなにいいものでもないと思いながら、彼は自分のパートナーが同僚たちの注目を浴びていることをいやというほど意識し、非常に気恥ずかしく、気まずくなった。  ハーパーがぶ厚い黒のファイルを手に椅子から立ちあがり、ハイドのところまで歩いていくと、注目の視線は和らいだ。二人は会話を交わしながらオフィスから出ていった。 「ハイドさんって、いい顔してるわよねえ」  急に話しかけられてウィルクスは驚いた。振り向くとすぐ後ろに、黒いエディターズ・バッグを肩から掛けた一つ先輩のミランダ・ブルネッティが立っていた。 「いいわ。ハンサムすぎないところがまた素敵」  ウィルクスは苦笑する。そういえば、彼の友人であるシンシア・ミドルトンの恋人、プロのカメラマンのローラ・オルソンも結婚パーティのとき同じことを言っていた。「彫りが深くて、でもハンサムすぎなくて、存在感はあるけど背景にもマッチして絵になる顔立ち」だそうだ。ハイドは女性に好感をもたれることが多い。  ソーホー街の現場に向かうブルネッティ刑事を見送って、ウィルクスは視線をキーボードに乗せた自分の左手に落とす。薬指に嵌めた銀の指輪を見て、パートナーの左手のことを考える。ベッドで服を脱いだときもハイドは指輪を外さない。そのことを思いだして、ウィルクスの胸に穏やかな波が打ち寄せた。  また肩をつつかれた。 「結婚したのにお互い敬称つきの名字で呼びあってるのか?」  隣を向いて、ウィルクスは「悪いか?」という目をする。トルーマンは慌てて「悪くない」と言った。 「いや、でもおれたちですらたまにきみのことを『エド』って呼ぶじゃないか。だから、もしかしておれたち、きみに気を遣わせてるのかなあって」  ウィルクスは表情を和らげる。トルーマンは人がよく、あれこれ気を回す人間だ。多忙のあまりオフィスが殺伐としてくると、それを気にしてわざとのんきにコーヒーを飲みはじめる。ウィルクスは笑って、「そんなことないよ」と言った。 「でも、外ではきちんとしていたいんだ。主におれが、だけど。……それに人前でべたべたするのも恥ずかしいし。職場だしさ」  そうだな、と目をぐりぐりさせてうなずいて、トルーマンはマグカップのカフェラテをすすった。  結婚しても特に変わりはなかったな。キーボードを叩きながら、ウィルクスは考える。自分はバイセクシャルで、仕事で知り合ったハイドと恋人同士で、もうすぐ結婚する予定だと打ち明けたら、職場のみんなが固まった。だれかが「幸せになれよ」と言って、時間が動き出したことを覚えている。  いっしょに暮らすようになって、ウィルクスは苦手な料理の基礎をハイドから教わったが、いまだにゆで卵さえ上手くできないままだ。いっしょに住んでいるからベッドを共にする時間が増えるのかと思いきや、そんなこともない。家に帰っても、仕事で出掛けているパートナーの顔を見ないまま眠るし、ハイドだって早朝に出勤したウィルクスの顔を見ることなく一人で朝食を食べている。その逆もある。  だから、日常はこれまでとほとんど変わらない。「それは稀有なことなんだ」と、妻と二人の子どもがいるハーパー刑事は言っていた。ウィルクスは同僚の言葉がぴんと来なかったが、そんな日常も悪くはないと思っている。  三日前の朝、目が覚めるとベッドサイドのテーブルにハイドが書いたメモが置いてあった。 「毎日お疲れさま。今朝も早く出るよ。今夜はきみに会えるかな。そうであればうれしい」  蛍光イエローの付箋を剥がして、ウィルクスはメモをじっと見つめる。いっしょに暮らすっていうことはこういうことなのかなとそのとき思った。彼にとって、ハイドは今でも近くて遠い。それなのに、そばにいてくれたときもあると確かに感じる。手書きのメモを見返すたびにそう思った。  ウィルクスは報告書に意識を向ける。今日中に必ず終わらせると決めてキーボードを叩いた。オフィスの静かな熱気が集中によって遠ざかっていく。  今日は六時に帰るんだと決めていたとおり、ウィルクスは仕事を完了させた。ジャケットを羽織って帰る支度をし、ストライカーからもらった写真立ての入った袋も提げて廊下に出る。一階の玄関付近で呼びとめられ振り向くと、ハイドがブリーフケースと書類の入った紙袋を提げて立っていた。 「お疲れさま。あがりか?」  ウィルクスがうなずくと、ハイドは重そうな紙袋を持ち上げてみせた。屈託ない笑顔で言う。 「ぼくもそろそろ用事が終わる。ちょっと待っててくれないか? きみは今日、電車で通勤したんだろう?」  ウィルクスはまたうなずいた。 「そうだろうと思ったんだ。バイクが置いてあったから。車で来たからいっしょに帰らないか?」  ハイドの薄青い目が輝いているのを見て、ウィルクスはうなずいた。 「待ってます」 「車をまわしてくるから門の前にいてくれ。暑いかな」 「平気ですよ。じゃあ、またあとで」  ハイドはうなずき、またあとでと言ってロビーを横切っていった。ウィルクスは彼の広い背中を見送り、外に出た。一歩出ると暑気は少しおさまっていた。あたりはまだ明るい。ランプが点灯したパトカーが停まっているのを横目で見ながら、彼は退勤する職員や警官たちのあいだに紛れて門の脇に立った。  メールのチェックをしたあと、彼はウェストミンスター寺院のほうを見ながら十分ほどぼんやりしていた。突然首筋に冷たいものが押し当てられ、驚いて振り向く。ハイドがジンジャーエールの缶を手に立っていた。 「待たせてすまない。まだもうちょっとかかるから、中で待ってるか?」  自動販売機から買ってきたばかりの飲み物を受けとって、ウィルクスは微笑んだ。 「大丈夫ですよ。ありがとうございます」プルタブを開け、一口飲む。冷たい口当たりと軽やかな刺激が爽やかだった。 「一口くれないか」  ハイドがそう言って、ウィルクスは缶を渡す。ふとストライカーからもらった写真立てのことを思いだし、そのことを伝えたくなった。ウィルクスが口を開く前にハイドはもう一口飲み、「そういえば」と言った。 「きみに手紙が来ていたよ。持ってきてるんだ」  ハイドはブリーフケースを開けて鮮やかな山吹色の封筒を取りだし、それをウィルクスに渡した。写真家のローラ・オルソンからだ。封筒はやや厚みがある。受けとって端を丁寧に破りとり、白い便箋を引っぱりだして手紙を読んだ。濃い緑のインクを使い、きれいな筆跡で書かれている。 「ウィルクスさんへ、現像が遅くなってごめんなさい。渡しそびれていた写真です。個人的なことを言うと、わたしはいちばん最後の写真が好き。ハイドさんはミカエルね。また、シンシアと遊びに行きます」  ウィルクスは封筒から写真をとりだした。八枚入っていて、どれも結婚祝いのパーティを写したものだ。オルソンはその日、カメラマンを引き受けて写真をたくさん撮っていた。その写真はアルバムにおさめられ、すでにハイドとウィルクスに贈られていた。封筒に入っていた写真はそのときに間に合わなかったものだろう。  上から順番に見ていって、最後の写真になったとき、ウィルクスはローラの言葉の意味がわかった気がした。  写真はパーティ会場となった、ハイドとウィルクスの友人であるマダム・ノートンのサロンの壁際を撮ったものだった。二、三人の客に囲まれ、横を向いて彼らと話をするウィルクスが右側に、少し離れて壁に背をもたせかけ、カクテルのグラスを手に彼を見ているハイドが左側に写っている。  ウィルクスを見つめるハイドの表情をローラはミカエルだと言った。彼女がその名前をもちだしたのは、ミカエルが警官の守護聖人だからだろう。確かにハイドは恋人のことを見守っている。しかしその目には、守護と同時に懐かしさが満ちている。  ハイドは失った故郷に似た場所を見つけた旅人のようだった。違うとわかっていながら懐かしく、そのぶん自分が遠くまでやってきたとわかる。  彼の目は眩しさで細められているようだった。  ウィルクスは写真から顔を上げ、それをハイドに見せた。覗きこんでくる年上の男に、わざと「あなたは父親みたいな顔してますね」と言ってみる。ハイドは目を丸くして、「きみが息子だなんて思っていないよ」と言った。彼はウィルクスの頭にそっと自分の頭を寄せた。 「ハイドさん」 「ん?」 「この写真、飾りませんか」  でもきみ、こっち見てないよ。そう言って視線を上げた青い瞳をウィルクスが見つめると、ハイドは不思議そうな顔をした。そして自分を見つめる焦げ茶色の瞳に魅入られた。 「いい写真だと思います」  そう言ってウィルクスが手に持った紙袋を差しだすと、ハイドはますます不思議そうな顔になる。ウィルクスは彼の手からジュースの缶を受けとり、すこし振った。  ぬるくなったジンジャーエールがかすかな泡の音を立てる。一口飲んで、ウィルクスは無性に泣きたくなった。

ともだちにシェアしよう!