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10.探偵と刑事と瞳・一
私立探偵のシドニー・C・ハイドと彼のパートナー、刑事のエドワード・ウィルクスがバカンスにやってきたブライトンのホテルは、海のそば、切りたった崖と丘の上に建っている。これはサザーランド家のマナー・ハウスを改装したもので、五十年前に没した末裔のサー・ジョージ・サザーランドが財政難から売りに出していた屋敷であった。買い取られてホテルに改装されたのが六十四年前の一九五二年で、現在のオーナーであるブラックウッド氏は父親からホテル業を引き継いでいた。
「どうです?」ブラックウッド氏は逞しい肩を張り、太い金のリングを嵌めた右手を虚空で広げた。それから黒くぐりぐりした目で招待客の二人を見つめ、語調も強く訴えかける。「なかなか、いいとお思いになりませんか?」
ウィルクスはその勢いに押されてこっくりとうなずいた。それから天井を見上げる。サロンになっている奥の間は通常は閉ざされており、ブラックウッド氏が厳密な選択眼によって、格別大切なお客様と認識したときだけ開かれることになっていた。天井は高く、剥き出しになった黒く太い梁が複雑に組まれているのが見える。そこから重いガラスのシャンデリアが吊り下がっているが、これは今でも蝋燭を灯すことができた。真珠色の壁には磨かれた腰板が貼られ、床には厚い黒の絨毯が一面敷き詰められている。海に面した側には二つの白いフランス窓があるが、冷房を効かせているため今は閉じられていた。それでもレースのカーテンは引き開けられ、紐状のタッセルで左右にまとめられている。窓の向こうに濃い青の海が広がっていた。
今、ブラックウッドは二つの窓のあいだにある大理石のマントルピースに寄りかかり、輝く目と白い歯を満足げに覗かせ、ハイドとウィルクスにあたたかい眼差しを投げていた。
小柄だが逞しい体躯のブラックウッドは、尖った鼻の下によく似合う細いカイゼル髭を生やしていた。艶のある黒髪もそれにならうかのように、真ん中から左右にぴったりと撫でつけている。古風な印象だが、彼はさらに麻の白いジャケットを着て、明るい水色の蝶ネクタイをカラーの下に結んでいた。ウィルクスの目に、彼はほとんどイギリス人には見えず、どことなく陽気なスペイン人のように映った。サルバトール・ダリだ、と刑事はこっそり思った。
ブラックウッドは大きな握り拳を突きだし、ハイドとウィルクスを熱烈に歓迎していた。それでも、質問を発するときは慎重だった。
「お部屋は気にいっていただけましたか?」
尋ねられて、ハイドもまた機嫌よくうなずいた。
「すばらしい部屋でしたよ、ブラックウッドさん。寝室からの眺めも最高でした。海がきれいに見えるし、観光客もほとんどいない……」
「あなた方のお部屋のほうは、ここらへんに土地を持っているセレブたちのプライベート・ビーチでしてね。九月にはみんなロンドンに帰ってしまうから、人に煩わされることもないというわけです。まだ泳げますよ。ウィルクスさんは、泳ぎはやるんですかな?」
ウィルクスは籐椅子の中で身じろぎした。
「泳げはしますが、ここ何年も泳いでいませんね」そう答えると、オーナーは満足げな顔で椅子に腰を下ろす二人の前に歩み寄ってきた。六角形になった黒いオークの頑丈なテーブルを拳で軽くたたき、ウィルクスを見てにっこり笑う。
「ぜひ、泳がれるといいと思いますよ。大変美しい海ですから。わたしは毎日見ても飽きませんな」
その言葉につられて、ウィルクスは磨かれた窓ガラス越しの海に視線をやった。午後三時半ばの日差しを受けて海面が白く輝いている。波は穏やかで、砂浜はしっとりしていた。海を眺める青年の横顔をハイドは黙って見つめていた。それから彼は部屋の片隅に視線を移した。歯車や振り子の仕組みが見えるように、本体がガラスでつくられた大きな振り子時計を眺め、その奥の壁に掛けられた五組のマスケット銃を眺めた。一つ一つに小さな金属プレートが付され、使用された年代と戦功が彫りこまれていた。
「すごく、すてきなホテルだと思います」海から視線をホテルのオーナーに移し、ウィルクスが力強く言った。「わたしまでご招待してくださり、ありがとうございます」
ブラックウッド氏は目をぐりぐりさせて、大仰にうなずいてみせた。
「わたしの恩人であるハイドさんの愛する人はわたしの愛するところの人でもあります」彼はやや回りくどい言い方をして、熱っぽく言った。「どんな美人を奥方に迎えられたのかとお会いするのを愉しみにしておりましたが、やはりハイドさん、ものすごい美男を選ばれしましたな」
ウィルクスはどんな顔をしていいかわからず、結局やや無表情になった。ブラックウッドはそれを気にせず、ハイドのほうに向かってうなずく。
「ハイドさんは面食いですよ。ねえ?」
ブラックウッドにあけすけに言われてもハイドはにこにこしてうなずくばかりだった。ウィルクスはスニーカーのかかとでもう片方の足の爪先を蹴りながら、グレーのパーカーの袖を意味もなくまくる。彼は着いたときからドレスコードを気にし、輝くばかりに荘重なホテルに圧倒され、ブラックウッドの善意にあふれた、かつ大仰な人柄にもやや圧倒されていた。それでも刑事は陽気な魔王といったかんじのブラックウッドを見つめ、意を決して気になっていることを口にした。
「わたしがハイドさんの結婚相手と聞いて、驚かれましたよね?」
ブラックウッドは目を丸くし、次には白い歯を見せて笑った。
「ええ、驚きましたな。てっきり女性だと思っていたものですから。しかし、驚いたというだけのことです。ブライトンはゲイ・コミュニティの多い街です。彼らが自分たちの生きざまを誇るパレードもありますし。うちにお茶をしに来てくださるゲイのカップルも何組かあります。お二人も、どうぞここでゆっくりなさってください。日常を忘れて羽根を伸ばしていただけると、うれしいですな」
ウィルクスは礼を言ってうなずいた。たしかに、サザーランド・ホテルは意図的に手を加えられた現実逃避を売り物にしている。日常を離れて夢を見るにはうってつけの場所だ。その場所を、いつか結婚できればと夢見ていた相手と訪れていることがウィルクスには不思議だった。それでも彼にとって同性のパートナーと過ごす日々は、はや日常となりつつある。例えそれがヘテロセクシャルの人間の目には、非日常に見えることであったとしても。
浮かれて過ぎ去る夢の日々と滞りなく流れていく日常がじつは同じ顔であることに気がつき、ウィルクスはさらに不思議な気分になった。その顔を見て、ハイドは心配そうな表情になる。
「疲れているのか、ウィルクス君? ぼうっとしてるよ。すまない、むりをさせてしまったかな」
ウィルクスは我にかえってかすかに赤くなり、首を横に振った。たしかに行きの車の中では、ふと頭に抱いた欲情が現実の事態にまで発展してしまった。「大丈夫です」とウィルクスは力強く答える。ハイドはまだ心配そうな顔をしていたが、ウィルクスが腰をあげて窓辺に歩いていったので、その背中を視線で追いかけた。
「きれいな眺めですね」
窓ガラスに片手を押しつけてつぶやいたウィルクスに、ブラックウッドは深くうなずく。
「仕事もはかどりそうだ」
ウィルクスの言葉に探偵とオーナーは驚いた顔をした。ウィルクスは振り向くと、申し訳なさそうにハイドの顔を見た。
「すみません、仕事をひとつ持ってきたんです。でも、集中すれば三時間くらいで終わりますから。そのあいだハイドさんは、えーと……好きなことをしててください」
「あ、そうだね」
ハイドは目を丸くしたままうなずいて、ブラックウッドを見上げた。オーナーは口髭をひねりながらうなずいた。
「仕事熱心な刑事さんですな。うちのホテルにはビジネス用の部屋もありますよ。ここよりはやや手狭ですが、商談に使われる方もいらしゃいます。そちらを使われますか?」
「いえ、自分の部屋で大丈夫です」ウィルクスは明るく微笑む。「リビング・ルームの窓際にロールトップのデスクがありましたよね。海を眺めながら仕事をすると、きっとすぐ終わりますよ」
扉にノックの音がして、紺色のドレスと白いリネンのエプロンを身につけた若いメイド(そんな存在が今でもこのホテルにはいるのだ)が銀の盆を手に部屋に入ってきた。ブラックウッドは伸びあがるようにして言った。
「みなさんのお部屋のお世話をするアニータです。よく気がつく子ですが、ご要望があればなんなりとお申しつけください。さて、観光とお仕事に入る前に、お茶をいかがですか? お二人にしたいお話もたくさんありましてな。聞いてください、ハイドさん。これは内密ですが、なんとうちの南側の客室に、それはチャーミングな若い女の幽霊が出るという噂がありましてね。それがなんと、このあたりで二年前に失踪した大学生でしてな、調査したところ彼女は死んでおらず、髪を染めてうちのボーイを……」
地元の事件を話しだしたオーナーに、ハイドはあいづちをうちながら興味深そうに聞いている。ウィルクスは自分の手元に視線を向けた。テーブルの上にサーヴされたピンク・グレープフルーツのムースケーキは、皿まで冷やされていた。大きな氷と共にグラスになみなみと注がれたアイスティーを一瞥して顔を上げると、メイドが会釈して部屋を出ていくところだった。紺色のドレスがひるがえるところをぼんやり眺め、もう一度海を見つめ、隣にいるパートナーのほうに視線を向ける。彫りの深いハイドの顔立ちは今は引き締まり、薄青い瞳が輝いていた。物事に熱中しているときのハイドはウィルクスの目に、自由を身にまとい、荒野を自在に駆け巡っている狼に見えた。
ふたたび視線を手元に向けて、ウィルクスはアイスティーを一口飲んだ。香りづけのブランデーとミントに目が覚める。やや強いアルコールの味がする飲み物を続けて飲んだ。かつての依頼人に視線を向け、真剣な表情で話を聞いているハイドの前で、アイスティーの氷は音を立てて溶けていく。
○
四時も半ばを過ぎ、ハイドは海岸に散歩に行くことにした。まだまだ明るく、日没はもう少し先だ。ウィルクスは早く仕事を片付けたいからと言って、客室に引きこもった。ハイドは部屋を出るとき、窓辺のデスクに持参したノートパソコンをセッティングする結婚相手のほうを向いて、言ってみた。
「海岸の岩陰でするのも、いいね」
ウィルクスはちらりと彼を見て、「あなたはロマンチストですね」と冷ややかな声で答えた。
それでもちょっとは脈ありだな、とハイドはのんきに考える。早く行ったらどうですか、と言ったパートナーの目は泳いでいた。彼をあとに残し、ハイドは機嫌よく海辺に向かった。
カラフルなサマー・ドレスを着てそぞろ歩く女たちの脇を過ぎ、彼は波打ち際からやや遠いところを、ビーチ・パラソルと浮き輪の種類の多様さに驚きながらぶらぶら歩いた。白い七分丈のサマー・セーターにグレーのチノ・パンツを履き、サングラスを掛けて黒いローファーのまま歩いているハイドは、周りからやや浮いていた。派手なアイ・メイクをし、ビビッドなオレンジのワンピースを着た若い女に通りすがりざま手を振られる。ハイドも振り返し、浜辺を歩く。どこかからハスキー・ボイスの女がカヴァーした「イパネマの娘」が流れていた。
九月だが海辺にはまだ露店が並んでいて、飲み物や軽食、浮き輪や安物の土産を売っている。ハイドはそのうちの一つの前で足をとめ、ちゃちなつくりのボトルシップを眺めていた。
ふと背後に人の気配を感じる。ハイドが振り向くと、大きなサングラスをした若い女が立っていた。
彼女は黒髪をボブにして、淡いピンクのタイトなサマー・ドレスを着ていた。肩に小さな白のショルダー・バッグを掛け、ソールがコルクになったサンダルも白。淡いピンクのペディキュアを塗った爪先が見えていた。ハイドが女の顔を見ると、小さなその顔はこわばり、ピンクのリップを塗った唇も引きつっていた。
ハイドが彼女の背後をちらりと見ると、サングラスを掛けた大柄な若い男が二人、彼らのほうに向かって歩いてくるところだった。男は二人とも半袖のTシャツを着ていて、一人はハーフ・パンツ、もう一人はコットン・パンツを履いている。一人はサンダル、一人はスニーカー。まるで双子のようによく似ていた。女がサングラスを外すと、長い睫毛の奥に灰色の大きな瞳が覗く。鼻がつんと尖っている以外は人形のように美しい顔を一瞬だけ歪め、彼女は神経質にまばたきする。ハイドの腕にそっと片手を乗せた。
どうしましたか、とハイドが尋ねかけると女は早口でまくしたてた。どうやらスペイン語らしいということはハイドにもわかったが、彼はスペイン語を解しない。「言葉、わかりますか?」と簡潔な英語で女に尋ねかけてみるが、彼女はやはりスペイン語でまくしたてる。
ハイドはサングラスを外し、「人違いではありませんか?」と穏やかに尋ねかけた。しかし女は早口でなにか言うだけだった。彼は顔をあげ、浜辺を見た。二人の若者が雑談をしながら、しかし速足で二人のほうへ向かってきていた。
女がハイドの腕を引っぱった。彼は引かれるままついていく。パンツのポケットに手を入れて、はっとした。財布はなくなっていないが、スマートフォンは消えている。女が彼によりかかってきた。二人は砂浜を速足で歩いていく。彼女が歩くスピードに合わせて背後の若者たちも歩調を速める。ハイドは引きずられるまま浜辺を進んだ。次第に人が減り、店もなくなり、岩と岩が入り組む場所になる。右手に崖が見え、その向こうにサザーランド・ホテルがぽつんと建っていた。
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