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探偵と刑事と瞳・二

 書類をつくり終わり、ウィルクスはほっと息をついて窓から外を眺めた。人っ子一人いないビーチに真っ白な波頭がうちよせている。  海は月の引力で満ち引きを繰り返す。ふと、子どものころ学校で習った話を思いだした。満月の日には自殺者が多くなるらしい、と知ったのは十一歳のとき。そのころ読んでいた推理小説にそう書いていた。  そして「ぼくの性欲は月の満ち欠けに左右されるんだ」とハイドに聞いたのは、つい先月だ。また適当なことを言って、とウィルクスが言うと、本当なんだよとハイドはまじめな顔をしていた。もし左右されるとしても、ウィルクスにはパートナーが月の支配を無視しているようにしか見えない。いつだって情熱的で、鎖を引きちぎって駆け出す狼に見える。  そんなことを思いだしながら、ウィルクスは窓を開けた。熱気が部屋に吹きこみ、濃い潮のにおいが鼻をつく。そろそろ夕暮れだが、海面は眩しい銀色に輝いていた。彼はバルコニーに出ようとして、一歩踏み出した。  そのとき、甲高い女の悲鳴が聞こえた。  ウィルクスはバルコニーの手すりに身を乗りだすが、それきりあたりはしんとしている。そこからどうやって覗きこんでも、人の姿は見えない。砂浜にも海にも異変はなかった。  女が危害を加えられているのかもしれない、とウィルクスは考えた。悲鳴の聞こえ方からして、女がいる場所は海辺のように思われたが、もしかしたら下の階かもしれない。様子を見に行き、場合によっては警察に連絡をとったほうがいいかもしれない。そう判断し部屋の中に戻ろうとすると、ふたたび女の声が聞こえた。今度は笑っている。ややヒステリックだが、外国語をしゃべる口調は落ち着いていた。  ウィルクスが部屋に戻ると、折しも扉がノックされ、ブラックウッドがきびきびした足取りで中に入ってきた。開口一番なにを言うのかと思いきや、大声で「ハイドさんは帰ってきませんなあ」と叫んだ。ウィルクスはうなずく。ブラックウッドは顔をしかめてぶつぶつ言った。 「ちょっと用事があって三十分前から何度か電話をしているのですが、出ませんよ」  ウィルクスは腕時計を見て、デスクに置いたスマートフォンに手を伸ばした。連絡先をタップし、ハイドの番号に掛ける。コール音が虚しく響いたあと、ぷつっと途切れた。 「切られましたね」  無表情ながらわずかに険しい目つきになったウィルクスを見て、ブラックウッドのオリーヴ色の顔は青ざめた。彼は速足でウィルクスのそばまで歩み寄り、言った。 「なにかあったんでしょうか?」 「わかりません。ところで、ブラックウッドさん」ウィルクスはオーナーの顔をじっと見つめた。「さっき、女の悲鳴が聞こえたのですが。この下の階にはどなたがいますか?」 「そうですな……八十になる老婦人と、その息子さんが滞在されています。銀行一家でしてね」 「悲鳴は若い女性のものでした。下に該当しそうな人は?」  ブラックウッドは顔を曇らせた。 「うちにお若い泊まり客はいないのですよ。ウィルクスさん、あなたくらいですな。このホテルは落ち着きと静かさが売りでしてね。若い子はもっと賑やかで、値段も手頃なほうへ行きますな」 「メイドの声ということは?」 「彼女たちは今、半分は南の翼の部屋を掃除しています(明日、紳士方が団体で見えられますので)。もう半分は調理場にいますよ。この下ではありません」  うなずき、ウィルクスはもう一度ハイドに電話を掛けた。今度は繋がらなかった。淡々とした声が、「お掛けになった電話は現在電波が入らないか、電源が切られて……」という言葉を繰り返す。  ウィルクスは電話を切り、まごつくブラックウッドと視線を合わせた。  女の悲鳴が聞こえた。  ウィルクスの顔つきが険しくなる。彼は言った。 「とりあえず、浜辺のほうを見てきます。気のせいかもしれないが、警察に一応事情を伝えてくれますか? 海辺のほうから女の悲鳴が聞こえたとだけでも」  ブラックウッドがうなずくと、ウィルクスは椅子の背もたれに掛けておいたパーカーを羽織り、客室を飛び出した。 ○  それからあとのことはあっという間に起こった。  ハイドとウィルクスの客室が面している海岸に行くには、ホテルが建つ丘をまわり、崖を削って備えつけられた白塗りの木の階段(というよりもステップ)を降りていくのが近道だった。元はサザーランド家の住人や使用人たちが海に出るためにつくられたもので、現在はほとんど使われていない。そのため、ところどころ腐り、脆くなっている。  ウィルクスは慎重に歩を進めた。彼は片手に鉛を込めたステッキを握っていた。丸腰では危ないからとブラックウッドが貸したもので、元はサバット用のステッキだった(ハイドとブラックウッドが出会ったのはサバットの大会でだった。二人とも選手だったのである)。  階段を踏みしめて降りていくときから、ウィルクスの眼下には二つの巨大な岩が見えていた。同じくらいの大きさでどちらも赤茶けており、ところどころにヒビが入って、向かい合うようにそびえている。しかしいくら目を凝らしても、青いペンキが剥げ、朽ちたボートが一艘横たわっている以外に岩のあたりにはなにも見えない。砂浜に人影はなく、海に船は一艘たりとも浮かんでいなかった。  全身の神経を研ぎ澄ませながら、足音をしのばせて刑事は階段を降りていく。ウィルクスの位置からなにも見えないということは、もし相手がどこかに潜んでいるとしても、彼のことも同じように見えていないということになる。  階段はちょうど岩の手前で終わった。ウィルクスが砂地に立つと、目の前に巨岩がそびえている。百八十センチ以上あるウィルクスよりも、岩はさらに大きかった。  人の話し声がした。  声は小さかったが、ふいに甲高くなり、激しく罵るような口調になる。ウィルクスは岩の陰に身をひそめ、あたりをうかがった。声は岩と岩のあいだから響いてくる。ウィルクスが聞いた悲鳴と同じ女の声で、スペイン語だった。ときおり若い男の声も聞こえてくる。彼らは女をなだめようとしているらしい。しきりに「セニョリータ・エスカロナ」と叫んでいる。  ふいに英語で「ミス・エスカロナ」と呼びかける声が聞こえた。声はハイドのものだった。  ウィルクスが岩陰からそっと覗くと、岩と岩の砂地のあいだに三人の男と一人の女が立っていた。女の黒髪は背後から吹きつける風になびき、細身のドレスが輝かしい肉体と長い手足を強調させている。卵のようにつるりとした横顔を見せている彼女に向きあって、ハイドが立っていた。二人の向こう、やや離れた位置にサングラスを掛けた若者が二人、様子をうかがうように並んで立っている。  ハイドが女に手を差し伸べようとすると、彼女は右手を振りあげて彼の頬を平手で打った。鞭が振り下ろされたような鋭い音があたりに響き、ウィルクスはあっけにとられる。しかしすぐに態勢を立て直した。そのとき、殴られるままに顔を右に向けたハイドと目が合った。  サングラスの男たちがウィルクスに気がつく前に、女が彼に気がついた。彼女は大きく手を振り、ウィルクスのほうに向かって走ってくる。ウィルクスは手を差し伸べた。女は勢いをつけて彼のふところに飛びこみざま、バッグから取りだした拳銃を素早く彼の胸元に突きつけた。  その瞬間、ウィルクスは反射的に女の手首から銃を叩き落とし、彼女の腕を後ろ手にねじりあげていた。甲高い悲鳴が上がると、サングラスの男の一人が荒々しい身振りをした。拳銃を構えようとしたらしいが、ハイドの回し蹴りが飛んできて彼は砂浜に沈んだ。  ウィルクスは女の落とした拳銃を素早く拾いあげ、羽交い絞めにした彼女のこめかみに銃口を突きつけた。もう一人の男を睨みつける。刑事の思惑通り、若者は降伏の身振りをした。ハイドが倒れた男を砂浜から引きずり起こしているあいだに、海岸のほうからパトカーのサイレンが聞こえてきた。  女はウィルクスにつかまえられたまま、スペイン語で罵りの言葉を吐き続けていた。 ○  事情聴取は警察署ではなく、サザーランド・ホテルのビジネス・ルームで行われた。セニョリータ・エスカロナが片言で「警察に行くのは絶対に嫌」とわめいたためだった。サングラスの若い男二人はイギリス人で、彼らも事情聴取は警察署以外の場所で、と懇願した。そうしないとエスカロナ嬢はなにも話さないだろう、と言うのだった。  ブラックウッド氏はこころよく――というよりかは興味津々で北側のオフィス・ルームを彼女たちと地元の警察のために開放した。部屋の天井はドーム型になり、その中央に緻密な筆致で地動説をあらわす絵が描かれている。照明はすべて電気で、シャンデリアはなかった。窓にはブラインドが下ろされ、空調はやや効きすぎだった。  部屋の中央には長方形のテーブルが置かれ、背もたれのまっすぐなビロード張りの椅子が六脚、ぐるりを囲んでいる。そのテーブルからやや離れた窓際に、窓と垂直に接してロールトップ型のデスクが置かれている。その上には古風なダイヤル式の電話が載っていた。  長方形のテーブルの長い辺に置かれた椅子の一つにエスカロナが座り、若い男の一人が彼女の左隣に、もう一人の男がそのそばに立っている。彼らの周りを地元の警官二人が固め、もう一人は扉のそばに待機して厳しい眼差しを向けていた。そばにブラックウッドが立っている。  ウィルクスは女と若い男二人に向かいあい、ロールトップのデスクに腰を下ろしていた。ハイドがその後ろに立っている。  この部屋の中で、女の話すスペイン語を解する人間は一人もいなかった。ウィルクスはサルバトール・ダリを彷彿とさせるブラックウッドに密かに期待していたが、彼は生粋のイギリス人、なぜか「日本語をちょっと話せるだけです」と言った。女を追いかけてきた男二人の拙いスペイン語はまるで役に立たなかった。  ウィルクスはスコットランド・ヤードに電話をし、スペイン語を解するという交通課の婦警に通訳を依頼した。エスカロナが電話口で怒りに任せてまくしたてているあいだ、部屋はぎこちなく静まりかえっていた。 「わかりました」ウィルクスと電話を替わった婦警はきびきびした口調で言った。 「ミス・エスカロナは、ある犯罪シンジケートのボスの情婦だそうです。それが、別に男ができたという理由でボスの元から逃げてきたそうです。彼女を追いかけてきた男たちはそのシンジケートの一員です。二人は彼女がミスター・ハイドの手を取るのを見て、彼を相手の男だと思ったみたい。ミス・エスカロナの新しい恋人も、別の犯罪シンジケートのボスだそうですわ」  ウィルクスは受話器を耳に当てたままハイドのほうを振り向く。頬を赤く腫らしたまま、年上の男は首をかしげて微笑んだ。どう見ても犯罪シンジケートのボスには見えない。節穴だな、とウィルクスは思った。ただ、推理小説なら「意外な正体」という点では高得点かもしれない。彼はふたたび電話に戻った。 「ミス・エスカロナがおれに銃を向けた理由は?」 「あなたを、自分を連れ戻しに来た男たちの仲間だと思ったそうですわ。ミスター・ハイドのスマートフォンを盗んだのも彼女です。警察に連絡されることを恐れたそうです。ミスター・ハイドを選んだのは偶然そこにいたから、それから大柄で逞しい男性だから、なにかあったら守ってくれるんじゃないかと思ったようです」 「弾除けにだな。ありがとう、もう少し電話の前で待っててもらえますか?」  受話器をテーブルに伏せ、ウィルクスは女たちを見張っている警官の一人に視線を向けた。ロンドン警視庁の刑事に対する憧憬の眼差しが返ってきたが、ウィルクスはその目の輝きを見なかったことにした。そして静かな口調で言った。 「ミス・エスカロナとハリガン兄弟をそちらに引き渡しますので、引き続き事情聴取を行ってください。ヤードのクラークが通訳をしてくれると思いますが、そちらでスペイン語のできる通訳者を探すことをお勧めします。ミス・エスカロナから犯罪シンジケートと接触できるかもしれません。その点にも留意して捜査してください」 「了解いたしました!」  目を輝かせて若い警官が叫び、ウィルクスは無表情のままうなずく。女が憤怒の声をあげても警官たちは動じず、彼らを護送するために重々しい足取りでその脇に立った。  三人は滞りなく連行されていった。ときおり女がヒステリック叫ぶ。「悪いことなんかなにもしてないわよ!」、しかしすぐに黙った。  廊下に敷かれたぶ厚い絨毯のせいで足音は吸収され、ホテルは静まり返っていた。だが、客室のドアの向こうでは大勢の人間が聞き耳を立てている。連行されていく三人と警官たちが広いロビーを横切ったとき、そこにいた客たちは伏せていた視線を上げ、好奇の眼差しを彼らの後ろ姿に注いだ。  ブラックウッドはビジネス・ルームの扉から頭を突き出して、ひと気のなくなった廊下をまじまじと眺めていたが、ややあってくるりと振り返ると、上気した顔を刑事と探偵に向けた。 「いやあ、胸がドキドキしましたなあ。とても興奮しましたよ。映画みたいだ。それに、さすがヤードの刑事さん。落ち着いた仕事ぶりで、お若いのに見ていて頼もしい」  ウィルクスは謙遜のそぶりを見せたが、後ろからハイドに肩をつかまれて振り返った。 「ウィルクス君」ハイドは真剣な顔で熱っぽくささやいた。「働くきみはとても格好よかったよ。きみのような伴侶を持てて、ぼくはとても誇りに……」 「ハイドさん」ウィルクスは照れるあまり、パートナーの惚気を怒った顔で遮った。「殴られたところ、手当しましょうか?」  救急箱を持ってきますよと言って、ブラックウッド氏はそっと部屋から立ち去った。ホテルのオーナーとして、宿泊客の望むムードを大切にするというのが彼の信条なのだった。 ○  午後十時過ぎ。  漆喰の壁に丸い舷窓を嵌めこみ、潜水艦の内部を模した一階の食堂で他の客たちといっしょに食事を終え、ハイドとウィルクスはふたたび自分たちの寝室に戻ってきていた。食堂で彼らは十五人ほどいた泊まり客からの質問攻めにあい、その並々ならぬ熱気は、ロンドン警視庁が捜査の進展を報告する記者会見を彷彿とさせた。  ウィルクスは質問に答えながらも、肝心なところは「業務上の秘密で詳しいことは話せません」と断った。ハイドもそれにならったが、愛想のいい彼はまだかすかに頬に残る張り手の痕を見せて、「ええ、殴られたんですよ」とにこにこしていた。 「ミスター・ハイドは色男ですもの。浮気相手に間違えられるのもむりはないわ」と八十歳の老婦人が微笑んで、ハイドも笑った。二人はとても仲良くなって、ビールを飲みムール貝のワイン蒸しをつまみながら、来年の晩夏もここで会いましょうと約束を交わしていた。  ウィルクスはそんなパートナーの横顔を眺めながら、ウィスキー・ソーダを飲み、ワインを飲んだ。さらにギムレットまで飲んでしまい、泊まり客たちと笑顔で「また明日」とあいさつを交わしながら食堂を出るころには、彼の足はややふらついていた。  寝室のベッドに腰を下ろし、ウィルクスはフランス窓に目をやった。どちらの窓もカーテンが左右に引き開けられ、その向こうに巨大な月と黒い海が見える。電気をつけていない部屋に差しこむ明かりは月と星だけで、ベッドに腰を下ろす二人の後ろに淡い影が落ちる。かすかに空調の音がする部屋で、彼らは座ったまま黙って月と海を眺めていた。  ハイドがベッドの上に仰向けで身を投げだすと、ウィルクスは手を伸ばして彼の髪を撫でた。ハイドは黙っていた。身じろぎせず数分が経過したあと、ふと言った。 「地球じゃないみたいだな」  そうですね、とウィルクスは答えた。なんだか宇宙の果ての、忘れ去られた遠い星に二人でいるようだった。そう思えば彼はなにも怖くなかった。 「ぼくの性欲は月の満ち欠けに左右されるんだ」  寝ころんだままハイドがつぶやいて、ウィルクスは彼の髪をかきあげた。 「今夜はどうなんです?」 「今夜? 今夜は……」  そう言って、ハイドは口をつぐんだ。彼は高い天井を見上げ、そこに踊る無数の影を見た。 「ここは眩しいね」  目を細めてつぶやいた男の上に身を乗りだし、ウィルクスは彼の唇に口づけた。大きな左手が青年の頭を抱き寄せる。薬指に嵌った銀の指輪が月明かりに白く閃いた。  キスのあと、唇を離したウィルクスの顔は影になっている。伏せられた長い睫毛はそれよりもさらに黒く濃い影を落とし、ハイドは塗りつぶされた恋人の顔を見つめる。  ウィルクスがまぶたを開けると濃い茶色の瞳が黒く輝く。愛する人の背後にのぼる月が、ひとつの眼差しのようにハイドを見つめた。

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