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11.探偵と刑事と自由の海

 エドワード・ウィルクスは浜辺に座って海を見ていた。  九月の午後三時すぎ。ブライトンは晴れていてまだ暑いが、風が吹くととても気持ちよかった。海は広々として青く、星をまいたように銀色に輝いている。  ウィルクスは白いビーチパラソルの下にいた。そばにもうひとつビーチパラソルが開いて立てられ、その下には白いテーブルとそろいの椅子(まるで立派な庭園に置いてあるような)が用意されていたが、彼はそこには座らなかった。パラソルの下に敷物を引いて腰を下ろす。ウィルクスは水泳パンツを履き、素肌の上にパーカーを羽織っていた。少し海には入ったが泳ぐつもりはなかった。泳ぎにいったパートナーはもうどこにいるのかわからない。  推理小説を読んだり、ホテルの料理人が焼いてくれたクッキーやパウンドケーキをときおり口に運ぶ。瓶に入ったレモネードを一口飲んで、海を眺める。ウィルクスはロンドンをはるか遠くに感じた。 「あの、ウィルクスさん」  ふいに背後から声を掛けられ、彼は振り向いた。ベージュのリボンがついた小さな帽子をかぶり、白いレースのドレスを着た、白髪頭の小柄な老婦人が息子につきそわれて立っていた。 「こんにちは」  ウィルクスが挨拶すると、ミセス・コーラルは微笑んでこんにちはと返す。賢そうな青い瞳と口元の皺がチャーミングなひとだった。八十歳には届かないが、それに近い高齢の女性だ。脚はしっかりしていて杖には頼らず、ハイヒールほどではないがヒールのあるベージュと白のパンプスを履いている。 「ウィルクスさん、おひとり? ハイドさんは?」  ウィルクスは海のほうを見て、結婚相手の姿をちょっと探した。 「泳ぎにいっているんです。セイレーンに出会わなければ帰ってくるでしょう」  ふだんあまり冗談を言わないウィルクスが軽口をたたくと、ミセス・コーラルはにっこりした。 「ハイドさん、セイレーンにも好かれそうですね。もしよかったら、あなたたちと少しごいっしょしていいかしら?」  もちろん、とウィルクスは答えた。ミセス・コーラルは両手できちんとハンドバッグを持ち、隣にたたずむ長身の、五十代とおぼしき息子に言った。 「ありがとう、リチャード。バックギャモンの時間までには戻るわね」  息子はかすかにうなずき、ウィルクスに目礼して去っていった。大銀行家の家に生まれ、今もとても責任の重い立場にいるが、リチャード・コーラルはとてももの静かで、優雅な紳士だった。決してでしゃばることはなく、しかし人生の愉しみ方を知っていて、それに他人を巻きこむ必要を感じないタイプだった。  ミセス・コーラルはパラソルの下の椅子に腰を下ろした。白いレースの指なし手袋をはめていて、痩せた右手の薬指にはエメラルドの指輪がはまっている。彼女が指輪の位置を直していると、ウィルクスは立ちあがってその前にクッキーの皿を置いた。彼女は顔を上げ、きらっと光る目で「ありがとう」と言った。  ウィルクスが水筒に入れたアイス・ティーをプラスチックのカップに入れて手渡すと、ミセス・コーラルは喜んだ。おいしそうに飲み、ハンドバッグを膝に抱えてにこにこしていた。  ロンドン警視庁で刑事をしているウィルクスと、この夏に結婚したばかりのパートナー、私立探偵のシドニー・C・ハイドはちょっと遅いバカンスに、ここブライトンを訪れていた。サザーランド・ホテルの経営者がハイドの昔の依頼人で、ハネムーンに来るように誘ってくれたのだ。  ミセス・コーラルもまた、一人息子と遅いバカンスを愉しんでいた。彼女はハイドと意気投合し、来年の晩夏もまたここで会いましょうと約束を交わすほど親しくなっていた。そしてミセス・コーラルはウィルクスのことを、大事なお友達の大事な人として扱った。  二人はとりとめのないことをいろいろとしゃべった。風が吹き、パラソルが揺れ、潮のにおいがする。目の前で海は銀色に輝き、どこか地球ではないようにさえ見える。波の静かな音がして、二人の会話も静かで穏やかだった。 「ウィルクスさんは刑事さんなんですね。すごいわ」ミセス・コーラルはアイスティーのカップを手に、はるかに年下の青年の顔をしげしげと見て、心底感心したように言った。「危険なお仕事でしょう?」 「ええ、まあそういうときもありますね」ウィルクスは微笑を浮かべて答える。「でも、書類ばかり書いてるときも多いですよ。地味な仕事です」 「事務処理って大変ですわね」ミセス・コーラルはうなずいた。「わたしも夫の秘書をしていたからわかりますわ。毎日いろんな電話が掛かってきてね。重要なのとそうじゃないの。ロンドン警視庁なら、きっと毎日たくさん市民からの電話を受けているんじゃありません?」  そういうのを取り次ぐのはおれたちじゃありませんから大丈夫です、とウィルクスは答えた。ミセス・コーラルは急に真剣な顔になった。眉根をぎゅっと寄せ、膝に置いたハンドバッグの持ち手を握って口を開いた。 「ねえウィルクスさん、こんなおばあさんに言われてもって思うでしょうけど、あなたは本当にハンサムですね」  ウィルクスはびっくりした顔になった。それから慌てて「いいえ」と言った。 「おれは、別に。でもありがとうございます、ミセス・コーラル」 「ハンサムだとは言われないの?」 「特に……。まれに『モデルになればいいのに』って言われることはありますが、それはおれをからかってるんですよ。モデルより、刑事の仕事をしていたい。おれは……」ウィルクスは声をやや落とした。「親父に似てるんです。うんざりしますよ」  そう言ってからウィルクスは口をつぐんだ。ミセス・コーラルに「そんなことを言ってはだめよ」と言われるかと思ったが、彼女は言わなかった。 「それじゃあお父様ゆずりのハンサムなんですね」 「うちの両親を知っている地元の人間は、『お父さんは自分一人できみを産んだんだね』と言う人もいます。母にはほとんど似ていません」  ――おまえは彼女の弱さと繊細さを受け継いだんだな。鋭い目をした父親に言われたことを急に思いだした。ウィルクスはレモネードを一口飲み、海のほうに視線をやった。ミセス・コーラルがもの柔らかな口調で言った。 「ハイドさんはあなたのこと、きっととても自慢に思っているでしょうね」 「……おもはゆいです」  老婦人は微笑んだ。彼女もまた海を見た。寄せては引く波に視線を向けながら言った。 「わたし、ハイドさんを見ていたら夫のことを思いだしたんです」  ウィルクスは彼女のほうを振り向いた。ミセス・コーラルは目を細め、ストッキングに包まれた脚を椅子の下でそっとクロスさせた。 「夫はね」ミセス・コーラルは言った。 「とても優しい人だったわ。明るい水色の目をして、いつもにこにこしていた。大きな家に生まれて、とっても重要な立場にいたけど、いつも機嫌がよくて努力していたわ。それから、思いだすんですよ。あなたたちを見ていたら。夫はエスコートも上手にできる人だった。いっしょにパーティに行くときは、いつもとても立派だったわ。でも、そういうこととはまた別に……精神的には……わたしのことを黙って、少し後ろに下がって見守っていた。わたしが本物の、自分の足で立つレディになれるようにって。倒れそうなときはさりげなく手を差し出してくれた。思いだすんですよ。あなたを見守っているハイドさんを見ていたら」  素敵な旦那さんですね、とウィルクスは言った。ミセス・コーラルは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。目がきらきら光り、ウィルクスは海を見つめるように彼女の瞳を見た。カールした白髪が揺れた。 「わたしがとても若い少女だったころ。夫に思いをうちあけたとき、あの人は言ったの。ぼくは男のほうが好きなんだって。断るための嘘だとは思わなかった。本当のことだったの。だからわたし、とても腹が立ったわ。夫は十二年前に亡くなりました。そして立派な息子を残してくれたわ」  ウィルクスはミセス・コーラルのほうを向いて、黙って聞いていた。彼女は若い男の上下する肩と胸を見た。痩せた体は、彼女から見ればまだほんの男の子だった。  ミセス・コーラルはうちあけた。 「よく夫からは笑われたけど、わたしは夫が死ぬまで彼に恋してたわ。恋してるときがいちばん愉しい時間ね。夫は『慣れることも大事なことなんだよ』と言っていたけれど」  ウィルクスとミセス・コーラルの目が合った。ウィルクスは言った。 「シドも同じように言うと思います」 「わたしたち、素敵な夫を持ちましたわね?」  そうですね、とウィルクスは答えた。  二人は海を見た。午後の日差しに揺れる水面と、生き物のように打ち寄せる波を。ハイドは海面からあがり、砂浜をゆっくりした足取りで二人のほうに歩いてきていた。濡れてぺったりした髪をかきあげ、顔を濡らす海水を手で拭っている。膝上のあたりまで覆う黒い水泳パンツを履いて、逞しい上半身は剥きだしだった。  彼は二人のほうにやってきて、ウィルクスからタオルを受けとった。顔を拭きながら、ハイドはとても気持ちよさそうだった。 「泳ぐのは久しぶりだよ。ぼくはプールより海のほうが好きだな。……こんにちは、ミセス・コーラル。今日もいい天気ですね。膝の調子はいかがですか?」 「今日はだいぶいいの。ありがとう、ハイドさん」  ハイドはにこっと笑い、ざっと体を拭くとタオルを首にかけ、ビーチバッグにつっこまれたパーカーを手に取って羽織った。 「一杯いかがかしら、ハイドさん」ミセス・コーラルが言った。「モヒートはいかが?」 「いいですね」  ハイドは海辺に臨むカフェのほうを振り返った。テラスにいたウェイターがそれに気がつき、静かに歩み寄ってくる。ハイドはウィルクスのほうを向いて、「きみは?」と尋ねた。ウィルクスはビールを選んだ。ハイドがウェイターに注文しているあいだ、刑事は夫の背中を見ていた。  風が吹いて、ハイドの髪はもう乾きはじめていた。 ○  ミセス・コーラルがバックギャモンをしに行ってしまったあとも、二人は敷物の上に座って海を見ていた。ウィルクスは隣に座る男の横顔をちらっと見た。 「焼けましたね、シド」 「そうかな」ハイドは鼻の頭をごしごし擦っている。 「ほら、鼻の頭、ちょっと剥けてますよ」 「皮が薄い場所だからね。まあ、いいか。優雅なバカンスの代償だ」  ハイドはこの日もにこにこしていた。この人は大地が割れて海が落ちてくるときもこんなふうににこにこしているのかな。ウィルクスはふと思った。きっとそうだという気がした。  彼はミセス・コーラルの言葉を思いだした。わたしは夫が死ぬまで彼に恋してたわ。じゃあ、亡くなったあとは? ウィルクスは訊かなかった。  わかっているのは、ミセス・コーラルは今でも夫と時間を共にしているということだ。  もしシドと別れたら、そのときおれは本当に彼から自由になれる。自由になって、きっとこの人を愛せる。ウィルクスはそう思った。ミセス・コーラルには言わなかった。彼女ならわかってくれる気がしたが、もっと考える時間がほしかった。  本当は離れたくなかった。  ウィルクスは結婚相手の横顔を見た。浅黒くなった肌は頬骨の陰影を濃くし、彫りの深い顔立ちは穏やかで静かに海を見ている。薄青い瞳は輝いていた。  彼はふいにウィルクスのほうを向いて、「どうしたんだ?」と微笑んだ。  あなたに恋をしている。ウィルクスはそれを口には出せなかった。だから代わりに言った。 「シド、あなたの顔、おれは好きです」  え? ハイドはふしぎそうな顔をした。ウィルクスはハイドが着ているパーカーの襟元にそっと触れた。肩まではだけさせて、じっと見つめた。 「それに、あなたの逞しい肩が好きだ。すごく強そうで、優しそうで。好きなところはたくさんある」  ハイドは微笑んだ。彼はパートナーの言葉を、好きな体のパーツはたくさんあるということだと解釈した。ウィルクスはじっと、はだけたパーカー越しに見た。筋肉がしなやかに発達し、優美な骨格が潜む肩を見つめた。  おれがもっと自由になる姿をいつかあなたにも見ていてほしい。彼はそう思った。

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