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12.探偵と刑事と密やかな二人△

「聞いてくれシド、さっきそこの本屋でひどい目に……」  フランスから来た作家のイヴ・ド・ユベールが眉を吊り上げて居間に入ってきた。語気荒く、拳を握りしめ、いつもはきれいに撫でつけているブロンドの髪が半ば額に垂れてきている。あんな本屋燃やしてやると言わんばかりだったが、しかし彼は暖炉のそばの椅子に黙って腰を下ろしている男を見て、気勢をそがれた。  ユベールの大学時代の一つ後輩にして、現在はロンドンで私立探偵を営んでいるシドニー・C・ハイドは、椅子の中で彫りの深い貴族的な顔立ちをぼんやりさせている。薄青い瞳は虚ろに虚空を見つめていた。ユベールは目をぱちぱちした。 「どうしたんだシド、飼ってる亀が死んだのか?」  ハイドは聞く気もなかった。虚空を見たまま、ぽつりと「寂しいもんだなあ」とつぶやいた。  ユベールは「ははあ」という顔になる。「著者近影でヌかせる男」と一部の同性愛者から愛好されている、知的かつ洗練された色香溢れる顔が、俗っぽくにやりと笑った。彼はハイドのほぼ向かいに置かれた濃いグリーンのベルベット張りの椅子にどさりと腰を下ろすと、さらにニヤニヤしながら後輩の顔を見た。 「まだ二日しか経ってないのに、もうウィルクスさんが恋しいのか」  ハイドはユベールの顔をちらりと見ると、大柄な体を椅子に沈めたまま覇気のない目を向ける。しばらく沈黙したのち、独り言のようにぽつりと言った。 「……結婚してるのに顔をあわせない日もあるけど、やっぱり家に満ちてる気配が消えると、寂しいもんだな」 「めずらしく弱気じゃないか」  ユベールはニヤニヤ笑いを抑える気もない。でかい男がしょんぼりしてるのは可愛いもんだなと呑気に思う。上着のポケットに手をつっこんで煙草の箱を探しながら、優美な微笑みを浮かべた。 「結婚してもしなくてもたいして変わらない、とのたまっていたのはきみじゃないか、シド」 「そう思ってはいたが」ハイドはユベールを見てどこか恨みがましい目になる。「現実は違ったんだよ。いざ結婚しないとわからないものだな」 「バツイチなのによく言うよ。それとも、奥さんのときとは違うって?」 「アリスとの結婚は絶え間ない修羅場の連続だったからね。離れたくないと思いながら、同時に一刻も早く離れたい、離れなければと思っていた」  ハイドは言葉を切って、急に唐突と思える話をしはじめた。 「エドを見ていると、ぼくは地獄で天使の姿を見ているのかもしれないと思う。でもそんなこと、美しすぎてちょっと信じられない。エドにその話をしたら、『おれは天使じゃない、でもあなたといっしょに地獄にいたい』と言っていたよ。……ぼくのいるところをわかっていないんだ。彼はそんな場所にいる必要はないよ。気持ちはとてもうれしいけれど」  ユベールは眉間に皺を寄せる。私小説じゃあるまいし、なんだか話が抽象的すぎる。ハイドの言いたいことがわからなかった。ただ、きっと惚気なんだろうなとは思った。  作家は額に落ちてきた前髪をかきあげ、元のようにきちんと撫でつけると、マルボロの箱から一本抜いて口にくわえた。ハイドが黙って腰を浮かせ、マントルピースの上に転がっているマッチ箱をつかんで放り投げる。ユベールは"Merci."と言って受けとり、煙草に火をつけた。マッチを暖炉に放ると、煙を吸いこむ。それから気持ちよさそうにぱっぱっと吐いた。 「ああ……」  ハイドがうめいて、ユベールはまばたきする。 「エドが吸っているのと同じ銘柄だ……」  大きな手で顔を覆い、愕然としてつぶやくハイドにユベールはぽかんとした。煙草の箱とマッチ箱を立て続けにハイドに放り、「重症だな」と感心したように言う。 「たった七泊八日だろ。七回眠ったらまた会えるじゃないか。だいたい」  すぱすぱ煙を吐きながら、作家は目をぐりぐりさせて後輩を諭した。 「きみはもう四十を過ぎてる。おれと同様、時間が流れ去る感覚もだいぶ速くなっているはずだ。一日なんてあっというまじゃないか」 「一瞬だからこそ、我に返ったときにこたえるんだよ。エドは、今はここにはいないんだなと思うと」  そう言って、ハイドは煙草を吸った。黙って煙を吐き、虚空を見つめる。狼のような顔立ちがアンニュイな哀しみを帯びて、たいへん色っぽいけど若干手を焼くなとユベールは思った。彼は芝居がかった調子でこほんと咳をする。虚ろなハイドの顔を見て、きっぱり言った。 「しょぼくれてるきみは可愛いが、元気を出せよ。愉しいことを考えるんだ。そうだな、ウィルクスさんが帰ってきたら、いっしょにどこに食事に行こうか、とか」 「それはもちろん、クローズコート・クラブだよ」顔を上げ、ハイドは目を輝かせて言った。「ぼくも彼も大好きな店だから。ステーキとローストビーフとフレンチポテト、クレソンたっぷりで食べたいな」  鷹揚な笑顔でうなずきながら、ユベールは思った。まったく困ったところに来たもんだと。  さっきからハイドが愛慕の情を募らせている相手は、エドワード・ウィルクスという。ロンドン警視庁の刑事で、あとひと月ほどあとの十月には二十八歳になる青年だ。バイセクシャルの彼は一途にハイドに思いを寄せ、紆余曲折を経て異性しか愛したことのない彼を振り向かせることができた。この前の八月に結婚。現在新婚で、その仲睦まじさはすでに刑事部で語り草になっているほどである。  そんなふうに探偵と刑事は仲良しだが、お互い仕事の都合でしばらく離れていなければならない時期もある。  今回は、ウィルクスが出張でパリを拠点に、ヨーロッパに飛んでいる。最新の科学捜査を実地で学んでくるらしい。ウィルクスは人生のあらゆる面でまじめな人間なので、意欲はじゅうぶんで、ハイドにも仕事に役立つ土産話ができるからと意気込んでいた。スーツ姿に軽装の荷物を抱え、元気に「行ってきます」と言って、二日前に海を渡ったばかり。  彼を車で空港まで送っていったハイドはそのときの、騎士のような凛々しい姿を今でも懐かしく思いだす。まだ二日しか経っていないのに、何十年も経ったようだ。  おれはいったいどうしたんだとハイドは思う。 「だからおれが遊びにきてやったんだろ」とユベールは言う。  以前からの予定どおり取材でロンドンに出てくる用事があった彼は、ウィルクスから出張のことを聞くと、予定を三日繰り上げて入れ違いにハイドの探偵事務所兼自宅に泊まりこむことになった。  ユベールは気落ちした顔で首を振る。 「百歩譲っておれがウィルクスさんの代わりにならないとしてもだよ、ここまで正直に態度に表されたら、傷つくよ。おれだってきみのことが好きなんだからさ……」 「遊び人がよく言うよ」  横目でユベールを見て、ハイドは相手にしなかった。大学時代、ユベールに愛の告白をされたことがあるのだが、そのときから彼に対するハイドの態度は一貫している。ユベールは平気な顔で煙草をふかした。  ハイドもゆっくり煙を吐きながら、虚空を見つめてつぶやく。 「エド、元気にしてるかな。ちゃんとごはん食べてるかなあ」 「母親みたいな心配してるな」 「彼はいつも一生懸命でね、物事に打ちこむと食事を後回しにしてしまうんだよ。自分で料理がつくれないから、独身時代はパスタの缶詰とりんごと水で生きてたり。おれは頑丈だから平気です、って言ってたけど。大丈夫かなあ。今もじゅうぶん痩せてるのに」 「帰ってきたらきみの手料理をたらふく食わせてやればいいだろ。愉しいことを考えろよ。例えば……ウィルクスさんは、どんな体位が好きなんだ?」  薄青い瞳がじろりとユベールを見た。 「なんだって?」 「ウィルクスさんはどんな体位が好きなんだ?」 「なんでそんなことをきみに教えなくちゃいけないんだ?」 「愉しい気分になるからさ」 「愉しい気分になるのはきみだけだろう」 「きみも愉しめばいいだろ。好きな人が好きな体位でうっとりしてるところを思いだすと、心が和まないか?」  煙草を挟んだ右手を自分の左胸に押し当て、まじめくさった顔で言うユベールに、フランス人は大仰だなとハイドは思う。そう思いつつ、思わずつられてパートナーの好きな体位のことを考えてみた。彼は半ば白髪になった黒髪を撫で、黒々とした眉をわずかに寄せる。 「そうだなあ」つぶやいて虚空を睨んだ。「彼はやっぱり、バックからされるのが好きみたいだ。前も別に嫌いじゃないと思うけど、ものすごく興奮してるときは後ろからしてほしがるんだ」 「男同士だとそっちのほうがやりやすいからな。お互い遠慮なく貪りあえるわけだ」  煙草の火を灰皿でもみ消し、ハイドはユベールを睨む。すかさず煙草の箱を差しだされたので、探偵は一本抜いた。火をつけながら、「卑猥なことを言わないでくれるか」と警告するように低い声で言う。  ユベールは一見神妙になった。 「すまない。きみたちの神聖な愛の営みを下世話な言葉で表現してしまって」 「特に神聖ではないけれどね」煙を吐きながらハイドがあっさり言う。「ぼくは欲望のままに彼を抱いてるだけだから。でもまあ、下世話なことは言わないでくれ。肴にされたことを知ったらエドが恥ずかしがる」 「羞恥プレイ、だな」  ハイドは呆れた目でユベールを見た(シドニー・C・ハイドがこんな目をするのは、めったにないことである)。ユベールはまったくもってどこ吹く風だった。さらに煽るように、表情だけは神妙なまま言う。 「ウィルクスさん、照れ屋で恥ずかしがり屋だよな。なんというか、あんなに美男子なのに性格は素朴というか、生娘みたいというか。羞恥プレイをしたら盛りあがりそうだ」 「泣いちゃうからね」どこかしんみりした目でハイドが言った。「でも彼はガチガチに勃ってたし、後ろの感度も最高だったけど」 「あー、そう」  ユベールは煙を吐きながらちらりとハイドを見た。後輩の男はますます懐かしむ目になる。 「ふだんから感度はかなりいいし、そのうえ、こっちがちょっと意地悪するとものすごく興奮するんだよ、彼は。いじめられると感じてしまうんだ。父親が厳しい人だからなのかな、スパンキングすると狂いそうになるほど発情するし、『いけない子だね』というワードだけで軽くイきそうになってたし」 「ははあ」ユベールがつぶやいた。 「軽く言葉責めしながら後ろから突くとひいひい鳴いて狂ったみたいによがるんだ。あんなに痙攣する人は見たことがない。いつも控えめだし、羞恥心が強いけど、この前初めて自分から淫語でおねだりしはじめて、大きく成長したなあと思ったよ。可愛かったな……」  そこで間ができた。冷房の効いた室内がしんとする。ハイドははっとした顔になると、冷や汗を浮かべて「おれはなにを」とつぶやいた。 「いやいや、思わず下半身が熱くなるようなお話だったよ」  ボタンが開いたシャツの喉元をいじりながら、ユベールが真顔でうなずく。ハイドは心配になってきた。 「こんな話をしたこと、エドには黙っててくれよ。絶対恥ずかしがるからね」 「わかってるさ。……でも、おれもこの羞恥プレイに参加したいもんだね。そうすれば服を脱がないで3Pが可能……」 「ユベール」  焦ったハイドに睨みつけられて、作家はふうっと息を吐いた。屈託のない、輝くように魅力あふれる笑顔を向ける。 「わかってるよ。ウィルクスさんは恥ずかしがるだろうし、怒るだろうし、彼を傷つけることになる」  ハイドはうなずいて、急に肩を落とした。大柄な体を椅子に埋め、頼りなげな顔になる。思いだして、いないことに気がついて、また落ち込んでるのか。好きすぎるな、とユベールは彼の冴えない顔色を見ながら思った。  着信を告げるバイブレーションの音があたりに響いた。  それはハイドのスマートフォンで、パンツの尻ポケットに入れて敷いていたのを、彼は腰を浮かせて手に取る。画面を見た瞬間、その顔が輝いたのをユベールははっきりと見た。 「はい、もしもし?」  大好きな獲物にありついて、狼が尻尾を振るようにハイドはスマートフォンに向かって話しかけた。そんなときも、穏やかな口調はいつものままだ。いたわるように言った。 「こんにちは、エド。元気にしてるか? 研修は、きょうは終わり? そうか。時差があるから、そっちはもう六時過ぎだもんな。ああ、ぼくは元気だよ」  すごいな、とユベールは思う。あんなに寂しそうにしょんぼりしてたのに、パートナーからの電話に出るとそんな気配は皆無だ。穏やかで落ち着いていて、胸に抱いた寂しさを相手に微塵も感じさせない。だからきっと、すごく誤解されてるぞと作家は思った。  そしてウィルクスはそのとおり、誤解していた。 「え? 急にどうしたんだ? もちろん、愛してるよ」スマートフォンに耳を押しつけ、ハイドが必死に言っている。「そうだよ。早く帰ってきてほしいな。待ってるからね」  灰皿に煙草を押しつけ、ユベールはもう一本吸おうかどうか思案した。突然、ハイドが焦ったように言った。 「いや、今はだめだよ。ユベールがいるから。……うん」  ユベールはじっとハイドを見る。年下の男は自然に目を逸らした。 「うん。あとで、ぼくが寝室に行ったときに掛けようか。それがいいよ。それまで我慢できるか? そう、きみは我慢強い男の子だからね。いい子だ。きっと、たくさん我慢したほうが気持ちいいよ」  察するに、とユベールは新しい煙草に火をつけながら考える。電話の声を聞きながら自分で自分を慰めるってことだな。自分の飛躍した妄想かと思ったが、しかしそれが正しいということも、ユベールは生まれながらの洞察力と観察力で直観していた。 「愛してるよ、エド。もちろんだ」  ハイドは声を潜めて、しかしユベールのことは忘れたかのように(というか実際にも目に入らずに)優しい声で続けた。 「そういえば届いたよ。あの……いや、きみがアマゾンで頼んだ本じゃなくて、あの、あっちのほう。そう、あの細めの……」  脚を組み替え煙を吸い、ユベールは体をもぞもぞと動かした。ハイドは優しくしゃべり続けている。 「うん。細かったら、そんなに負担なくできるかもって言っていたやつ。帰ってきたら、使ってみようね。……大丈夫だよ。もし、やっぱり気持ちよすぎておかしくなりそうだったら、使わず置いておけばいいんだ。スイッチを入れず、ディルドとして使えば……。え? ああ、わかってるよ。きみが玩具よりぼくのものが好きってことは。でも、ぼくがいないときに使うこともできる。電話の声を聞きながら……。え? もちろんだよ。軽蔑しないよ。淫乱で助平なきみが好きなんだ。じゃあね。元気で無事に帰ってきてくれ。待ってるよ。あ、そうだ。それから、イヴにもきみが元気だって言っておく。じゃあまた」  そう言って通話を切ると、ハイドは急に真顔になった。 「しまった。イヴの名前を出したらエドが我に返ってしまったな。恥ずかしさで悶絶してないといいんだが」  通話の切れた画面を見つめながら眉間に皺を寄せるハイドをつくづく眺めて、ユベールは感心したように言った。 「きみたちのプレイにおれも混ぜてくれよ」 「プレイじゃないったら。きみみたいな、相手がいっぱいいる遊び人はそんな必要ないだろ。ぼくとエドが密やかに愛と欲情を育んでいるところを、邪魔しないでくれ」 「確かに密やかだな。なんていうか、そう……」  その密やかさはあまりに深く、どこからもかけ離れていて、まるでこの世界には生きていないかのようだった。 「エデンの顔をした地獄の、いちばん幸福な場所の二人」  ユベールがそう言ったら、「きみはロマンチストだね」とハイドは笑った。

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