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13.探偵と刑事と賭け・一△

 なんでこんなことになってしまったのか……種を撒いたのは自分自身なのに、エドワード・ウィルクスは朦朧として思いだせなかった。  かすかに揺れながら走る地下鉄の電車の中、扉に近い座席の隅に身を埋めて、膝に置いた黒いトートバッグを抱きしめるように体を丸める。体の中におさまった小さな物体が震えるたび、肉体が騒いでたまらなかった。呼吸が上擦り、吐き気を催すほど動悸がして、じっとり滲んだ汗の冷たさがわからないほど、体が燃えている。全身の震えが止まらない。  ぎゅっと目を閉じて、ウィルクスは耐え抜こうとした。ほんの十数分程度の時間なのに。それでも、あとまだ到着までこんなに時間がかかる、ということを確かめるのが恐ろしくて、電子掲示板に駅名と共に表示される時間を見ることができなかった。  混雑している電車内は熱気で蒸して、四人掛けシートの隣に座った男がやたらとくっついてくる。  ウィルクスはひたすらうつむいて、苦しそうに息を吐いた。吊革を握って目の前に立っているサラリーマンとおぼしき男が、ウィルクスを心配してか、「大丈夫? ほんとに大丈夫ですか?」と何回も訊いてくる。なんとか顔を上げて、「大丈夫です」と必死な笑顔を浮かべて答えたら、男は妙な顔をした。  あと六分だ。  顔を上げて確認して、すぐに伏せる。目に涙をためたまま、黒のスキニーパンツを履いた膝をぎゅっと握った。二分後に到着する次の駅で公衆トイレに飛びこみたい衝動をなんとか抑える。トートバッグを抱いて、顔を伏せているウィルクスは自分が首筋まで赤くなっていることを知らない。 ○  エドワード・ウィルクスの結婚相手は十三歳年上、同性、そして私立探偵である。互いに年齢差は苦ではないし、同性であることも今はほとんど問題ではない。二人がいちばん気を遣って、寝室の問題のようにデリケートに取り扱っているのは、互いの職業に関してだった。  ウィルクスはスコットランド・ヤードの刑事なので、彼を通じて情報がパートナーのシドニー・クリス・ハイドに筒抜けになることは、警視庁の面々が心配していた。ハイドが腕を買われて、ときに警視庁に協力することもありながらである。しかしハイドは「それも当然だ」と笑顔で言って、納得している。  むしろハイドがウィルクスに内緒にしていることのほうが多い。ウィルクスもわかったつもりではいる。ハイドの依頼人は、今の場所から追い落とされないように醜聞をもみ消したがったり、ことを警察沙汰にしたくない人間たちだ。  ドクター・ワトスンに不審げな目を向ける依頼人に、シャーロック・ホームズが「彼は大事な協力者ですからお気になさらず」と言ってのけるのとは反対に、ウィルクスはいつもハイドに席を外すよう、それとなく言われるだけだった。  それはそうだ。仕事を通じて知り合って、今は結婚しているけれど、その点では互いに干渉しないことが一番だ。ウィルクスはそう考えて、いつも大人しく引き下がっていた。死後硬直の変化や劇毒の効き目について熱い議論を闘わせることはあっても、業務上の秘密には触れないようにしていた。  だから九月半ばに入って、ハイドがあまり家に帰ってこなくなっても、訊いてはいけないとウィルクスは思っていた。  九月十九日の夜、四日ぶりに自宅でハイドの姿を見かけて、ウィルクスはうれしかった。恋人同士だった時代、やっと二人きりで会えて、仕事帰りにデートしたときのこともふいに思いだしたりして、愛おしさに胸が痛むほどだった。  風呂から出たばかりのウィルクスは髪を乾かすことも忘れて、居間兼事務所の中に足を踏み入れた状態で、そこにいるハイドを見つめていた。外出着の茶色いカーディガンを羽織った彼は窓のそばに置かれた大きな仕事机の前に座り、ガラスの天板に両肘をついて、大きな両手に顔をうずめていた。ウィルクスは微笑みを抑えきれず、彼のほうに歩いていった。  ふいにハイドが顔を上げ、ウィルクスはぎくっとする。  年上の男の顔が険悪だったからだ。黒々とした眉の下から覗く薄青い瞳は苛立たしそうに険しく、据わっている。彫りの深い顔立ちは狼のようにぎゅっと引き締まっていた。穏やかで優しい気性の彼からは想像もつかない、苛立たしげな、殺伐とした表情だった。ハイドはふと戸口のほうを見ると、「きみか」とつぶやいた。微笑みもなければ、「ただいま」の一言もなかった。  それでも、ウィルクスは「お帰りなさい」と言った。逡巡した末、ハイドのほうにそっと寄っていく。不機嫌そうな顔だと思った。ウィルクスはそんなとき、相手を放ってはおけなくなる性格だった。忠実さのあまり、遠巻きに見ているよりも近づいていって、そのせいで殴られたほうがましだと思う性分だった。ハイドは顔を上げてウィルクスを見ているが、目元に険しく皺が寄っている。  ウィルクスはいつも穏やかで飄々として、明るい笑顔を浮かべているハイドが本当のハイドだと思っている。だからきっとよくないことがあったのだと思った。例えよくないことがあったとしても、ハイドはいつも巧妙に、負の反応を笑顔に紛らせてしまう。まるで笑みの形につくった鉄のマスクを身につけるように。だから、それに比べれば今の状態はましなんだと、ウィルクスは思うことにした。 「久しぶりに会いましたね」と笑わないパートナーに代わって笑顔を浮かべ、ウィルクスは言った。「レトルトでよければ、シチューがありますよ。食べますか?」それから少しして、ハイドと目を合わせたままつぶやいた。 「なにかあったんですか?」  大きな音が響いて、ウィルクスはびくっとした。ハイドが握りこぶしをガラスの天板に打ちつけた音だった。 「失敗したよ。おれはほんとに間抜けだった」  天板に置いた握りこぶしが白くなるほど力をこめ、ハイドは虚空を見据えて言った。「馬鹿だったな。もうどうしようもないことだが」  部屋はしんとした。ウィルクスも職業柄、ハイドの後悔と自責はわかっているつもりだった。それでもとっさに慰めの言葉が浮かんでこなかった。強張った顔で佇んでいるウィルクスのほうは見もせず、ハイドの目は虚空に据えられていた。青い瞳は暗く光り、その顔は残忍な狼のようだった。  彼はふらっと椅子から立ちあがった。ウィルクスとすれちがうとき、彼の顔を見もせずに「出掛けてくるよ」と言った。それから三分も経たぬうちにガレージから物音が聞こえて、車が走り去る音がした。午後十時三分だった。  ウィルクスはしばらく、仕事机のガラスの天板の上を見つめていた。ファイル一冊どころか書類一枚もなく、黒い陶器のペン立てやクリップが入ったガラス瓶、穴あけパンチや綴じ紐、閉じて置かれたノートパソコンが整然と並べられていた。ハイドが座っていた椅子は引かれて、今にも主が戻って腰を下ろすのを待っているようだった。彼はその椅子に腰を下ろした。ぬくもりは、はや失われかけていた。  胸の奥で鼓動が高鳴っていた。椅子に腰を下ろすと全身から力が抜ける。同時に、下腹部から突きあげるような熱と脈動を覚えた。湿った手のひらで、白いTシャツの胸元をぎゅっと握る。頭の中で鋭い青い瞳がぐるぐる回っていた。あんな表情は初めて見た、とウィルクスは思った。それなのに、思いは寝室にたどり着く。じっとりした熱とともに、淫靡な疼きとともに、ベッドにいるときのハイドのことを思いだした。  あの人は欲情が自分の許容量を超えると、目が据わってくるんだ。  ウィルクスは机の上に腕をあずけ、ハイドがしていたように両手に顔をうずめて、寝室のパートナーの姿を思いだす。それから、つい先ほど目の前から去っていった彼のことも思いだす。その目に込められた暗い炎、怒りと屈辱と失望をあらわにした顔が、ウィルクスの背骨を震わせ、肉体を煽った。全身がぞくぞくして、欲望と熱が肉体の深い底からわきあがった。  それが愛であるかのように震えたが、本当は欲情だった。険しい顔をしてぼろぼろになったハイドを見たとき、ウィルクスは性的に興奮していた。それはいけないことだ、穏やかな愛で彼を支えるべきだと思った。それでも、己を呪い、敵を睨みつける目に興奮した。  きまじめなウィルクスは自分を恥じて戸惑ったが、それでも彼の淫乱な気性は飢えていた。気がついてしまうと抑えることは不可能だった。 ○  二時間後に戻ってきたハイドは、黒いトートバッグを肩から垂らすように持ったまま、居間には行かず自分の寝室に向かった。もう眠るつもりだった。市販の薬が効きにくい体質の彼は、医者から処方された、しかしめったに飲まない睡眠薬の助けを借りることにした。それをバスルームの引き出しから取ってきて、ピルケースの透明な蓋をいじりながら自分の寝室の扉を開ける。  ベッドにウィルクスが腰をおろしていて、ハイドは驚いた。大きなベッドが置けない都合で、この青年はいつもハイドとは別の、自分の寝室で眠っているからだ。 「お帰りなさい」ウィルクスは輝く瞳で言った。  ふだんは威圧感を放つように凛々しく整った彼の顔が、欲情で緩んでいることにハイドはすぐに気がついた。それでも「ただいま」とだけ言って、部屋の隅に置いたコート掛けに肩から提げたバッグを吊り下げた。カーディガンを脱ぎ、運転時に掛ける眼鏡をマントルピースの上に置いて、振り返った。ウィルクスは貪欲な目で彼を見上げながら、しかし口元は不安そうに強張っていた。 「もう、眠っているかと思ったよ」  ハイドは静かにささやいた。落ち着いた、しかし感情を見せない低い声が霧のように忍び来て、ウィルクスの内部に沁み渡った。彼は身じろぎして目を伏せた。 「今夜はそんな気分じゃない」  ハイドが率直に言って、ウィルクスは唇を噛んだ。長い睫毛の奥の焦げ茶色の瞳を伏せて、体を揺すっている。 「もう寝なさい、エド」ハイドは優しい声でささやいた。「ここで眠りたいなら、眠ってもいいが。歯を磨いてくるよ」  そう言って背中を向けかけたハイドに、ウィルクスは腰を上げた。Tシャツの上から羽織ったグレーのパーカーの胸元を握って、「待って」と言った。  ハイドが振り向くと、ウィルクスは後悔した。しかし、言葉は口からすべり落ちた。 「あんまりかまってくれませんね」  口に出した瞬間、ウィルクスは凍りついた。媚びて甘える女みたいな口調。自分を殴りつけたい気分になる。彼はぎこちなくベッドに腰を下ろした。ハイドは呆気にとられた顔で年下の青年を見下ろしている。沈黙が凄い力でウィルクスの上にのしかかってきた。  しかし、ハイドは微笑んだ。 「ごめん」優しい口調で言って、ウィルクスに向きなおる。「忙しかったし、うまくいかないことが重なって。自分を殴ってやりたい気分だよ」  それからベッドのそばに膝をついて大柄な体を丸め、目を伏せているパートナーの顔を覗きこもうとした。 「気を遣わせてすまないね。きみの誘いはうれしいよ。ただ、今夜はもう眠りたいんだ」  大人から諭されている少年になった気分で、ウィルクスはなんとか顔を上げた。  ハイドの目に、真っ赤になったこの青年は生娘のように見えた。その姿にハイドは愛おしさを覚えると同時に、妙に心の残酷な部分が騒いで仕方なかった。これまで、ハイドが胸に秘めている残酷さに気がついた者は一人としていなかった。ウィルクスも気がつかず、彼はハイドの目をじっと見つめた。 「明日は?」  ささやくようにウィルクスが言った。ハイドは彼の膝を軽く叩く。そんな刺激でもウィルクスが身を強張らせたことが驚きだった。 「明日もまだ忙しいな」なだめるようにハイドが言った。「早起きしなくちゃ。それから、片づけないといけない仕事がいくつかある」 「人が死んでしまったんですか?」  不安そうなウィルクスを見て、ハイドは表情を和ませた。 「いや、幸いそこまで酷い事態にはならなかった。でも、それは探偵の宿命のような気がするよ。推理小説に出てくる探偵はそろいもそろって、人がもう一人殺されたところで『のんびりしすぎた、もう少し早く行動していれば』と後悔している。ぼくもまあ、そんな感じだな」  飄々と言ったハイドの微笑に、ウィルクスはなぜか薄ら寒いものを感じた。そこまで酷い事態にならなかったのは幸いだった。それでも、常態に帰るのが早すぎる気がする。そう思いながら、それでも、ウィルクスは手を差し伸ばすようにして訴えた。 「あさっては、だめですか?」  気恥ずかしさのあまり怒った顔になっている青年を見て、ハイドは彼の手にそっと手を重ね、すぐに離した。 「あさってもむりだろう。五日は見てくれ。そうしたら……」  そう言って視線を上げたハイドの青い瞳が、ウィルクスの胸に突き刺さった。真剣なまなざしで見つめてくるハイドの、しかしどこか余裕のある態度。それが彼の肉体を掻き乱した。 「バイブを使えばいいよ」突然、あっさりとハイドが言った。「きみは振動に耐えられないだろうけど、電源を入れずにディルドとして使えばいいんだ」  そこまで自分の内側を覗かれていたことに気がついて、ウィルクスはショックを受けた。首筋まで赤くなる。ハイドは微笑みを浮かべて彼の膝に手を置いた。  そのとき急に、ウィルクスは負けたくないと思った。彼は視線を絡めるとるように目を上げ、緊張で舌が口の中に貼りつきながら、それでも静かな声で言った。 「賭けをしませんか?」 「賭け?」  ハイドの顔におもしろそうな表情が浮かんで、消えた。ウィルクスはうなずいた。 「そうです。明日、休みなんです。あの……あなたはローターを持ってましたよね。バイブは、その……で、でかいから。ローターを入れたまま、あなたと電車に乗ります。目的地に着くまで我慢するから、それができたら、だ……抱いてくれませんか」  目を丸くしてハイドは年下のパートナーの顔を見た。ウィルクスはぎりぎりのところで目を逸らさなかった。自分が発した言葉にすら肉体が騒ぎ、身にまとった殻から中身が流れだしそうになる。それを抑えて、ウィルクスは一瞬目を伏せ、またハイドを見た。ハイドは無言だったが、パートナーと目を合わせると、大きな手の指をウィルクスの指に絡みつかせた。刑事は目を逸らした。 「意外だな」そう言って、ハイドはまじめな顔をしていた。「きみがそんな大胆な賭けをするなんて。いつも控えめで、性に対しても潔癖で、淫乱な自分を憎んでいるのに……」 「乗らないんですか?」  挑戦的に言ったウィルクスに、ハイドは微笑みとともにささやきかけた。 「いいだろう。乗るよ。明日の午後五時過ぎ、地下鉄にしよう。それなら少し時間がある。ぼくは仕事のあと、直接ホームに行くよ。待ち合わせよう。それでいい?」  聞き分けの悪い子どものように扱われているのはなぜなんだろう、と悲しくなりながら、ウィルクスはうなずいた。 「きっときみはとても頑張る気がする」  ハイドが優しく言って、ウィルクスはベッドから腰をあげた。そして黙ったまま部屋を出た。ハイドは伸びをして、閉ざされた寝室のドアをじっと見つめた。それからバッグの中に入れたミネラル・ウォーターのボトルを出して、睡眠薬を飲み下した。

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