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14.探偵と刑事と欺く男
「恋が成就したり、結婚したりすることは、一つのゴールなんですかね」
低い声のつぶやきに、ロンドン警視庁のストライカー刑事はちらりと隣の男を見た。明かりが絞られているパブのカウンターに、偶然顔をあわせた二人は隣りあって腰を下ろしている。
ストライカーの左手側では、深い緑色のガラスでできた古めかしいランプシェードがその下にオレンジ色の光の輪を落としている。ゆえにストライカーの顔は光に照らされていたが、彼の右手にいる私立探偵はほとんど暗がりに沈んでいた。それでも、薄青い瞳はきらっと光って見える。
天井付近に取りつけられた扇風機は、薄緑色のファンを休むことなく回し続けていた。その横のテレビは今夜のニュースを映し、白く光っている。
シドニー・クリス・ハイドは前を向いて、視線をカウンターの内側の壁に向けていた。その先にあるのは軽妙な筆致で描かれたポスターだった。黒髪をボブにした若い女が煙草を吸っているというイラストだ。これもまた当時そのまま、古びた広告だった。
ストライカーはウイスキー・ソーダを一口飲むと、灰皿に乗せた吸いかけの煙草を手にとった。聞いていないふりで流そうとしたが、「ストライカーさんはどう思いますか?」とハイドに尋ねられて、ぎょろぎょろした目を剥いて「ああ?」とつぶやいた。油とヤニでややべたつくカウンターを指で擦り、ハイドのほうを向いて言った。
「あんた、新婚だろう」
「まあ、そうなんですけどね」
ハイドは相変わらず前を向いている。いつの間にか新しい煙草に火をつけていた。ゆっくり吸って一言、
「ストライカーさんはもう二十年以上、結婚生活を送っているそうですね。だから参考に、訊きたいんです。結婚はゴールですか?」
「結婚しても人生は続いていくんだよ、お若いの」
刑事はやや不機嫌そうに答えた。煙草を吸い、いびつな鼻の下で唇を結んで、皮肉屋の性格が炸裂した。
「結婚生活が愉しすぎて天国にいるみたいなのか? なら、先達として教えてやるがね、一生天国にいることはないから安心したまえ。いつか地上に戻ってくるさ」
たいしておかしいことを言ったわけでもないのに、ハイドは煙草を口から離すと「ははは」と笑った。心から愉快そうだった。ストライカーは痩せた自分のこめかみを指で引っ掻く。酔って絡んでくるときさえ、この男は得体が知れない。そう思った。
ハイドはストライカーのほうを向き、指に煙草を挟んだままちょっと微笑んだ。半ば白髪になった髪の下、彫りの深い顔立ちはとても愛想がいい。おれは食べないよと言いながら、赤ずきんのそばをうろうろしている狼のようだ。刑事は鼻を鳴らす。
「早くも結婚生活に飽きたのかね?」
「そういうわけでもないんですが」探偵はまた前を向いて、虚空に向かって紫煙を吐いた。「――ましてね」
「なんだって?」
ストライカーは細い眉を上げる。バックで流れている音楽がうるさかった。彼の不満はだいたいこれだった。落ち着いた席のある喫煙を許された店なのに、流行りのポップスが流れている。若者はほとんど来ないパブなのにだ。
「聞こえないよ」
灰皿に灰を落としながら刑事が眉間に皺を寄せると、探偵は繰り返した。
「親父のことを思いだしましてね。うちの親父は、それは女好きの遊び人でした。そのせいで各所で問題を起こしていた。で、その問題を裏から収拾する人間もいましてね。ハイド家の人間は、彼には頭が上がりませんでしたよ。親父はなにしろ破綻してました。取り柄は鷹揚なことと愛想がいいこと、それにもの凄い美男だったことくらいでね」
「あんたよりもハンサムだったのか?」
刑事が尋ねると、ハイドは彼のほうを向いて屈託のない笑顔を浮かべた。
「ええ? もちろん比べ物にならない美男でしたよ。ぼくは別にハンサムではない」それから続けた。
「親父の女癖の悪さは致命的でしてね。そのうえ本人はほとんど困っていなかった。家族はみんな腹を立て、親父の遊び相手は泣いていましたよ。ときには失意から殺さんばかりの女もいた。でも、ぼくが若いころは――親父が生きていたころですが――父に対しては特になにも思わなかった。困った人だとは思いましたが、非難はしなかった。ぼく自身が親父の女遊びの延長で産まれた子どもだったから、親父を非難すると自分自身を否定することになる気がしたんです。ということで、うちの異母兄二人の態度とぼくの態度のあいだには、おのずと温度差がありましたよ」
「それがどうしたんだ?」
紫煙を吐きながら、ストライカーは辛抱強く尋ねた。腕時計を見るともう午後十時半になろうかというころ、そろそろ帰りたかったが仕方ない。ハイドは刑事部に籍を置く同僚、エドワード・ウィルクスの結婚相手だ。もし一人で帰れそうにないなら、ウィルクスに連絡を入れてやろうとストライカーは思った。
ハイドは唐突に言った。
「なんだか今になって、親父の気持ちがわかるような気がするんです」
ストライカーは唇にグラスを押し当てたまま沈黙した。ややあって中身を飲まないまま、そっとグラスをコルクのコースターの上に戻した。それから隣の男をちらりと見る。
「おれはウィルクスに告げ口するつもりはないが、ミスター・ハイド、不倫宣言か?」
「違いますよ」
不思議なほど落ち着いた口調でハイドが言った。彼は半分ほど飲んだマンハッタンに飾られたチェリーで、薄いカクテルグラスの縁を叩いていた。それから、ほとんど抑揚のない口調で、前を向いたまま言った。
「不倫する相手はいない。遊び相手もいません。ただ、父の気持ちはわかる気がする。彼は一人の相手では満足できない。次々と新しい快楽、自分が知らなかった快楽を得たいと望んでいた。それは自然なことだ。刺激に慣れて、行為がエスカレートしていくのもわかる。それから」ハイドは酒を一口飲んだ。「関係が固定化されるのも嫌だったんでしょう」
「それは気の毒なお人だな」
鼻を鳴らすようにしてストライカーが言った。ハイドはうなずいた。
「たしかに、父は気の毒な人だった。ただ、父が思う最終目標は違ったんですよ。彼は恋愛やセックスを完全にゲームだと思っていた。狩猟のようなものです。恋愛というのは単なるきっかけで、そこからいかに人間関係を築いていくかが大事だということに生涯思い至らなかった。
だから自分の人生で手に入れたい人間関係の最終目標が、『安定した関係』とか『安らぎを得られる相手』ではなかったんでしょう。……父のようにゲームと思っているかどうかは別として、とにかく、安定した関係があればそれで満足だとは思わない人。そういう人はたくさんいると思いますよ。ぼくもそうだ。だから、ウィルクス君を最終的には裏切ってしまう気がしているんです。――彼は、ぼくと安定した関係を築きたいと思っている。ぼくといっしょに暮らして、安らぎを手に入れている。うぬぼれかもしれませんが、そんなふうに思うんです」
ウィスキー・ソーダを口に運びながら、ストライカーは真正面を向き、視線はやや上を睨みつけていた。
黒いVネックのカットソーに茶色のコットン・カーディガンを羽織り、大柄で逞しい体をやや丸めるようにして煙草を吸っているハイドと、仕事帰りの地味なスーツ姿で、袖口についた煙草の灰を払っている枯れ木のようなストライカー。カウンターの中にいるバーテンダーは、この常連二人が互いに知り合いであることに今夜初めて気がついた。しかし、彼らの話をかすかでも聞くことはほとんど不可能だった。ハイドもストライカーも抑えた低い声で話し、バーテンダーが耳にできるのはハイドの笑い声と、ときどきストライカーが短く毒づく声だけだった。
「あんたは今のウィルクスとの関係に不満なのか?」
眉間に皺を寄せたストライカーの問いかけに、ハイドはぼんやりと虚空を見つめる。青い瞳は透きとおって、ひび割れたガラスを嵌めこんだかに見えた。
「不満ではないが、ぼくも関係が固定化するのは嫌いなんです」
灰皿に置いた煙草を手に取るが、すぐにもみ消してハイドが言った。新しい煙草をケースから出してくわえ、白いコットン・パンツのポケットからライターを探して火をつけた。
「もし子どもでもいたら、また違うのかもしれないが……。ぼくとウィルクス君は男同士だから、子どもはできない。引き取る予定も今はない。……あなたも、奥さんとのあいだにお子さんはいませんでしたね?」
「そうだよ」ストライカーは自分の吸っている煙草の煙にむせて、喉をぜいぜい言わせた。「うちはかみさんと二人だけだ。猫が子どもの代わりさ。それでけっこう、お互い満足してるがな」
煙草を灰皿に押しつけると、ストライカーは急に横を向いた。
「ミスター・ハイド、あんたが冒険家気質だとは知らなかった。一人の相手と落ち着くのが好きなんだと思っていたが」
「ぼくも意外でしたよ。だから、気をつけるようにしてるんです」煙草を吸いながら、コースターを湿らせているカクテル・グラスの脚を眺め、ハイドは唐突に切りだした。「自分の嗜虐的な性格が目覚めないように」
「は?」
ストライカーは怪訝な顔をする。いつも穏やかで優しい隣の男と、「嗜虐的」という言葉はまったく相いれないように思えた。たしかにストライカーは以前、ハイドは「飢えた男」だとウィルクスに言ったことがある。
根拠はないが、ストライカーはそう直感していた。刑事として、証拠がないのに相手を非難したり決めつけたりしてはいけない……しかし証拠はないとしても、優れた刑事は人間性を見抜く目を持つ。
ストライカーは今でもハイドを「飢えた男」だと思っている。……しかし、嗜虐的とは。
ハイドは紫煙を吐きながら、ストライカーが聞いていてもいなくても構わないかのように続けた。
「嗜虐的な心が目覚めれば、ぼくはきっとウィルクスによくないことをするでしょう。そうすることで、固定化した関係を壊したくなる。彼はきっと、これまで見せたことのない顔を見せるでしょう。でもね、そうすると彼をすごくいじめなくちゃいけなくなるし、もしうまくいっても、彼はきっとぼくを憎まないし、見捨てない」それからハイドはカクテルを飲み干した。グラスをそっとコースターの上に置いて、言った。「それじゃあ、あまり意味はありませんからね」
「あんた、勝手な男だな」
目を細めてストライカーが言うと、ハイドは大きな手を口元に当てて、指のあいだに挟んだ煙草をくわえた。そして煙を吐いたが、刑事には彼がかすかに微笑んでいるように見えた。探偵は言った。
「ウィルクス君には言わないでくださいね。そもそもこんな話をするつもりじゃなかった。なにを話したかったのか、それも忘れてしまいましたよ。……彼のことは、できれば大事にしたい。関係を壊すことで新しい関係を築くのは、そう……蛇が脱皮するように必要なことかもしれないけれど。ときどき彼を泣かせたくなる。でも、それが間違っているって、ぼくはちゃんとわかっていますよ」
どうだかな、とストライカーは言いかけた。彼は酒を飲み干し、次の煙草を思いとどまるのにやや苦労したあと、背の高いスツールから降りた。
「おれはもう帰る。あんたはどうする?」
「あと一杯飲んだら帰りますよ」ハイドはストライカーのほうを向くと、あたたかみのある笑顔で言った。「おやすみなさい、ストライカーさん」
「ああ、おやすみ」
清算を済ませてパブから外に出ると、あたりは真っ暗だった。街灯と街灯の間隔が広いうえ、街並みには明かりが消え失せている。店は歓楽街でなく、ホワイトホールの横道にあり、並んだ事務所はとっくに閉まっていた。
ストライカーはふと、あの店に同僚や警視庁に勤める職員がいたかどうか気になった。ウィルクスの名前を出すんじゃなかったと思う。「彼」という代名詞で通しておけばよかった。
手に持った、たたんだままの傘を持ち直す。予報では雨が降ると言っていたのに、結局一滴も落ちず癪だった。片手をポケットに入れ、煙草の箱を探しながら歩きだす。残りがあと一本で、ストライカーはいつも通る帰宅の道筋を変えることにした。夜も開いているドラッグ・ストアで、新しい煙草を買うつもりだった。
頑丈な石づくりの、銀行のちいさな支店の角を曲がったところで、突然若い男の驚いた声がした。
「ストライカーじゃないか」
声を掛けられて、刑事はなかなか点かないライターから顔を上げた。年下の同僚である刑事、エドワード・ウィルクスが立っていた。グレーのパーカーの前を閉め、スキニータイプのジーンズとスニーカー姿、背中には出勤するときと同じようにメッセンジャー・バッグを背負っている。あたりは暗がりだったが、二人が顔をあわせた支店の外に灯る明かりで、なんとか顔は見えた。
「今、帰りか?」
この日は休日だったウィルクスが尋ねると、ストライカーはうなずきながらくわえた煙草に火をつけた。それから目の前の青年の顔をじっとみる。美男のウィルクスは、凛々しい顔をきょとんとさせていた。
「どうしたんだ?」
ストライカーは紫煙を吐き出すと、傘の先で石畳の地面をこつこつ叩いた。それからウィルクスの瞳を見つめた。焦げ茶色の瞳は暗がりの中、真っ黒に見える。年上の刑事はさらに紫煙を吐いて言った。
「結婚生活は幸せなのか、ウィルクス」
「え?」ウィルクスは首を傾げる。思わず笑顔になって、「幸せだけど」と答えた。
「特になんの波乱もないよ」
「そうか。なら、なによりだ」
「どうしたんだ? 急に。そんなに波乱がありそうに見えるか?」
屈託なく言った青年に、ストライカーは胸の内でつぶやいた。――いいや、順調すぎるように見えるんだよ。それから彼は薄明りの下で、まじまじとウィルクスを見た。長身痩躯で美貌の彼は、見上げられてやや落ち着かなげに体を揺すった。どこか遠くのほうで、車のエンジン音が神経に障るくらい高く聞こえた。ウィルクスは首を傾げる。
「きみにそうやって見つめられると、不安になるよ、ストライカー。刑事に尋問されてる気分になる」
「尋問じゃないさ。ただ気になっただけだ。――きみのミスター・ハイドとパブで一緒になったよ」
ウィルクスは傍目に見てもわかるほど表情を和ませた。ふだん鋭い目をしている彼の微笑みは明るく、柔らかくなった蜂蜜のようだとストライカーは思った。
「そうだったのか」ウィルクスはうなずいた。「連絡が入ったんだ。よかったら迎えに来てくれって。けっこう酔ってたか? ――ああ、それなら大丈夫そうだな。ハイドさんがパーキングに車を停めてるらしいから、おれが運転して帰るよ。あ、なんなら一緒に乗らないか? あの人ももう帰る準備はできたみたいだし」
「遠慮するよ。今日は比較的、気持ちいい夜だからな。おれは歩いて帰る」
「そうか? わかった。じゃあ、気をつけて。また明日な」
歩きだしたウィルクスのほうを背中越しに振り向いて、ストライカーは言った。
「なあ、ウィルクス」
ウィルクスが振り向く。大型のワゴン車が走ってきて、彼の顔を白く照らしだした。かすかに開いた窓から、カーオーディオが狂ったようにジャズを流しているのが聞こえた。年上の刑事は伸びあがるようにして言った。
「なあウィルクス、もしなにか起こっても、きみはちっとも悪くない」
「え?」ウィルクスは振り返ったまま笑った。「なにがだ?」
「なんでもないよ。それだけ覚えておいてくれ」
わかったよ、とウィルクスは答えた。彼はふたたび歩きだした。スニーカーはほとんど音を立てなかった。長身の黒い影が遠ざかり、生い茂った松の木のある庭を折れて、見えなくなった。
ストライカーも歩きだした。明日、言うか言うまいか迷っていた。
ミスター・ハイドがきみに抱いている思いは恋のようで、もはや恋ではないんだ。
そんなことを口にしたら、ウィルクスはいったいどうしたんだと驚くだろう。だが、ストライカーは自分が正しいと信じていた。口を酸っぱくして、あの狼がきみを求める理由は、もう恋愛や愛情の次元にはないんだと教えてやりたかった。
しかし紫煙を吐いて心を決めた。それがおれの知ったことかとストライカーは思った。それにウィルクスは信じないだろう。枯れ木のように小柄な刑事は傘で地面を叩きながら、強い足取りで我が家を目指した。
○
パブの厚い木の扉の前で待っていたハイドは外灯に照らされて、酔っていることがウィルクスにはひと目でわかった。来てくれてありがとう、とハイドはにこにこしていた。車まで歩きますよ、大丈夫ですかとウィルクスが尋ねると、パートナーは機嫌よく笑って首を縦に振った。
パーキングは意外とパブのそばで、酔ったハイドの足でも、十分も歩かないうちに着くことができた。LEDの白い光の中、そんなに広くはないアスファルトの敷地の中に、車がぽつぽつ停まっていた。
ウィルクスは駐車券を受けとって駐車料金を清算しようとしたが、ハイドに手首をつかまれた。よろめいたのかと思って見ると、年上の男と目が合った。青い瞳はLEDの強烈な光によって色が飛び、ウィルクスの目に、ほとんど黒い瞳孔だけに見えた。その瞳孔が開いている。
ハイドは無言で、引っぱるようにしてウィルクスを自分の車まで連れていった。引きずられるほうの口からは、文句も抗議も出なかった。後部座席の扉を開くとその中に押しこまれて、ウィルクスは目を伏せた。焦げ茶色のその瞳は車の中を照らす明かりにきらめいて、深い黒に見える。ハイドは黙ったまま、長い睫毛の奥の目を見ていた。
ウィルクスは視線を上げてハイドの目を見た。背中を窓ガラスに押しつけるようにして、刑事の凛々しい顔立ちは変わらなかった。ハイドは後ろ手にドアを閉めた。静かで空気が澱んだ狭い車内に、お互いの目を見る二人は彫像のように固まったままだった。
ハイドが体を近づけると、狭いためほとんどウィルクスに覆いかぶさるようになった。刑事は無意識に後ろ手をついて、ドアのロック部分をいじった。ハイドが顔を近づけるといろんな匂いがした。肌の匂い、香水の匂い、酒の匂い、煙草の匂い。それらが混ざりあって、ウィルクスの鼻腔の奥で鮮やかな花を咲かせた。彼は負けて、キスを許した。ハイドの唇は熱く、舌はもっと熱かった。ウィルクスの舌に絡みつき、啄むと、青年のそれはまるで熟した桃のようで、舌という名の果肉はほぐれていきそうだった。
音を立てて互いをまさぐり、軽く噛んで唾液を飲みこむと、ウィルクスは顔を背けるようにしてささやいた。
「シド、家に帰りましょう。続きは帰ってから。そうしませんか?」
ハイドは年下の男を見下ろした。短い茶色の前髪の下で、眉は怒ったように吊りあがっている。日焼けした顔の頬骨が白く浮きあがって見えた。ウィルクスは目を伏せていたが、ふと視線を上げるとハイドの目を見つめて、かすかに微笑んだ。
薄ら寒くなるほど、焦げ茶色のその目はひたむきだった。ハイドは微笑みを浮かべた。ウィルクスの顎をつかみ、糸のように垂れた唾液を親指で拭いた。
「そうだな」瞳の奥を覗きこみ、ハイドは笑いかけた。「帰ったら、抱いてもいいか?」
強面の顔がかすかに赤くなる。ウィルクスは視線を伏せ、唇に微笑を浮かべて「ええ」とつぶやいた。大きな手で頭を撫でられると彼の顔はとろけて、柔らかであるよりもさらに、だらしないほどに緩んだ。
背中を押しつけていた扉を開いて外に出て、清算を済ませたあと、ウィルクスは運転席に乗り込んだ。前を向き、エンジンを掛けながら、「寄るとこありますか?」と尋ねる。ハイドは背中をシートにもたせかけ、虚空を見つめた。
「ゴムはまだあったっけ」
「ええ、まだありましたよ」
「それじゃあ、まっすぐ帰ろうか」
ミラーを覗いたり、首を回して背後を確認し、ウィルクスは車をバックさせる。風呂上がりらしい彼の後頭部を見て、ハイドは心があたたかくなるのを感じた。
そのぶんよけいに、今夜自分がひどいことをするとわかっていた。
◯
その夜、ウィルクスは同僚の言葉を思いだした。
「もしなにか起こっても、きみはちっとも悪くない」
愛撫とともに強く噛まれ、道具のように扱われ、欲望のままに抱かれて、喘ぎ疲れ、泣き疲れてぼろきれのようにベッドに沈んだまま、ウィルクスは思った。そう、だれも悪くない。これで幸せなんだ。
たしかに彼はこれで幸せだった。ハイドも自分が幸せだと思っている。それなのに、なぜか夢見たほどすべては軽くならない。
そこまで期待するのは愚かなのか、おれの幻想なのだろうか? たいていの人間は、そのあたりで満足するものなのか? そうだ、そんな理由で他人を求めるのはまちがっているからな。おれは単に厄介な人間なんだ。
しかし、年上の男は努力してもいた。混乱しながらもう一度自分の幸せを、二人の幸せを追い求めようとした。そのためには当分偽ることもやむを得ない。今の状態でなんの心配もないことにしようと思った。
ハイドはいつもとても巧みだった。ウィルクスはよく欺かれた。ハイドにこれが自分の愛の形なんだよと言われると、受け入れてしまうほどだった。
ベッドの中で年下の男の頭を撫で、ハイドはランプの下でその顔を見た。眠るつがいを眺めながら、蛇が脱皮するように心が古い皮を脱ぎ捨てて、ハイドは残酷な心が騒ぐのを感じた。爪先から自分が破綻しかけていると感じる。彼はこんなにも、ウィルクスが自分のあとをついてきてくれるとは思っていなかった。
――エドは父親から厳しく躾けられた。そのために、十代で家を出た。だが、どこか心の底でその繋がりに絆を感じているから、サディスティックに責められると悦ぶ心を持っている。それに体力があるから、行為が激しくなり、回を重ねても、そうそうへばらない。まじめで潔癖なのに、内に秘めた本性と肉体は淫乱だ。意志は強いのに快楽には弱く、満たしてくれる相手を求めている。
直線的な肩を剥き出しにして色の悪い顔をしたまま、それでも安らかに眠るウィルクスを見て、ハイドは自分たちが似合いのつがい同士だと実感した。
そのために、少し怖くなるほどだった。
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