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15.探偵と刑事と第三の男・一
土曜日の朝九時前に目覚めたあと、シドニー・C・ハイドは新聞の朝刊をとりに玄関へ降りた。ざっと紙面に目を通しながら、事務所兼居間に上がる。仕事がら、習慣的に目を通すのは事件の記事だった。例えば、こんなふうだ。
「リージェント街で白昼の強盗と殺人。犯行の手口は奇妙で、スコットランド・ヤードのブルーム警部が捜査に乗り出すも、不明な点が多い。警視庁の発表と検死報告が待たれる」
居間の扉を開けると、窓際のソファに彼のパートナーが座っていた。エドワード・ウィルクスははっとして顔を上げると、どこか無表情のままハイドの顔を見上げた。
「おはよう、エド」ハイドはいつものように機嫌よく、結婚相手の青年に微笑みかける。「きのうは、遅かったんだな。ぼくは一時過ぎに寝たんだが、それまでには戻らなかったね。――朝食は?」
「いえ、いりません」
そう答えて、ウィルクスは手に持った紙片をそっと握りしめた。ハイドはそれを確かに見た。彼は部屋の中に入って新聞を仕事机の上に置くと、ふたたび戸口に歩み寄りながら尋ねた。
「ビスケット、食べないか? 腹が減っていないならむりをすることはないが。紅茶を淹れるよ」
ウィルクスはうなずくと、紙片を握りしめた手をさりげなく膝に置いた。凛々しく整った面立ちをこわばらせているが、ふいに微笑みを浮かべる。
「ミルクと砂糖、入れておいてくれませんか? 濃くて甘いやつが飲みたい」
「わかった。適当に入れておくよ。ちょっと待っててくれ」
にこやかに言って部屋から出ていくパートナーの逞しい背中を見送り、ウィルクスは胸苦しい動悸をなんとか抑えようとしていた。
十月に入ったばかりの朝。そばに置いたパーカーを手に取る。彼はいま着ている半袖のTシャツでは寒気を感じた。
ウィルクスはハイドが来る前にそうしていたように、もう一度紙片を見つめた。ぐしゃぐしゃになったその中心に、流れるような筆跡で名前と電話番号、ウィルクスにあてたメッセージが書かれている。彼はじっと見つめ、動悸に苛まれながら息を吐いて、紙片をふたたび手に握った。
十五分ほど経ってハイドが居間に戻ってくると、ウィルクスはさっきと同じ場所にじっと座っていた。両手でトレイを持ったハイドは彼の姿を見て、うれしそうな顔になる。
「ぼくがあげたパーカー、着てくれてるんだな」
ハイドがひとからもらって、しかし肩幅が合わず着ていなかったネイビーのパーカーをウィルクスが身につけている。しかし、年上の男はふと心配になった。
「寒いのか? 風邪気味なのかな」
ハイドはトレイをテーブルの上に置くと、ウィルクスのそばへ寄ってきた。青年はわずかに身を反らす。ハイドは大きな手をウィルクスの額に押し当てると、「熱はないみたいだが」とつぶやいた。
「大丈夫ですよ、シド。今日は気温が低いみたいだ」ウィルクスはどこか優しく言った。「お茶、もらっていいですか?」
「もちろんだよ」
ハイドはにこにこしてパートナーに手を差し伸べる。ウィルクスはその手をぎゅっと握った。力強く、あたたかい手が握り返してくる。そのぬくもりに彼の胸は低く鼓動した。
二人でのんびりお茶を飲み、ビスケットやオイル・サーディンやシロップ漬けの桃を食べる。あまりに平穏だからだろう、ウィルクスはそのためにかえって、パーカーのポケットにねじこんだ紙片がますます存在感を発揮しているように感じた。それさえなければいつもと変わらない、幸せな日常だ。
そこから遠い場所に来てしまったのが、彼にはなかなか信じられなかった。
「きみは今日、休みなのか?」
ハイドの質問にウィルクス刑事はうなずいて、「あなたは?」と尋ね返す。探偵は時計を見た。
「十時から、ある人の事務弁護士と面談の約束があるんだ。申し訳ないけれど、そのあいだは事務所から出ていてもらえないかな」
ウィルクスはうなずいて、紅茶の入ったマグカップを手に腰を上げた。
「もう十五分前ですね。おれは、自分の部屋にいます」
「ありがとう。その人との面談が終わったら予定はないから、もしきみがよかったら買い物ついでに映画を観に行かないか?」
椅子に腰を下ろしたままにこにこして尋ねるハイドに、ウィルクスは唇を噛んだ。彼は低い声で言った。
「もしかして、今日は用事ができるかもしれません。また、あとで言います。じゃあ、そのときに」
彼はハイドがうなずくのも見ずに、扉を閉めた。
階段を上がり、踏板のかすかな軋みを聞きながら、ウィルクスはパーカーの中にそっと手をつっこむ。紙片がかさかさ音を立てる。自分の寝室の扉を開けながら紙に書かれている文字を読んだ。昨夜は使わなかったベッドの端に腰を下ろし、煙草に火をつけたあと、スマートフォンを取りだして紙に書かれた番号に電話を掛けた。
○
事務弁護士との面談は一時間と少し続き、客が満足して帰ったあと、ハイドはパートナーの寝室に彼を呼びに行った。ウィルクスはスニーカーを履いたままベッドに横になり、天井を睨んでいた。ハイドが部屋に入ってくると、ウィルクスは彼を見上げ、体を起こした。顔色がよくない。ハイドは心配そうに身をかがめ、パートナーの清潔なつむじを覗きこんだ。ウィルクスは目を擦るとその手を下ろし、ハイドの顔をじっと見上げた。
「シド、あなたに話しておかなくちゃいけないことがある。……居間に戻りましょう」
威圧感を増してこわばったウィルクスの表情の中で、焦げ茶色の瞳はそれだけ分離しているかのようにかすかにうるみ、無数の光を宿していた。ハイドはうなずき、彼の頭を撫でて、先に部屋の外に出て階段を降りた。ウィルクスは黙ってあとからついてくる。
お茶を淹れようか、というハイドの言葉を断ったが、ウィルクスの口は渇いて仕方がなかった。唾液を飲みこみソファに腰を下ろすと、ハイドは彼の目の前の椅子に腰を下ろした。
いつものように自分のすぐ隣に、身を寄せるように腰を下ろしてくれなかったパートナーに、ウィルクスは胸苦しさを覚える。ハイドは気遣う表情を浮かべると共に、目元にかすかな集中をあらわしている。彼はウィルクスの目に仕事にとりかかっている私立探偵らしく見えた。
まるで困った立場にいる人間の話を聞くようじゃないか?
ウィルクスはパーカーのポケットに手を入れるとぐしゃぐしゃになった紙片を取りだし、黙ったままハイドに手渡した。彼は黒いインクでそこに書かれた文字を見た。
「ジャン・ベルジュラック、(携帯電話の番号)、写真をお渡ししたいので連絡をください」
ハイドが紙片から顔を上げると、ウィルクスの顔は青ざめていた。壊れてばらばらになりそうな人形をボルトで仮止めしたみたいに、その顔は暴力的な仕方でなんとか均整が保たれていた。整った顔立ちを見返し、「これは?」とハイドが尋ねた。
ウィルクスは唾液を飲みこんで口を開いた。
「おれ、あなた以外の男と寝たみたいです」
ハイドの薄青い瞳に目の中を覗きこまれて、ウィルクスは妙に淡々と言った。
「ごめんなさい。殴ってください」
「そんなことしないよ」
ハイドは驚いて言った。ウィルクスは目を細め、左手首につけた腕時計を右手でまさぐった。彼はハイドの目をまっすぐに見つめた。
「たぶん、あなた以外の男と関係を持ってしまった。ゆうべのことは思いだせないけれど、そうなんだと思う。おれは裸で寝ていたし、あの男が……」
「エド、きみはしっかりした人間だ」
急にハイドがそう言って、ウィルクスはびくっとした。含みはないのに、その言葉は彼の胸の中で棘だらけの花を咲かせた。ハイドは静かにささやいた。
「胸に深い悩みを抱えていても自分をしっかりさせておくことができる。でも、むりはしないで。それから、訊きたいことがある。言いにくいことかもしれないが。きみは自分の意志でそうしたのか、覚えていないのか? きみは立派な刑事だ。自分の身を守るすべも心得ている。それでも……」
責められているような気がして、ウィルクスはすぐにそれが当然だと思う。彼は意味もなく首を振って、手のひらを握りしめた。
「覚えていません。酔っていたんです。仕事帰り、パブに行きました。あなたも外で食べると言っていたから、食事をしようと思って。そんなに飲んだつもりはなかったんですが。カウンターの隣にいた男が話しかけてきました。話しをして酒を飲んで、それから……思いだせないけれど、きっとレイプではない……」
「レイプされるより、きみが自分からその男を選んだほうがいいよ」
ウィルクスは唇を噛んだ。泣いてはいけないと思うと、彼の目玉はますます乾いた。焦げ茶色の瞳はますます黒くなり、ハイドの顔をぼんやり見つめた。年上の男は気遣うように、落ち着いた声で尋ねた。
「ゆうべ、なにがあったんだ? 思いだせないなら、今朝、なにがあったんだ? そしてこのメモの意味は?」
「ゆうべのことは思いだせません」
ウィルクスは自分を罰するように語りだした。
「ただ、愛想のいい若い男といっしょに飲んだんです。彼はジャン・ベルジュラックだと名乗った。仕事で渡英した、フランスの記者だと。いっしょにした話の内容は思いだせません。それから、目が覚めて……おれはホテルのベッドで寝ていました(あとで調べたら、パブのすぐ近くのホテルだった)。裸で……でも、下着は身につけていた。壁にあるフックにおれのシャツとスーツがきれいに掛けられていました。チェック・アウトのときにフロントの男に訊いたら、おれを連れてきた若い男は金を払って、朝になる前にホテルを出たそうです」
「ただ単に、酔ったきみを介抱してくれただけじゃないのか?」
味方をしてくれるようなハイドの言い方に、ウィルクスの目のふちに涙が浮かんだ。彼は首を振った。
「ボクサーパンツで隠れる内腿の部分に、噛んだ痕がありました。部屋のごみ箱の中には使用済みのコンドームが捨てられていた。それに、この男は写真を持っている。きのうの夜、撮られたんでしょう。おれは刑事だから」
ウィルクスはじっとしたまま身じろぎしないハイドの目を見つめ、言った。
「わかるんです。これは強請りです。そして、強請りのときとれる手段は三つある。強請りを黙って飲むか、強請り屋を始末するか。あるいは、隠しておきたいことを公にされる勇気を持つか。覚悟を決めれば、強請りは怖くない。信用を失って、蔑まれて、あなたに嫌われることになるけれど」
沈黙が落ちた。ウィルクスの胸の中で棘のある花は咲き乱れていく。動悸が激しく指先がぴりぴりした。恐れながらハイドの顔を見ると、彼の顔は変わっていなかった。探偵は結婚相手を見つめ、落ち着いた声で静かに言った。
「嫌いになったりはしない。大丈夫だよ、エド。きみは電話したのか?」
「はい」ウィルクスは薄青い目を見つめながらつぶやいた。「しました」
「この、ミスター・ベルジュラックはなんと言っていた?」
「おれに会って、写真を渡したいと。夜の八時半に、エンデル街のホテルのロビーで会うことになりました。……きのうのホテルとは別の場所です。会いに行ってきます」
「ぼくも行こうか?」
ウィルクスは首を横に振った。
「でも、車で送るよ。外で待っている。なにかあったら、携帯にかけてくれ」
ようやくウィルクスはうなずいた。体の中の水分がすべて蒸発したように、口の中が渇き目の奥がちかちかした。ハイドは椅子から腰を上げた。ウィルクスは彼の顔を見つめ、視線を逸らす。ハイドは穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、きみの今夜の予定は決まったな。それまでいっしょに買い物に行かないか。映画は、気が向けば。きょうはいい天気だよ。でも、出掛けるのは嫌かな」
「……いえ。出掛けたいです。本屋に行きたいな」
「わかった。あと三十分くらいで出よう」
微笑みとともに手を差し出されて、ウィルクスは握った。力強い手に身を任せると体が浮く。
「おれはなんて……」彼は目を伏せてつぶやいた。「愚かなことを……」
ハイドは黙って彼の肩に手を置いた。
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