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探偵と刑事と第三の男・二

 夜八時半の十分前に、ウィルクスはエンデル街にあるホテルのロビーを訪れた。  ドアマンのいる立派なホテルで、玄関に続く階段は磨きあげられ、その脇に大理石の柱が四本立っている。観音開きの大きなガラスの扉を開けると、吹き抜けになった天井のもと、厚い赤褐色の絨毯を敷きつめたロビーに出る。蝋燭で灯りをともす仕様の古めかしい大型シャンデリアが吊り下げられ、その下を着飾った客や、端正に制服を着こなした従業員が歩きまわっている。目立つフロントの片隅にはシュロの鉢植えが置かれ、飴色に磨かれた調度品や壺や絵画は中国風だった。  ロビーの隅の黒い革張りのソファに腰かけながら、ウィルクスは目を見張った。こんなに立派なホテルだとは思わず、服装も朝、着替えたときのままだ。パーカーと黒いスキニーパンツ、スニーカーで背中にメッセンジャーバッグを背負った彼は、ホテルの人間から「出ていくように」と言われないかと心配になった。それでも、さりげなく近寄ってきたホテルマンに、「ミスター・ベルジュラックとの待ち合わせで」と告げると、相手は愛想よく立ち去った。そのまま腰を下ろしてじっと待つ。  荒れる鼓動を無視したいあまりしばらくぼんやりしていたら、ふとシュロの樹の向こうに大型のエレベーターが降りてくるのが見えた。古風なエレベーターで、扉は金色の蛇腹になり、手動で開閉するらしかった。その蛇腹の扉の向こうから、客たちといっしょに出てきた若い男がウィルクスの目を惹いた。  黒髪で、背は中背よりもやや高く、快活な足取りで歩いてくる。グレーのジャケットとそろいに見えるグレーのコットンパンツ、サックス・ブルーのボタンダウンシャツ。均整のとれた細身の体に、シンプルな服をパリの住人らしく粋に着こなしている。革靴はきれいに手入れされていた。  青年はウィルクスに気がつくと手を振ろうとしたが、それは失礼だと思ったらしい。大股でそばまで歩いていくと、腰を上げかけたウィルクスを手で制した。 「どうぞ、そのままで」黒い瞳が人懐っこく輝く。「ウィルクスさん、ですね」  完璧な英語だった。ウィルクスがうなずくと、男はテーブルを挟んで彼の真向かいに腰を下ろした。 「ジャン・ベルジュラックさんですか?」  青年はうなずいた。「ベルジュラックです」そしてにっこりと笑った。  ハンサムかそうでないのかわかりづらい顔立ちをしている、とウィルクスは思った。それでも、どことなく心を掻き乱すような魅力があった。妙に輝く目のせいだろうか? ドラッグでもやっているような……。  ベルジュラックは快活で、その明るさは閃光のように激しかった。ウィルクスは自分のパートナーのことを思いだす。あのひとも快活だが、もっと、ずっと穏やかだ。ベルジュラックの快活さは自分以外のすべてを焼き尽くす太陽のようだった。 「お待たせしましたか?」ベルジュラックは自分の腕時計を見た。「ぴったりですね。ここはぼくの泊まっているホテルなんです」 「立派なホテルですね」  ベルジュラックは思わせぶりに微笑む。妙な愛嬌があって、ウィルクスは自分の反応を抑えようとした。記者はにこやかに言った。 「いいホテルでしょう。ロンドンに来るときは、たいていここですね。でも、社の金ではありません。贅沢は自分の力でしないとね」  それなら泊まり客リストの勤め先の欄から身元を辿るのはむりか、とウィルクスはぼんやり考える。ベルジュラックはやや前かがみになり、明るく尋ねた。 「なにか飲みますか? 軽いものでも?」  ウィルクスの顔がこわばったのを見て、ベルジュラックはゆったり座り直した。 「いや、酒はやめておきますか? アイスティーでもどうです?」 「わたしは、いりません。もしあなたが飲むなら遠慮なく飲んでください」 「そうだな……まあ、いいや」黒い瞳がきらめき、ベルジュラックは微笑んだ。「ぼくは写真を返しにきただけですから」  刑事として動揺を悟られるわけにはいかない、とウィルクスは思う。しかし、虚勢を張るとこの男にはたちまち見破られるだろう。そんな気がした。彼はやや前かがみになり、「ゆうべは……」と言いかけた。  ベルジュラックはそれを制した。 「きのうは愉しい時間でしたよ、ウィルクスさん。あなたがヤードの刑事だと知ったときは、胸が弾みました。ぼくは記者として、刑事事件の担当でしてね。とても参考になりました。でも」  若いフランス人は口の端でかすかに笑った。 「あなたは刑事としてとても立派だった。つまり、酔っていても守秘義務は破らなかった。そう言えば、安心していただけますか?」 「ええ」  つぶやきながら、ウィルクスは全身から血の気が引く感覚を覚えた。胃と指先が冷える。不貞を働いたことばかりに頭がいって、職業上の秘密を暴露した可能性もあることを忘れていた。それでも、どうやら本当にその心配はないらしい。ベルジュラックは気楽な口調で言った。 「あなたがあれほどガードが固くなければ、ぼくの仕事も……とはいえ、ぼくはロンドンでも有名になるつもりはないんです。ゆうべは、愉しかった。あなたはモデルみたいに美しいひとなのに、内向的で、読書が趣味なんですね。お互い好きなミステリの話をして……きょうは、本屋を三、四件はしごしましたよ」 「ゆうべのことは覚えていませんが」ウィルクスは微笑んで口を開いた。「あなたのお話が真実なら、きっとおれも愉しい時間を過ごしたと思います。申し訳ないが、きっとご迷惑をかけたでしょうね?」  ベルジュラックはとかげのように微笑んだ。写真家が思わずシャッターを切りたくなるような、ドラマチックな微笑だった。彼はすぐに笑みを消し、むしろ気遣うような調子でささやいた。 「迷惑なんて。酔っぱらいすぎただけですよ」 「あなたがホテルに連れていってくれたんですね」 「ええ。自宅のことは言わなかったし、一人ではとても帰れないようでしたから。結婚されているんですよね」  ウィルクスはびくっとして、自分の左手を見た。薬指に指輪がはまっている。彼は勇気を出そうとして、しばらく指輪をじっと見つめた。顔を上げ、言う。 「ええ。結婚しています」 「旦那様がいるんですよね?」  目を細め、ウィルクスは男の顔を見た。微笑んでいるはずなのに表情が読めない。だが、どこか憐れむような目だと思った。ベルジュラックはにこっと笑った。 「パートナーが男性だって、ぼくは知っていますよ。でもそれを軽蔑したりはしません。ぼくも女には興味がありませんから。宝飾品で着飾っている女性は好きですけどね」 「……おれは着飾っている女性は苦手です。近寄りがたく思えて、緊張する」 「初々しいひとですね、あなたは。自分がモデルみたいなのに不思議だな」  ベルジュラックはそう言って笑った。ウィルクスも微笑を浮かべながら、無駄話を積み重ねても心がまったく穏やかにならないという事実を実感していた。ベルジュラックが本題に入らないことに苛立ち、胸に暗い雲が渦巻く。胸が苦しくなり、ウィルクスは煙草を吸っていいか訊こうとした。ふいにベルジュラックが言った。 「写真、お返しします」  ウィルクスは青年の目をじっと見つめた。黒い目は深く輝いている。 「悪く思わないでくださいね」ベルジュラックは口元をほとんど動かさずささやいた。「あなたとの接点をつくるには、これしかないと思ったから」  彼は上着のポケットに手を入れると白い封筒を取りだした。もちろんプリントしたものを見せて、データは手元に置いておくだろう。ウィルクスはそう思った。封筒を受けとると指先が震えてくる。どうやっても抑えることができず、結果、彼はそれを無視した。フラップを開け、標準のサイズよりはやや小さい写真を引っぱりだす。彼は写真を見つめて絶句した。  ハイドと自分が写っていた。  二人は寄り添って立ち、カメラのレンズを見つめて微笑んでいる。つきあいはじめて半年ほど経ったころ、ハイドの知り合いのカメラマンが撮ってくれた写真だ。そのときの情景がウィルクスの脳裏に、走馬灯のように甦る。  ハイドの飾らない笑顔。カメラマンの満足そうな表情。部屋の隅で煙草が煙っていた、スタジオの匂い。あのひとは写真を撮ってもらったあと、死のうとした。そして思いとどまった。そんなことも思いだした。  ウィルクスはバッグをつかみ、財布を取りだした。中を開いてみるとそこに写真はなかった。 「どうしても接点がほしかったんです」静かな口調でベルジュラックが言った。 「これは……」ウィルクスは激しい動悸でむせ返りそうなまま、つぶやいた。写真をじっと見つめ、ベルジュラックの顔を見る。「おれはてっきり、昨夜の……」 「ゆうべは、なにもありませんでしたよ」  ベルジュラックにまた快活さが戻っていた。彼は感じよく身軽に微笑んだ。ウィルクスはためらい、しかし険しい面立ちになって相手の目を見つめる。 「おれの内腿には噛んだ痕があったし、部屋のごみ箱にはコンドームが……」 「あそこは、あまりいいホテルではありません。部屋の掃除が間に合ってなかったんでしょう。……前にそこを使った人間の置き土産ですよ。噛み痕は、ぼくがつけました。これも置き土産のつもりでした。でも、ぼくがしたのはそれだけです。眠るあなたの腿のつけ根を噛んだことと、写真を抜き取ったこと」 「おれは、自分が、あなたと……」 「そんなことはまったくありませんでした。あなたはすごく、貞淑でしたよ」  だからこそよけいに自分のものにしたくなったという言葉を、ベルジュラックは飲みこんだ。目の前で明らかに安堵の表情を浮かべる、まじめで意志が強く愚かしいほど一途なこの男。ベルジュラックは心から興味を持っていた。  例えば、ウィルクスは泣くだろうか? それとも涙をこらえるだろうか? ……あまりに精神的苦痛が深すぎると、人は涙が出なくなるらしいが。彼は喘ぎ声をこらえるだろうか? それとも、自分では抑えられないほど「躾け」られているだろうか? 自ら死のうとするだろうか? ……そんなことにはなってほしくない。  それにしても、これほどの逸材は珍しい。とても興味深くて、ベルジュラックは満足だった。 「いらない心配をさせましたね。悪趣味ですみません」彼は微笑んだ。「ぼくは残酷な人間らしい。いけないことですね」  ウィルクスはなんと答えていいかわからなかった。写真を手に震えが最高潮に達したあとは、体はまったくの平静を保っていた。ベルジュラックの目を見返す。パリから来た青年は優しく微笑んだ。 「あなたとまたお話しできて、うれしかった。まだ当分はロンドンにいるつもりです。あんなことを言ったけど、イギリスで有名になるのもいいですしね。もし気が向いたら、またいっしょに酒を飲みましょう」  腰を上げるとベルジュラックは手を差し出した。わけもわからないままウィルクスが握ると、力強く握り返してくる。その手に、ウィルクスはなぜかハイドのことを思いだしていた。 「じゃあ、また」  ベルジュラックはそう言って、魔法のようにタイミングよく降りてきたエレベーターに乗り込んだ。彼は階上に消えた。ウィルクスはソファに座ったまま、手の中の写真を見つめていた。 ○  扉が開いてベルジュラックは廊下に出る。三階の手すりから身を乗りだせばロビーがはるか下に見えた。ウィルクスはまだそこにいた。ベルジュラックは満足して自分の部屋へ向かう。  しかし、扉の前に男がいたので驚いた。長身でがっしりした体つき、黒髪は半ば白髪になっている。歳は見た目からは正確に判断できないが、ベルジュラックは彼が四十一歳であると知っていた。ほかにもまだいろいろなことを知っている。貴族的な彫りの深い顔立ちは奇妙に表情がなく、薄青い瞳は輝いていた。男はベルジュラックと目が合うと、微笑んだ。 「ミスター・ベルジュラックですね?」 「ええ。ミスター・ハイドですね」  二人は向かいあった。 「ウィルクス君に写真を返してくれましたか?」  質問に、ベルジュラックは笑った。 「返しましたよ。いかがわしい写真じゃない。あなたの――」 「ぼくとウィルクス君が並んで立っている写真ですよね?」  黒い瞳に光が躍ったように、ハイドには見えた。ベルジュラックは熱心に尋ねた。 「知っていたんですか?」 「彼の財布を見ました。そこにはいつも、ぼくと彼の写真が入っているんです。それがなかったから」 「あなたは名探偵だ」  ベルジュラックが嬉しそうに言うと、ハイドは穏やかに言った。 「ウィルクスはそれに気がつくべきでした。気がついて、そんなものは無視すればよかった。でも、彼は気が動転していたし、ぼくとの関係を大事にしているから」 「あなたは愛されているんですね、ミスター・ハイド」 「ええ。ぼくは彼に愛されている。ぼくも彼を愛しています」 「幸せなことだ。あなたは例え彼が不貞を働いても、広い心でそれを許す。真実の愛というわけですね」  二人は見つめあい、ハイドはベルジュラックに負けぬ微笑を口元に浮かべて言った。 「『真実の愛』という言葉は、ぼくは嫌いなんです。ぼくも人並みに、真実の愛にちがいないと思ったことはある。そしてその光によって暗闇を抜けられたんだと。でも、まともな人間なら一生酔っぱらっているわけにはいかない」  ベルジュラックはやや驚いた顔をした。 「あなたがニヒリスティックな人だとは、意外でした。そんなふうに見えないのに」 「自分の心を見つめているだけですよ。真実の愛を信じようとするのは、救済を求める人間の心のさがです。それは誰でもが持っている。でも、言いましたが、一生酔っぱらっているわけにはいかない。そのことを、エドには言っていません。もし言ったら、彼は必死になってぼくの言葉をいいように解釈しようとするでしょう。彼は単純で、純粋で、一途な人間だ。あなたはそんな彼を壊したい、と思うのでしょうね」 「そしてあなたは?」 「ぼくはただ見ていたい。彼は、そう」ハイドは微笑んだ。「一角獣のように天然記念物なんです。そこにいるだけでいいんですよ」 「一角獣は、そもそも天然記念物ではありませんが」  ベルジュラックが悪びれずに言うと、ハイドはにっこりした。 「彼を一角獣に例えるなんて、ぼくもロマンチストかもしれない。もう、彼にちょっかいを出さないでくださいね」  ベルジュラックは芝居がかったしぐさで肩をすくめた。フランス人らしいしぐさだった。彼は黙って扉に手を掛けたが、ふいに振り向いた。 「ミスター・ハイド。近いうちに、またあなたにお目にかかります。……ぼくの仕事のことでね」  ハイドは扉が閉まるまで見つめ、それから廊下を歩いていって、エレベーターに乗り込んだ。  ホテルの外でウィルクスが待っていた。中から出てきたハイドを見ると驚いた顔をしたが、うれしそうな顔になって、彼に写真を見せた。泣きそうな顔を見て、ハイドは彼の頭を撫でた。 ○  返ってきた写真を裏返してみて、ウィルクスは気がついたことがある。写真の裏にはもともと、ハイドの手による彼のサインが入っている。その下、写真の縁ぎりぎりのところに、今までなかった文字が鉛筆で書きくわえられていた。 「XX」  それがなんの意味かは、ウィルクスにはわからなかった。キスを表すXXXか、それに近いメッセージなのかもしれないと思ったが、考えたくはなかった。彼はその文字を消しゴムで跡形もなく消した。  その翌日の夕刊に、こんな記事が載った。 「リージェント街の強盗殺人、犯行の手口はフランスで恐怖を巻き起こしている犯罪者、エクス・エクスのものと酷似……」

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