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16.探偵と刑事とすてきなデート・一
シドニー・C・ハイドは二日待ってみた。しかしジャン・ベルジュラックは現れなかった。
彼が泊まるホテルにさりげなく問い合わせてみると、まだ泊まっていることは泊まっているという。
「ただ、戻ってこられたり、こられなかったり、お時間もまちまちですので……なにかご伝言がありましたら承りますが……」
フロントのホテルマンにもの柔らかに言われて、ハイドは今のところ結構ですと答えて電話を切った。
ベルジュラックの態度口ぶりからして自分の前には必ず現れるはずだとハイドは考えたが、しかし向こうも機を待っているだろう。しばらく様子を見ることにした。
そこで、ハイドは結婚相手をデートに誘った。
◯
デート当日。エドワード・ウィルクスは緊張していた。
デートの相手は結婚相手なので、緊張するほどのことはないはずだ。彼とパートナーはいつも仲がよくて、時間があえばよくいっしょに買い物に行く。映画にも行くし食事にも行く。それでも、それはどことなく日常生活の延長だ(と、ウィルクスは思う)。改まってのデートは久しぶりだった。
ウィルクスは先に玄関から外に出て、門の前で所在なげに推理小説の本を開いたり閉じたりしていた。
「お待たせ」
背後からにこやかに声がかかって、ウィルクスの顔は緩む。この夏結婚したばかりのパートナー、ハイドはふらっと玄関まで出てくると、扉を閉め鍵を掛けた。
彼の服装を見て、ウィルクスはまたどきっとする。自宅を事務所にしている私立探偵という職業柄、ハイドはふだんほとんどスーツを着ない。それでもこの日はグレーのサマー・ジャケットにグレーのコットン・パンツ、薄いブルーのピンストライプのシャツに、ネイビーの細めのタイを結んでいる(下のほうには、小さな銀色の狼がちょこんと座っていた)。靴は愛用している、バリーの黒いローファー。飾りすぎず、しかしあまり見ないドレスアップした格好に、ウィルクスの鼓動は高鳴った。
そんな彼も、ハイドとはトーンの違うグレーのジャケットを身につけている。シャツはサックスブルーのボタンダウンで、ハイドがウィルクスの誕生日に贈ったブルックス・ブラザーズのものだった。タイはなし。黒いスキニー・パンツを履き、靴は焦げ茶色のウィング・チップ。
「……おれの格好、カジュアルすぎますか?」
ウィルクスが不安になって尋ねると、ハイドはにこにこして「かっこいいよ」と言った。パートナーのほうに手を伸ばして、喉元まできっちり留められたシャツのボタンを一つ開けてやる。
質問の答えになってません、とウィルクスが言う前に、ハイドは「大丈夫」と請け負った。
「そんなに格式ばった店には行かないからね。レストランはホテルの下にある中華料理の店で、泊まるのはその上。どんなに酔っぱらっても絶対帰りつける」
「そんなに飲みませんよ……」
急にウィルクスの顔が曇ったので、ハイドはしまったと思う。嫌な思い出をつかのまでも忘れさせようとデートに誘ったのに、いきなり踏んではいけないところを踏んでしまった。ハイドは慌てて、さらに笑顔になり、向きあっているウィルクスの左手をつかむ。
「わかってる、せっかくのデートだ。酔いつぶれて眠ったらもったいない。ぼくも、今回はちゃんとローションとゴムを用意してきたし……」
「相変わらず助平なんですから」ウィルクスは眉を吊り上げて怒った顔になり、ハイドの手を引いた。「行きましょう。映画を観る時間がなくなりますよ」
ハイドは腕時計を見て、「そうだな」とうなずいた。門を閉め、ウィルクスの肩をたたく。
「じゃあ、行こう。いっしょに飲みたいから、今日は電車だ」
彼が歩きはじめると、ウィルクスはあとからついてくる。整った面立ちをいつものようにきりりと引き締め、むしろ怖いくらいに真剣な顔でついてくる青年のほうをちらりと振り向いて、警察犬に護衛されているみたいだとハイドは思った。
そもそもハイドが熱心にデートに誘ったのは、ウィルクスがひどく落ち込んでいたからだった。
彼はつい先日パブで飲みすぎて、そのときカウンターで隣の席だった見知らぬ若い男にホテルに連れていかれた(ハイドはウィルクスが一服盛られたと思っている)。目を覚ますとウィルクスはボクサーパンツだけ身につけた格好で、部屋には情事があったと思わせる痕跡がいくつか残っていた。ウィルクスはハイドを裏切ったと思い、しょげて、さらにはその夜撮られた写真をネタに強請られそうになった。
結局、その夜は本当はなにもなかったし、写真の件も若い男(ベルジュラック)の悪ふざけだとわかった。ウィルクスは喜び、安堵していたものの、それ以来酒を口にすることを躊躇するようになった。さらに悪いことに、ベルジュラックから「なにもありませんでしたよ」と保証されても、ウィルクスはそれを疑いはじめた。実際にはなにかあったのでは、と思ってしまう。しかし酔いつぶれていたので思いだせない。
「おれは、酔っぱらってあなたにフェラしてしまうような人間だから……」
ウィルクスはそう言って、悲しそうにしていた。酔っていたから、見知らぬ男にもその場の流れでしてしまったかもしれない。そう思い詰めていた。
エドはまじめで一途な人間だから、とハイドは思う。正直なところ、浮気でもなし、ただ単に一回くらい別の男にフェラチオするくらいどうってことない、とハイドは思う。しかしそう言って慰めると、ウィルクスは悲しそうな顔になった。ハイドが戸惑うと、年下のパートナーはつぶやいた。
「なんでも受け入れるのは、関心がないからですよね」
そんなことないよとハイドが言うと、ウィルクスは静かに微笑んだ。
それで結局、ハイドはもう慰めの言葉をかけられなかった。
(彼の別れた妻アリスに言わせれば、「あなたは『阿吽の心遣い』に欠けているのよ」。ハイドが阿吽の心遣いとはなにか尋ねると、妻は言った。「相手が『当然言ってくれるはずだ』って期待している言葉を掛けること。でもあなたは真実を語りすぎるわ。相手は丸い穴なのに、あなたはそれを見ようとしないで自分の真実である四角を嵌める。傷ついている人は『あなたの真実』なんかに用はないのよ。それがわからない?」)
ハイドにはわからなかった。アリスは結論を言った。
「つまりあなたには大事ななにかが欠落しているのよ。他人と共存するために必要な、大事ななにかが」
慰めの言葉がよけいに傷を広げてしまうのは本意ではない。そこで、大丈夫だよ、終わったことだし気にしないでという念だけは送りつつ、ハイドはパートナーをデートに誘ったのだった。
そんなわけで、ウィルクスはあまり元気ではなかったけれど、ハイドと並んで歩いていると笑顔を見せるようになった。ウィルクスはスコットランド・ヤードの刑事である。一週間ほど前に起こったリージェント街の強盗殺人の捜査がなかなかうまくいかず、職場は今ぴりぴりしているが、そんな心配事にもひとまずは目を塞ぎ、十月の晴れやかな空の下、彼もだんだん元気になってきたようにハイドには見えた。
彼は目を塞げない人間だからな、と隣を歩きながらハイドは思う。現実に慣れようとするのはハイドで、ウィルクスは現実に向きあわなければと思うタイプだ。そうすることで苦しむが、彼は確実にぼくより強くなっていく。ハイドはそんなことを思って、隣を歩く青年の手をぎゅっと握った。ウィルクスは照れて怒った顔になるが、それでもぎゅっと握り返してくる。
「外で手をつなぐのは、恥ずかしいから嫌だって前は言ってたな」
「ええ、まあね。でも今日は、いいですよ」
目を伏せてそう言ったパートナーにハイドは微笑む。手をつないで、お互い歩調をあわせて歩いた。
○
デートはうまくいっていた。映画を観て(ハイドの希望で悪夢のような映画を観るはめになったが、筋がよかったのでウィルクスも楽しんだ)、お茶を飲んだ。ハイドは熱いミルク・ティー、ウィルクスはグレープフルーツのティー・ソーダ。チェリー・パイを半分ずつ食べる。夕食は八時の予約だったので、それまでぶらぶらしようということになった。
二人は高級店が連なるリージェント街を歩いた。日曜日で、どこも人で賑わっている。不可解な強盗殺人が起こった店の前も通った。まだ警官がいて、見張りをしている。それでも、道行く観光客や買い物客が怯えている様子はなかった。事件現場のシャッターが下りている店の両脇の店も営業している。ただ、警察官の姿がちらほら見えた。ウィルクスはそちらに気をとられていたので、ハイドが突然店に入ったことに気がつかなかった。
ウィルクスが見ると、ハイドはすでにドアマンに扉を開けてもらっていた。まるでマナー・ハウスの一部のような外観で、ショーウィンドウの華やかさは目を潰さんばかりだ(と、ウィルクスは思った)。明るい日差しに、ガラスの向こうにディスプレイされたドレスシューズやサングラス、クラッチバッグが輝いている。ハイブランドの雰囲気に気圧され、ウィルクスは中に入ろうかどうしようか一瞬迷ったが、結局扉を閉めかけたドアマンの視線をつかんで中に入った。
喧騒が消え、一瞬生き返った心地になった。内装は黒い鏡板が張りめぐらされて黒っぽく、思ったより狭く、そのせいもあって威圧感を感じる。壁際には落ち着いたグリーンのソファや、真っ白な大理石のマントルピースを備えた感じのいい大きな暖炉があり、本当に貴族の別宅のようだった。
ハイドは喉元まで覆う黒いカラーのドレスを着た中年の女性と話をしていた。あとでウィルクスが聞いたところによると、ハイドの昔の依頼人の再婚相手ということだった。目立って細づくりで、口元に皺は寄っているが、くすんだゴールドのような風格のある美しい女性だった。彼女は眼鏡越しにウィルクスを見たと同時に、微笑みを浮かべた。
「ええ、彼ですよ、この前結婚したんです」
ハイドが快活に言って、ウィルクスはどぎまぎした。まあ、モデルみたいにきれいなひと、と彼女は微笑んだ。ファッション業界では同性愛はめずらしくないって言うもんな。ウィルクスはむりやりそう思って、「こんにちは」とだけ言った。
「今度、サイズをはかってきますから、お願いしますね」とハイドがこっそり言っている。「デザインは、目立たないもののほうがいいですね。彼は刑事ですから。仕事の邪魔にならない、細いもののほうがいいかな」
「わかったわ。サンプルをいくつか用意しておくから、今度見ていって。結婚指輪、買わなかったの?」
「今、彼がつけている指輪はぼくのおさがりなんです。サイズが合わなくてあげたものなんですよ。彼はそれでいいって言ってくれるけど、十月は誕生日だし」
「お誕生日が愉しみね。あなたは惜しげもなく口説くひとだから」
ハイドが笑っているあいだウィルクスは緊張のあまり、とり憑かれたように壁に掛けられた、誰だかわからない厳めしい顔つきのフランス貴族の肖像画を見上げていた。
○
店を出ても、外はまだ明るかった。
人混みがさらに激しくなり、話し声がすぐ耳元で聞こえる。誰かがつけている香水の匂いが強く感じられ、口が渇き、疲れてくる。ハイドもウィルクスもしばらくは無言だった。
土埃が目に入り、ウィルクスは目を擦る。ハイドがそれに気がついて、「擦らないほうがいいよ」とささやいた。ウィルクスは手を下ろし、涙が出た目をぱちぱちさせる。そちらだけ視界がにじんでいて、あたりがぼんやり見える。ふと店と店のあいだにある小路に視線を向けた瞬間、彼はぎくっとした。
凍りついたパートナーを見て、ハイドは怪訝な顔になる。視線の先へ顔を向けてもだれもいない。いや、路地の奥に去っていくような人影が見えた気がした。それも一瞬で、まばたきのあと見てみると影の降りる路地はただ真っ黒だった。
ハイドは道行く人間の邪魔にならないよう体を路地のほうへすべりこませ、ウィルクスの手を握る。彼はうつむいて、黙ってついてきた。だらだらと流れていく人混みを避けて落ち着くと、ハイドは青年の顔を覗きこんだ。
「どうしたんだ、エド。怖い顔をして」
ウィルクスは黙っていたが、急に身じろぎした。
「あの……『彼』がいたような気がして……」
「『彼』?」
「ベルジュラックです。この前の……」
ハイドはすぐにわかった。酔っぱらったウィルクスをホテルに連れていった男。探偵はもう一度路地の奥を見る。そこはやはり暗く、ひっそりしていた。
「確かに、人影が見えたような気がする。だが……」
気にすることはないよ、とハイドは言おうとした。ウィルクスも自分でそう思おうとしていた。長い睫毛が震えている。そこに女っぽさはなく、瞳は戦に臨む騎士のように鋭く見える。
きまじめで一途で、自分に厳しく、そのうえ卑屈なところがある。彼は自責が大好きなんだとハイドは思う。自分が悪いと過剰に思い、責め抜くことで、免罪符を手に入れようとしているみたいだ。それは毒に毒で対抗しているようなものだ。
ウィルクスはベルジュラックそのものよりも、自分自身を恐れていた。自分の奔放で淫乱な気質に怯えていた。誰とでも寝たいという心が自分にあるのだと信じて疑わなかった。そのために、彼は自分を責め、責めることでまた違う安らぎを手に入れようとしていた。
ハイドは年下の男の頭を撫でると、ささやいた。
「ぼくとデートしているのに、別の男のことを考えているのか?」
顔を上げたウィルクスの表情には奇妙に感情がなかった。彼は小さな声で謝った。
「ごめんなさい。忘れます」
「ぼくは怒っていないし、実際にはなにもなかった。もしあったとしても、許しているよ」
それでも気になるのか? と優しく尋ねられ、ウィルクスの眉は吊りあがる。焦げ茶色の鋭い目が足元を見て、「大丈夫です」と言った。
ハイドはジャケットの内ポケットに手を入れ、中から筒状になった小さな透明のピルケースをとりだした。蓋を開け、中身を一錠手のひらに落とす。白く小さな錠剤をつまむとそれをウィルクスの唇に押し当てた。
「飲んで」
「え?」
困惑した顔でウィルクスがつぶやくと、ハイドは錠剤を彼の口の中に押しこんだ。指に歯が当たる。ウィルクスは反射的に吐きだそうとしたが、ハイドに唇で口を塞がれてそれができなかった。舌は入ってこなかった。そうなる前にウィルクスは錠剤を飲み下す。外でキスしている、というだけで鼓動が高鳴り、シャツの内側で汗がじわっとにじんだ。
ハイドが唇を離すと、ウィルクスは怪訝な顔で「なんですか?」と尋ねた。
「媚薬」
年上の男はけろっとした顔で言った。沈黙ののち、ウィルクスの眉が吊りあがる。「は?」とつぶやくと、ハイドはもう一度「媚薬」と念押しした。
「これ飲んで、元気出して」
「媚薬なんか飲んでも下半身しか元気になりませんよ!」
「ははは、うまい」
「褒められても。……媚薬なんて、効きませんよね? だって、あんなの気休めじゃないですか」
「気休めの精力剤もあるけど、それはほんとによく効くやつだよ。とっても助平な心と体になる。ぼくも飲んだことがある」
「あなたは飲んでも飲まなくても助平じゃないですか。……そうやって、からかうんですから」
からかってないよ、ほんとだよ。ハイドがそう言うのを無視して、ウィルクスは明るい大通りに出ていこうとする。ハイドは彼の手首をぎゅっと握って、耳元でささやいた。
「ほんとにすごく、効くんだよ」
「まだベッドには早いですよ」
怒った顔で振り返って、ウィルクスは言った。
それでも媚薬はよく効いた。
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