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18.探偵と刑事とその名
翌日、シドニー・C・ハイドはフランスに住むイヴ・ド・ユベールに電話を掛けた。一夜明けて、ユベールの声は胡乱というよりも沈鬱だった。
「なんだ、シド? まだ朝の十一時だぞ。頭が痛い。おれは二日酔いなんだ」
「朝食を食って元気を出せばいい」
「胸がむかついて食えないんだよ。きみが口移ししてくれるなら、おれだってちょっとは元気が……」
「ばかなことを言うな。英仏海峡を挟んでるんだぞ」
「じゃあきみのセミヌードが見たい。この世界じゃ簡単だよ。スマホでちょっと撮って送信すれば、たかが海なんて……」
「きみの貢献による」
ハイドはきっぱり言った。ユベールはスマートフォンの向こうで器用に片眉を上げた。グラスについだミネラル・ウォーターを飲みながら、
「ケツに火がついてるのか? きみの仕事の用事? それとも大事なパートナーに関すること?」
「ぼくの仕事のことで」
私立探偵はそう答えると仕事机に背中をもたせ掛け、手を伸ばしてカーテンを少し引いた。作家はあくびを殺して言った。
「なんだ? 言ってごらん」
「今そっちで『バルドー事件』の話題がもちあがっていないか?」
「『バルドー事件』? 知らないな。ブリジット・バルドーに関係してるのか?」
「あのきれいな女性は関係ない」
ハイドは往年のセックス・シンボルをさらりと流し、ユベールがまだ本気になっていないことを見てとると少し安心した。彼は続けて尋ねた。
「<アルバ紙>は知ってるか? 六年前にはじめられた新聞で、今は電子版になってる」
「何度か読んだことがあるよ。なかなかお堅い新聞だ。だが、がちがちの保守って話は聞かないね。どっちかというとその逆のような……」
「過激な論調か?」
「いやいや、そんなことはない。記者の質もいいんだろうな、穿った見方をきっちり事実を押さえて論じる新聞だ。とにかく事実を大事にする」
「手強そうだな」
「どうしたんだ? <アルバ紙>の記者にきみの不倫をすっぱ抜かれたのか?」
「それぐらいならまあいいけどね」
ハイドは軽く流した。開いたノートパソコンを覗きこみ、ウェブで配信されている今日の<アルバ紙>の画面をスクロールする。老眼鏡越しにそれを見ながら眉間にかすかな皺を寄せた。
「ぼくは今日からウェブで<アルバ>を読んでいる。だからチェックはできるけど、そっちのテレビ番組までは追えない。だからもし、『バルドー事件』についてなにか言っていたら教えてくれ」
「バルドー事件ってなんだよ?」
「昔の事件だよ。迷宮入りになってる。それからイヴ、もしきみのツテとかコネで<アルバ紙>の記者に接触できそうなら教えてほしい」
「<アルバ>をやってる新聞社は学術系の出版社も経営してる。そこに知り合いの編集者が転職したような……してないような」
「頼んだよ、イヴ」
「おれはきみの伏兵ってわけか? 気分がいいな。じゃあその謝礼にセミヌードを……」
「成果がすばらしければいくらでも。用途はいかがわしくても不問に付す」
「メルシーボークー。誰を敵にまわしてる?」
「ジャン・ベルジュラック」
「知らない名だな」
「当然だ。単なる新聞記者だからね。それじゃあ」
電話を切ろうとしたハイドに、ユベールはのんきに言った。
「そういやウィルクスさんは元気か?」
「元気だよ」
そう答えてハイドは電話を切った。
することはたくさんある……朝いちばんで銀行の金庫から持って帰ってきた、バルドー事件のファイルを手に取る。個人情報などの問題から、手がけた依頼に関するファイルは処分することもある。しかし特に、依頼人が満足しなかった仕事、刑事事件に発展した依頼、迷宮入りになった事件などは念のためファイルを残していた。
バルドー事件のファイルはぶ厚かった。白いA4サイズのファイルをめくり、読みはじめる。
八年前、ハイドは三十三歳だった。仕事は軌道に乗っていた。口の堅さ、命がけで秘密を守る姿勢(ハイドはそのために殺されかけたことがあり、それでも屈しなかったため、この探偵への信頼が一気に高まった)、依頼人の利益をきちんと考えるが、弁護士とも連携している。無茶な提案はせず、家庭内の醜聞を扱う場合、外部に漏れるのを防いで素早く収束するよう尽力した。ハイドはこそこそ嗅ぎまわる探偵というよりも、よき相談役だった。
彼は三十代に入ってから警察と協力関係にあった。そのためもあって法を犯すことに対しては厳しかった。しかし世間の慣習や倫理規範の問題には立ち入らなかった。それを非難する人間もいる。
しかし、ハイドは厳密に違法行為だけを問題にした。そして私立探偵の仕事はとても「クリーン」だった。
バルドー事件のファイルを読み返しながら、ハイドは結婚相手が帰宅するのを待った。
○
ハイドの結婚相手であるスコットランド・ヤード刑事部のエドワード・ウィルクスは、その日も本調子ではなかった。むしろコンディションはかなり悪かった。
一週間ほど前に起こったリージェント街の強盗殺人。捜査は進まなかった。世間はいらいらしていたし、刑事たちもそうだった。彼らは地道な捜査のかたわら、パリ警視庁から膨大な資料を受けとっていた。すべて「エクス・エクス」に関するものだった。リージェント街の事件がこのフランス産正体不明の極悪人の犯行だということは、ほぼ確定していた。その見事な手際から、模倣犯や初犯の人間が犯人だという可能性は抹消されていた。
神経が張りつめて、ウィルクスは疲れていた。あまりに捜査が空振り続きで、すべては徒労に終わるんじゃないかと思っている。しかしもしそうなったとしても、ベストを尽くす義務がある。
それはわかっているが、コンディションがあまりに悪いため、彼は別のことばかり考えてしまう。いちばん考えてはいけないこと。仕事に身が入らず、頭の中がそれについていっぱいで、些細な失敗ばかり増えた。このままいけば、失敗はさらに酷くなる。ウィルクスは経験からそれを知っていた。
彼はストレスが溜まり、コンディションが悪くなってくると、セックス依存症ぎみになる。医者から正確な診断をされたわけではない。精神科にも行っていない。ウィルクスは精神科医が苦手だった。
父親が医者ということも関係している。エドワードの父親は田舎に移住して長い外科医で、精神科は必要だと考えているが、精神科医をあまり信用していなかった。亡き妻は精神科医のせいでだめにされたと思っている。そのうえ、彼女の繊細さと弱さを息子が受け継いでいるのではないかと精神科医から指摘されたことがあり、父親はエドワードをそういった医者から遠ざけようとした。
息子のほうも、自分の依存を精神科医に相談する気にはなれなかった。心療内科や精神科に通院している人間は今の世の中、ざらにいるのに。それでも行きたくなかった。他人に話すのは恥ずかしいし、罪深い自分が情けなくなる。ハイドさえ理解してくれればそれでよかった。
職場には依存のことを言っていない。ウィルクスが失敗をしはじめたので、同僚たちは疲れていると思っている。ただそれだけだ。
今夜は八時過ぎには帰宅できた。同僚が「もう帰れよ」と言ってくれたのだ。上司もそうしたほうがいいと言ってくれた。みんないいやつだ。ウィルクスは事務所兼居間に通じる自宅の階段をのぼりながら思った。役に立てないのはとても申し訳ない。おれがこんな屑みたいな人間じゃなかったら。
居間に足を踏み入れると仕事机の前にハイドがいた。あたたかいココアを飲みながらノートパソコンに向かっている。そばには白くぶ厚いファイルが開いて置いてあり、メモや書類が散らばっていた。
「お帰り、エド」
ハイドは顔を上げ、老眼鏡越しに微笑みかけた。ウィルクスの顔が緩み、ほとんど泣きそうになる。そして下腹部に込みあげる熱。彼はパートナーのほうにのろのろ歩いていった。
「食事はした?」ハイドが椅子から立ちあがりながら尋ねた。
「今夜はパングラタンとポーチドエッグだよ。ぼくはもう済ませてしまった。食べるならあたためるが」
「いえ、食事はまだいいです。先にシャワーをします。それから……」
ウィルクスはちらっとハイドを見た。刑事の目はもの欲しげだった。下腹部の熱が突き上げるような力に変わっている。だが、言いだせなかった。
……いや、やっぱり言ってみよう。ハイドさんは理解がない人じゃない。むしろありすぎるくらいだ。この人は性欲を肯定している。当然の欲求だといって慰めてくれる。それが病的なものだとしても……。
ウィルクスは左手首に嵌めた時計をいじって、顔を上げた。その時点で彼の凛々しい顔は崩れはじめている。ハイドも目線をあげてパートナーを見る。薄青い目と目が合って、ウィルクスは溶けるほどうっとりした。発情した犬のように尻尾を振りそうになった。
ハイドが言った。
「ミスター・ベルジュラックはきみに伝言を残さなかったか?」
ウィルクスはぽかんとしたが、我に返るとすぐに首を振った。
「いいえ。……伝言って?」
「きみが写真を返してもらいに行ったとき……」
ウィルクスは唇をきつく噛んだ。またベルジュラックだ。強盗殺人の捜査がうまくいかないことと共に、ウィルクスを苦しめているのがこの男の存在だった。
――もう終わったはずなのに。そう言っていたのはシドなのに。ウィルクスは自分の浅はかさを責めた。どれだけ責めたら許してくれるのだろうと思った。あのときあの男に出会わなければ、おれがもっとしっかりしていたら……。
ウィルクスは言った。
「あなたに対する伝言ということですか? 特になにも。おれとはまた飲みたいとかなんとか言っていたけど。……前に、あなたにそう言いましたが」
「メモや手紙なんかは渡されなかった? 電話も?」
「電話はありません。メモは、ゆうべあなたが渡してくれたもの以外は別に」
「戻ってきた写真にもなにも書いていなかったか?」
「特に……。いや、書いていました。メッセージではありません。バツが二つ」
「バツ?」
「それとも計算記号の『掛ける』? どちらかはわかりませんが。あるいはエックス……」
そこで会話が途切れた。ハイドはじっとウィルクスを見つめた。刑事の背中を冷たい汗がしたたり落ちた。
「え?」彼は紙のような顔色でつぶやいた。
ハイドが言った。
「エックスが二つ、ということか」
「それはつまり、エクス・エクス……」
ウィルクスは平手で自分の顔を殴った。ハイドが止める暇はなかった。
「もしそうなら……」ウィルクスは静かな声で言った。「おれの間抜けは死んでも治らない」
「きみが思いつかなかったのには理由がある」ハイドはすぐに言った。「エクス・エクスの綴りは<XX>ではない。<Ex-X>だ。exは『前』や『以前』を意味する。エクス・エクスという名の意味は『元X』。よくわからない名前だな。新聞を読んだが、あの犯罪者はいつも必ず<Ex-X>と署名する。<XX>と書いたことはないだろう」
ウィルクスは表情を変えなかった。ハイドは続けた。
「本当にベルジュラックがエクス・エクスなのかまだわからないよ、エド。ただ、彼はそういう癖があるのかもしれない」
「癖?」
「きみの内腿を噛んだみたいに、自分の存在をマーキングする。犬みたいに」
ハイドの言葉は単なる比喩で、そこにベルジュラックに対する軽蔑はなかった。ウィルクスは机を挟んでハイドの前に立ったまま、膝が震えだすのを感じた。ハイドは言った。
「彼が本当に例の犯罪者なのか、調べる必要はある。写真の裏の記号は、単に別の意味を込めたのかもしれない。きみがそのメッセージに気がついたのはいつだった?」
「写真が返ってきた日の夜です。リージェント街の強盗殺人がエクス・エクスのしわざと酷似しているということは、その夜にはわかっていなかったと思う。もしわかっていたら、おれだってきっと気にしたはず……」
そう言いながら、ウィルクスは自分が浅ましい言い訳をしている気がしてきた。ハイドの目を見ることができず、視線を自分の足元に落とした。ハイドはただ、エドは自分がヘマをしたと思って落ち込んでいるんだと考えた。探偵は落ち着いた口調で言った。
「ジャン・ベルジュラックについてはぼくも少し調べているんだ。エクス・エクスの件ではなく。きみは気にしないでくれ。疲れているところをすまない。シャワーをして、今夜はゆっくりしなさい」
「もし、ベルジュラックがエクス・エクスなら……」ウィルクスは顔を上げて言った。
「彼はとても虚栄心の強い人間ということになりますね。自分から手がかりを残すなんて」
「そうだな」ハイドはうなずいた。「自分は高等な犯罪者だから敵なしと思っている人間によくあるパターン」
「それなら、必ず自分で自分の首を絞めます」
「エクス・エクスという人間がどうかは知らない。ただ、ベルジュラックに限って言えば、彼は聡明だ」眼鏡を外しながらハイドが言った。「自分の虚栄心を愉しむ余裕がある。……余裕がありすぎるのも問題だが。必ず油断につながるからね。だが、彼はその点……」
そのとき、ハイドは眼鏡を外して今夜初めてウィルクスの表情をはっきりと見た。彼の顔は強張っていた。まるで義憤に燃える騎士のように。刑事はつぶやいた。
「写真の裏に書いていた『XX』は消してしまいました。痕跡もないと思います」
「そうか。残念だが仕方ない」
「おれは、自分の寝室にあがっています」
「わかった。腹が減ったら降りておいで。夕食の準備をするから」
ありがとうございますと言って、ウィルクスは三階の自分の寝室へ向かった。なぜか体がふわふわして、頼りなく感じられた。何者かに操られる紙の人形になってしまったかのようだった。
ウィルクスはメッセンジャー・バッグを床に置くと、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取りだした。番号は控えなかった。しかし、通話の履歴はまだ残っていた。メモを渡されたとき、何度も見た番号なので数字だけの履歴でも覚えている。
彼はジャン・ベルジュラックに電話を掛けた。
○
「もしもし?」
快活な声が言った。
「ミスター・ベルジュラックですか?」
「はい? ウィルクスさん?」
電話の向こうはざわめいていた。かすかに聞こえる軽快なジャズ。声はくぐもって聞こえた。
「ベルジュラックです。どうしたんですか?」
その声はとても礼儀正しくて、常識的な響きを帯びていた。ウィルクスはふと我に返った。悪い魔法が解けたように、電話の向こうの男が犯罪者なんて、非常識な考えだとすら思った。確かにベルジュラックは悪ふざけをする。悪趣味だ。だが、奇抜な、人を愚弄するやり方で殺人を犯したりするだろうか? そんなこと馬鹿げてる、とウィルクスは思った。
しかし、刑事は愚かであってはならない。
「今、どこにいらっしゃいますか、ミスター・ベルジュラック?」
「パブです。ロンドンのですよ。あなたは? どうしたんですか、声がとても疲れて聞こえます」
「おれはなんともないですよ。ただちょっと……あなたに訊きたいことがある」
訊きたいことって? ベルジュラックはとても気楽に尋ねた。
そのときのウィルクスは、自分が愚かなことをしているとちゃんとわかっていた。訊いてどうする? 真実なら、ベルジュラックが認めるわけがない。もし認めたら?
――もしあえて認めたなら、そちらのほうがもっと悪い。
ウィルクスはそれをわかっていた。もしベルジュラックが本当にエクス・エクスなら、それを認めたなら、おれは消されるだろう。
だからウィルクスは冷静になろうと努力した。
馬鹿なこと考えるはやめろ。「あなたはエクス・エクスですか?」だって。そんなことは訊くな。遠回しに、アリバイを尋ねるんだ。あの強盗殺人が起こった日、その時間、彼はどこでなにをしていたか?
そして写真の裏のXXの意味は?
ベルジュラックを追及することは絶対に必要だ。個人的な理由で? ウィルクスは虚空を睨んで思う。いや、人が死んでるんだ。
ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを耳に押し当てたまま、刑事はゆっくり深呼吸する。それから静かな声で言った。
「申し訳ないが、ちょっと時間を割いてもらえませんか? あなたがいるパブに行きます」
「かまいませんよ、ウィルクスさん。ただ、ぼくのいるパブはね……落ち着いて話はできませんよ。バンドが演奏したり、ディーバが歌ったりするんですから。おまけにダンス・ホールもあって、さっきから大学生のグループがやたらはしゃいでるし」
ちょっと間があったあと、ベルジュラックは言った。
「あのパブにしませんか? ぼくとあなたが初めて会ったところ」
ウィルクスは怯んだ。胸が痛くなるほど動悸がする。しかし、冷静に考えた。確かにあのパブなら落ち着いて話ができる。おれは一滴も酒を飲まない。それに、自分のグラスから一瞬たりとも目を離さない。
「いいでしょう、ベルジュラックさん」ウィルクスは言った。「九時にその店で」
彼は通話を切った。
スマートフォンを下ろして、手が震えはじめた。ウィルクスは反対の手で手を押さえ、震えを止めようとした。
あの事件があった日のことを尋ねると、ベルジュラックは間違いなく探られていることに気がつくだろう。そして悪乗りするだろうか? あの魅惑的な笑顔で。
アリバイは必ず正確に調べあげる、とウィルクスは決意した。
ベルジュラックと会うということをハイドに言っておいたほうがいい。ウィルクスはそう思った。だが、止められないだろうか? 彼は迷った。ひとまずスーツを脱ぎ、ハンガーに掛けてクローゼットにしまいながら、やっぱり言っておいたほうがいいと思った。
オリーヴ・グリーンのチノ・パンツを履き、ランニング・ウェアの黒いTシャツを着て、その上に濃いグレーのパーカーを羽織った。スマートフォンと財布だけポケットに入れ、スニーカーに履き替えて階下に降りる。
居間の扉を開けるとハイドはいなかった。
ウィルクスはパートナーの寝室を覗いてみた。いない。防音加工がされている二階の小部屋には、いつもどおりアップライトピアノがぽつんと置いてあるだけ。居間兼事務所の隅にある、休憩用の小部屋も無人。キッチンにも、浴室にも、地下室にもハイドの姿はなかった。
そこでガレージに向かった。車がなくなっていた。音は聞かなかったのに。それとも、電話に集中していたせいだろうか?
ウィルクスは居間に戻った。ココアが入ったマグカップは飲みかけのまま放置されているが、ノートパソコンは閉じられている。彼はそのそばに置かれた白いファイルをめくってみた。バルドー事件。フランスで起こった殺人事件の記録らしい。第一報を報じる新聞の日付は八年前の夏だった。
ファイルを閉じ、ウィルクスはハイドのスマートフォンに電話を掛けた。しかし、つながらない。もう一度コールして、留守番電話に吹きこんだ。
「ベルジュラックに会いにパブへ行ってきます。店の名前は<クラックド・ベル>。心配しないでください」
それから、机の上にあったメモ用紙を破いて同じ文句を書き、マグカップを重しにした。そして鍵を閉め、外へ出た。
緊張と不安と焦燥でウィルクスは自分の状態を忘れていた。コンディションはますます悪く、最悪なほうへ転がっていく。水面下で肉体の欲望は激しく膨れあがり、爆発しそうだ。しかしまだ自分では気がつかない。
ウィルクスが「それ」に気がついたとき、そこにいたのはハイドではなくベルジュラックだった。
そしてもう後戻りはできなかった。
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