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19.探偵と刑事と二十・一
エドワード・ウィルクスが待ち合わせ場所である<クラックド・ベル>を訪れたとき、パブの中は少し混んでいた。四つあるボックス席はどれも満席で、あとはソファの席が二つ、残りはカウンターだけ。それもほぼ埋まっている。
狭い店で煙草の煙が渦を巻き、濃い紫煙のにおいが漂っていた。窓はわずかに開けられ、オレンジ色の丸い照明が暗がりの中で、鬼火のようにぼうっと浮かびあがっていた。
ウィルクスは約束していた九時の四分前にその場所に着いたが、待ち合わせの相手のほうが早かった。ジャン・ベルジュラックはカウンター席の奥から二つ目の席に座り、片手を挙げてウィルクスに合図した。
隣の席に座ってわかったことだが、ベルジュラックはとても機嫌がよく、にこやかだった。キール・ロワイヤルを飲む彼の前にはナッツやチョコレートが入った小さなガラスのボウルが置かれている。ベルジュラックはつまみをウィルクスに勧め、カクテルを一口飲んだ。黒い目がどぎついまでに輝いていた。
酔っているのだろうか。ウィルクスは気がかりだったが、そうでもないらしい。ベルジュラックはカクテルを飲み干すと、次はギムレットをバーテンダー注文した。カウンターに置かれた磨かれたグラスの群れを一瞥して、ウィルクスはビールを一杯注文した。飲むつもりはなかったが、素面でベルジュラックと対峙することはできなかった。
情けない。ウィルクスは自分自身に対してそう思ったが、今回は自責を後回しにするほど事態が切迫している。飲み物がそれぞれの前に置かれる前に、フランスから来た記者が言った。
「改めてこんばんは、ウィルクスさん。またお目にかかれてとてもうれしいですよ」
「突然お呼びして、すみません」
そこでウィルクスは気がついた。どんな顔でベルジュラックと話をするべきか? 警官として? 隣で機嫌よく飲んでいる男は強盗殺人の容疑者の一人だ。だが、あくまで「話を聞くべき」人間であって、むりやり尋問することはできない。
それなら単に、知り合いという顔で話をするべきなのか? しかしその場合、ウィルクスはベルジュラックと話したいことなどなに一つなかった。
だからこの記者が自分から口を開いて他愛ない話をしはじめたとき、ウィルクスはほっとした。
ベルジュラックはカクテル・グラスを持ち上げてギムレットを一口飲み、目を輝かせて尋ねた。
「お仕事は今日はお休みですか?」
「いえ、仕事には出ていました。……今、リージェント街の強盗殺人の件で忙しくて、休んでいる暇はありません」
そう言いながらウィルクスはそっと隣の男の反応をうかがったが、ベルジュラックは単に同情的な目をしただけだった。
「その事件は知っています。刑事の仕事は激務ですね。ぼくも刑事事件担当の記者だからわかるんです。でかい事件が起こったら警官たちは必死になります。正義感もあるでしょう。野心は逞しく、政府や市民の怒りの声に神経を苛まれる。ぼくの友人も言っていましたよ、『刑事は果てしない徒労との闘いだ』って」
「友人?」ウィルクスはふと興味をひかれた。「警官のご友人ですか?」
ベルジュラックはうなずいた。
「ええ。記者と刑事が友達になれるはずはないって、そう思うでしょう? でもぼくらは友達でした」
「でした?」
「彼は亡くなりました。殉職ということになるんでしょうか。もう二年は昔の話です」
カクテルをまた一口飲むと、ベルジュラックは急にウィルクスのことを気遣った。
「気が滅入る話をしてすみません。あなたには他人事じゃないのに」
「いえ、大丈夫です」ウィルクスはビールを一口飲んで言った。「もし犯人を捕まえられるなら、この命を捧げてもいい。そう思ったことはあります」
それは嘘ではなかった。十代の若い少女二人が強姦されて殴り殺された三年前、ウィルクスは強くそう思った。ベルジュラックはうなずいた。それから唐突に言った。
「死の危険に瀕している男は通常よりも性的魅力が増し、女を惹きつけやすいってご存知ですか? ぼくも、それはよくわかります。あなたを見ていたら」
ウィルクスはぎこちなく身じろぎした。彼は冷たく言った。
「からかわないでください」
「からかってなんていませんよ。……ねえウィルクスさん、この国は今はもう自由です。昔は男同士で愛しあうことが罪に問われた。今は結婚すらできる。だから、怖がることはなにもない」
「法では咎められないが、してはならないこと、するべきではないこともたくさんあると思います」
「まじめですね、あなたは」ベルジュラックはくすっと笑った。
「同性愛は『するべきではないこと』だと?」
「いや。そうは思いません。男に惹かれる男もいるし、女に惹かれる女もいる。性別から自由になろうとする人間もいる。そういう人々にだって幸せになる権利はあるんです」
そう言いながら、ウィルクスはビールのグラスを握りしめて思った。もっと若かったころ、少年のころの自分にもそう言ってやりたかった。彼はビールを飲んで、隣を向いた。
「ベルジュラックさん、おれはどこかで自分が同性愛者であることを恥じている。その考えこそが恥ずかしいものなんだとは思う。でも、正しいと思いながらいっしょに大きくなった価値観を捨てることは難しい。それでも、おれは幸せです。今は同性のパートナーがいて、彼はおれのことを肯定してくれる。だから、彼のことはなんとしても守りたいんです」
「わかりますよ、ウィルクスさん」ベルジュラックは真剣に聞いていた。
「ミスター・ハイドはあなたにとって、とても大切な人なんですね。……そう、少し驚きましたよ。あなたとここで初めて会った夜。初対面だというのに、あなたがあまりにもすんなりと、無防備に自分のパートナーの話をするから。むしろ彼の話しかしなかった。きっと今、幸せなんだなと思っていました」
「あのときのことは忘れてください」
ウィルクスは口元を手でぬぐった。ベルジュラックはうなずいた。そしてほっそりした両手の指を組み、ウィルクスに微笑みかけた。そのとき、刑事はカウンターの壁に掛けられた丸い木枠の鏡がベルジュラックの横顔を映していることに気がついた。鏡に映る彼は青白く、妙に艶かしかった。
ウィルクスは目を伏せる。ベルジュラックが尋ねた。
「それで、今夜はいったいどうしたんですか?」
刑事はじっと記者の目を見た。
「この前返してもらったおれとハイドさんの写真、裏に<XX>という記号が書かれていました。あれはどういう意味ですか?」
「気がついてくれたんですね。あなたはなんだと思いましたか?」
「キスを表しているのかと。よく手紙とかメールの最後なんかに書く」
「なるほど。まあ、たいていはそう思うでしょうね。あれは数です」
「数?」
「そう。Xは『十』を表す記号です。Xが二つだから、『二十』。あなたはぼくにとって、二十番目の人なんです」
「二十番目? なんの二十番目ですか?」
ベルジュラックはあいまいに笑って答えなかった。
ウィルクスはビールを飲む。もうすぐなくなりそうだ。だが、二杯目を飲むつもりはない。急に激しく、彼は自分のことを責めたくなった。なんでおれはこう、うまくできないのだろう。刑事の仕事も、ベルジュラックを御すこともできない。歩けば壁にぶち当たる。壊すことも乗り越えることもできなくて、いつも途方に暮れているだけだ。
苦しみに沈み込んだ彼は急に、頭の隅にちらつくだけだった誘惑が膨れあがるのを感じた。今すぐに快楽の中に逃げこみたい。性行為の快楽にのめりこめば、この苦しみを忘れることができる。ハイドの姿が生々しく甦り、狂おしくウィルクスを責めたてた。
「ウィルクスさん?」
我に返って刑事が顔を上げると、ベルジュラックは顔を近づけていた。
「気分が悪いんですか? 大丈夫?」
「ええ」ウィルクスはめまいを感じながらうなずいた。「大丈夫ですよ」
そのとき、刑事は感じた。年下の男の目が異様にぎらついているのを。この男はきっとこれまでの人生で望むものすべてを手に入れてきたに違いない。ウィルクスはそう思った。少し怖くなった。
「ねえ、ウィルクスさん」ベルジュラックはささやいた。「ぼくのこと、疑ってますよね」
「え?」
「リージェント街の強盗殺人。もしかしてぼくがやったと思っているのでは?」
「まさか」
ウィルクスはつぶやいてビールを飲み干した。
ベルジュラックは静かに言った。
「あなたが写真の裏の話をしたから、そうなのかと。<XX>という記号を見て、<Ex-X>となにか関係あると思ったのでは? エクス・エクスは今、フランスで幅を利かせている悪党です。ぼくも彼が起こした事件の取材をしたことがある。奇抜で人を食ったような手口。そして獲物は確実に仕留める。殺人もいとわない。彼の——おそらく「彼女」ではないでしょうね——署名はいつも<Ex-X>です。でも、あなたはもしかしてと思われたのでは?」
「あなたは鋭い人だ」
ウィルクスがつぶやくと、ベルジュラックはにこっと笑った。
「写真の裏の<XX>の意味はお話ししましたよね? ぼくは犯罪者のエクス・エクスとは関係ありませんよ」
「二十番目って、なんの二十番目なんですか?」
「ぼくが愛した人の。二十五年も生きているんだから、多いなんてことはありませんよね?」
刑事は沈黙した。空のグラスを握りしめ、うつむく。その手の甲にそっとベルジュラックの手が触れた。
「ねえウィルクスさん、ミスター・ハイドのことを守りたいって言いましたよね?」
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