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20.探偵と刑事と戒め・一

 ストランド街の自宅に帰りつくまで、エドワード・ウィルクスは四十分かかった。秋の肌寒い夜、歩いても歩いても震えは止まらなかった。四十分も経っていたことに気がつかず、気づいたときには自宅の玄関の前だった。  外灯には灯りがともり、オレンジの光が玄関扉を穏やかに照らしだしていた。二階の探偵事務所兼居間にも灯りがともっている。ウィルクスは鍵のかかっていない扉を開け、ほとんど無感覚で階段をのぼった。  居間の扉を開けると、結婚相手はそこにいた。  シドニー・C・ハイドは扉に背中を向けていたが、音に気がついて振り向いた。大型の仕事机のそばにいて、スコットランド・ヤードから借りてきた冊子状に綴じられた書類を読んでいる。彼は老眼鏡の向こうからウィルクスを見てうれしそうな顔をしかけたが、表情はすぐに引き締まった。ハイドは眼鏡を外し、目を細めた。 「どうしたんだ、エド?」  ウィルクスは水を浴びた犬のように首を振った。口元をぬぐう。 「別に、どうも」  そう答えたとき、ふいに落ちきっていない精液の濃いにおいを感じた。途端に気分が悪くなり、胃から熱いものが喉にまでこみあげた。彼は口を押えて前かがみになった。  すぐにハイドがそばにやってきた。パーカー越しに背中をさすり、肩を抱いて顔を覗き込む。 「気分が悪いのか? ここで吐いてもいいからね」  ウィルクスは首を横に振った。膝からくずおれそうになり、ハイドに抱かれた手の下で体を強張らせる。  冷静な部分では、ウィルクスも思っていた。こんなふうになるのはおかしい。おれは刑事なんだ。酷い現場なんてたくさん見てるのに。繊細でもないし、弱くもないはずなのに。それでも、彼は何度も空えずきした。  ハイドも途中から気がついていた。苦しそうなのに、ウィルクスはまったく助けを求めてこなかった。すがりついてくることもなく、支えてもらいたそうなそぶりもせず、ひたすら直立して胃の中のものを飲み込もうとしている。  ようやく吐き気がおさまり、ウィルクスが顔を伏せて涙をぬぐっていると、ハイドはそっと彼の顎に触れた。濡れた焦げ茶色の瞳を覗きこんで言った。 「ベルジュラックとなにがあったんだ?」  ウィルクスは彼を見つめた。刑事の肩はひくひく震えたが、泣くことはなかった。硬直したままで、ハイドの体に触れることもなかった。「ハイドさん、おれ……は」ウィルクスはつぶやいた。「あの男にフェラしてしまいました」 「レイプされたのか?」 「いいえ。ち、違うんです。自分からしました」  ハイドが肩から手を離すとウィルクスはすがりついた。 「ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい。殴ってください」 「いや」ハイドは言った。「そんなことはしない」  ウィルクスの顔はさらに青ざめた。灰色になり、口元がこわばって睫毛が震えた。小鼻が震え、もう一度「ごめんなさい」と言った。 「飲んだのか?」  ハイドに尋ねられ、ウィルクスは虚ろな目を向けた。ハイドは言い聞かせるようにささやいた。 「彼の精液を飲んだのか?」  ウィルクスは顔を横に振った。それから言う必要はないのに、「顔に掛けられただけです」と言った。ハイドは首をやや傾げてウィルクスの顔を見た。年上の男の薄青い瞳はなんの感情も、思いも、そこに映してはいなかった。だからウィルクスは怖くなった。ハイドは彼の肩にそっと片手を置いて尋ねた。 「風呂に入りたいか?」 「はい。でも、おれがバスルームを使ったら、汚れてしまう」   ハイドはウィルクスがなにを言いたいかわからなかった。 「バスルームは汚す場所だよ、エド」探偵は年下の男の手をとった。「いっしょに行くから、体を洗うといい」 「いえ、ひ、一人でできます」 「一人で体を洗うなんて惨めじゃないか」  握っていた手をハイドは強く引いた。 「来るんだ」  低い声でそう言うと背中を向けて扉を開けたハイドに、ウィルクスは胸を締めつけられるほどのよろこびを感じた。気にしていないよと微笑んで慰められるよりも、怒っているほうがうれしかった。  しかしそれでも、ハイドは自分が怒っているとは言わなかった。それからは無言でウィルクスを風呂場へ連れていき、彼がのろのろと服を脱ぐのを見ていた。  ハイドはすぐに気がついた。ウィルクスのTシャツには精液がこびりついていたし、オリーヴ・グリーンのチノ・パンツもそうだった。下着のシミは乾いていたが、どことなく汗と精液のにおいがしていた。ウィルクスが服を脱ぎ終えると、ハイドは彼を浴槽の中に入れた。自分はカットソーの袖を肘までまくって、シャワーの栓をひねり、熱い湯を出してウィルクスの頭から掛けた。  彼は両手で頭を洗い、湯が勢いよく吐き出されるまま、その下で口を開けていた。顔を両手で擦り、浴槽の中に座りこむ。ハイドはシャワーヘッドを持って、ウィルクスの背中や胸や腿に湯を掛けていった。それから蛇口をひねって湯を止め、シャワーヘッドを浴槽の中に静かに置いた。 「エド、きみは……」ハイドはウィルクスのそばにかがみこみ、言った。「ベルジュラックに脅されたのか? ぼくのことで」  ウィルクスは浴槽の中に座りこんだまま「はい」と答えた。ハイドの目元の皺が深くなった。彼はつぶやいた。 「すまない、ぼくのために」 「違うんです」  ウィルクスはうつむいたまま言った。 「おれは、じ、自分でついていった。欲望に負けてしまったんです。あなたのためじゃない……」  ハイドは腕を伸ばしてシャワーヘッドをつかんだ。蛇口をひねって湯を出すと、もう片手でウィルクスの顎をつかんで顔を上向ける。ハイドが指でウィルクスの唇をなぞると、彼はかすかに口を開けた。ハイドが中に勢いよく湯を注ぎ込むとウィルクスは湯を噴き出し、げえげえ言ってむせた。ハイドはそれを見ていた。ウィルクスの後頭部に触れ、髪を指先でくしゃくしゃしたあと、濡れた頭を胸に抱き寄せた。  ウィルクスは逞しい胸に頭をもたせかけ、愛する男のにおいを嗅いだ。むせび泣きたかったのに、涙は出てこなかった。 「もう彼には関わらないほうがいい」ハイドが言った。 「ベルジュラックのことはぼくに任せてくれ」  ウィルクスは肩を震わせて息をしていたが、やがてぽつぽつと口を開いた。 「でも……彼は、あなたの弱みにつけ込むようなことを言っていた。なんの話かはわからないけど……強請られているんですか? ……どうして? でも、きっとあの男がなにかでっちあげたんですよ」 「彼の言うことも一理あるんだよ」  ハイドはなんの問題もないかのように言った。ウィルクスの後頭部の髪を掻き上げ、額に軽く口づけた。ウィルクスは幸福で息が詰まりそうだった。探偵は彼の濡れた頭を胸に抱えて、穏やかに言った。 「ベルジュラックのことは、もう考えないでいい」 「でも、彼はリージェント・ストリートの強盗殺人に関係してるかもしれない。アリバイを調べないと」 「きみがそこまでする必要はあるのか?」 「あります」ウィルクスはぷるっと震えた「……おれは、刑事です」 「きみは今夜、そのために彼に会いに行ったのか?」  ウィルクスはうなずいたが、自分の浅ましさがあまりにも恥ずかしく、唇を噛んだ。それは自己嫌悪よりももっと激しい、自分自身に対する憎悪だった。死にたくなるほど狂おしい感情に苛まれて体を強張らせると、ハイドはウィルクスの頭を大きな手で抱き寄せた。 「ベルジュラックのアリバイを探るのは、他の刑事に頼んでみたらどうだ?」 「でも、なんて言えば……。おれが彼を疑ったのは、写真の裏に<XX>の書き込みがあったからです。写真が彼の手元に渡ったいきさつを同僚に話すのが、その……。でも、そんなことは言っていられないんでしょう」 「<XX>という書き込みの意味は、エクス・エクスとは関係なかった?」 「ベルジュラックは否定しました。あの犯罪者の署名ではなくて、別の意味があるんだと……」 「なんていう意味だ?」 「『二十』だという意味だそうです。おれが、に……二十番目の、自分が愛した人だと」 「そうか」  ハイドはそうつぶやくと床から立ちあがった。ウィルクスは浴槽に座りこんだまま、ぼんやり彼を見上げた。湯が流れ込んで曇った目に、浴室の灯りを背後に受けたハイドは黒い塊に見えた。彼は言った。 「きみはもう気にしないほうがいい。あの強盗殺人はきみの担当じゃないんだろう? 補佐だと言っていたな」 「でも、警察はチームです。一人一人の刑事が全力を尽くしていい働きをしなければ」 「その通りだ。だからきみは今夜、彼に会いに行った。そうだな」  体が冷たくなり、ウィルクスは小刻みに震えた。彼にはハイドの言葉が皮肉に聞こえた。ハイドはそんなつもりではなかった。ふたたびしゃがみ込み、ウィルクスの両脇の下に腕を差し入れて彼を抱え起こした。刑事はすぐに自分の力で立とうとした。ハイドから体を離し、彼の顔を見つめた。

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