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21.探偵と刑事と忘却の夜・一

 スコットランド・ヤードで昼休みが終わろうかというころ、刑事部のデスクに戻りかけていたエドワード・ウィルクスは、廊下で同僚の刑事に呼びとめられた。 「ウィルクス、お客さんだ」 「客?」 「ミスター・ジャン・ベルジュラック。フランスから来た新聞記者だそうだ。知ってるか?」  ウィルクスは瞬時に、表情を仕事で使うポーカーフェイスに切り替えた。人当たりのいい、そしてそれゆえに感情をにおわせない笑みを唇に浮かべて、「知ってるよ」と答える。 「会ってくるよ。ちょっと、戻るのが遅れる」 「わかってるよ」同僚はうなずいた。「言っておく。ミスター・ベルジュラックは玄関前のロビーにいるよ」  同僚が行ってしまうと、ウィルクスはぎこちなく身じろぎした。認めたくなかったが、一瞬恐怖のようなものを感じた。輝く黒い目を思いだす。どんな顔で会えばいい? その瞬間が恐ろしくて、ベルジュラックのことを憎もうとした。だが、結局ウィルクスがしたことといえば、いつものきびきびした足取りでロビーへ向かうだけだった。  ベルジュラックは受付のそばに立って、あたりをのんびり見回していた。グレーのジャケットに薄手の黒いハイネックのセーターを着て、下はやや細身の黒っぽいコットンパンツだった。ウィルクスに気がつくと目を輝かせ、「こんにちは」と言う。ウィルクスも挨拶を返す。二人のことを、通り過ぎる警官や職員たちが遠巻きに見ている。なにかただならぬものを感じるからだ。 「きのうは無事に帰れたみたいですね」  ベルジュラックは屈託なく言った。ウィルクスの胸に太い矢が刺さる。血が溢れだし、力が抜けていく。フラッシュバックのようにきのうのことを思いだした。  パブのざわめき、使い古された、汚れが落ちきらなくなった手洗い。狭い個室、隅の床に散乱したトイレットペーパー。卑猥な色と形をしたベルジュラックの性器、そのにおいと味、自分がしたこと、顔のまわりをとりまく精液のにおい。  みぞおちが痛くなり、胃がむかむかする。それでもウィルクスはポーカーフェイスを保っていた。笑みすら浮かべて、「ええ」とうなずく。ベルジュラックはにっこりした。ウィルクスの二つ下、二十五歳のベルジュラックの微笑みは、どことなくあどけなささえ漂っている。それなのに、ウィルクスは怖かった。しかし、目を逸らせば負けだと思う。それでベルジュラックの黒い瞳を見返した。異様に輝く目は笑っている。 「ヤードに用事ですか?」  耐えられなくなり、ウィルクスは尋ねた。知りたくなかったが、言葉は勝手に出る。 「それとも、おれになにか?」  ベルジュラックはまばたきした。 「待ち合わせです」 「待ち合わせ?」 「そう。……ああ、来たみたいだ。こんにちは、ミスター・ハイド」  振り向いたウィルクスの顔が強張った。彼の結婚相手、シドニー・C・ハイドはぶらつくようにやってくると、いつもと変わらぬ穏やかな調子でベルジュラックに「こんにちは」と挨拶を返した。  それからウィルクスのほうを向く。 「エド、忘れ物だ」  そう言ってハイドが手渡したのはスマートフォンだった。 「居間のテーブルの上で見つけたんだ。出掛ける準備をしていたときに忘れていったんだな」  ありがとうございます、とウィルクスは口の中でつぶやいた。それからハイドの顔を見る。 「ベルジュラックさんと待ち合わせって?」 「二人で調べものをする約束をしたんだ。『エクス・エクス』のことで」  ハイドが「そうですね?」というようにベルジュラックを見ると、記者は笑顔でうなずいた。 「ええ。ぼくもフランスでエクス・エクスの事件を担当しています。過去に調べたことや記事のバックナンバーが参考になると思って。ヤードも今、つい最近起こったエクス・エクスの事件を調べているそうだから」 「心配しなくていいよ」ハイドはウィルクスの目を見て言った。「ブルーム警部も同席する。彼が担当者だからね。……エド、どうしたんだ? そんな顔をして。笑ってごらん」  ハイドは人差し指の背でウィルクスの頬を撫でた。夫の薄青い目を見つめ、ウィルクスは動悸で胸が苦しくなった。愛慕からではなく、なぜかとても深く、原始的な恐怖を感じて怯えた。いつもの笑顔と変わらないはずなのに。それでも、刑事は口元に笑みを浮かべる。ハイドはにこっと笑った。 「そう。大丈夫だよ」  そう言って頬を撫で、ベルジュラックのほうを振り返る。記者は目を爛々とさせて二人のやりとりを見ていた。 「行きますか?」  ハイドが言って、ベルジュラックは「ええ」と答えた。  二人が並んで、しかし無言のまま廊下を歩いていく。ウィルクスは見送るしかなかった。  我に返ると、彼は二人が消えた廊下を静かに歩きはじめていた。 ○ 「エクス・エクスが初めてフランスに現れたのは、四年前だそうですね」  応接室で持参したノートパソコンを見ながらハイドが言うと、テーブルを挟んで向かいに腰を下ろすベルジュラックがうなずいた。 「秋でしたよ。十月の半ばだったはずです」  ハイドの老眼鏡のレンズに、ディスプレイの白い光が反射している。彼は眼鏡を持ち上げ、目を擦った。 「寝不足ですか?」  ベルジュラックの言葉に、ハイドは静かに答える。「少し疲れていて」。それから眼鏡をかけ直し、電子版<アルバ紙>のバックナンバーをさかのぼっていく。 「最初の事件も強盗事件だったそうですね。パリのサントノーレ通りで、午後四時前に宝石店を襲撃し、店員を一人殺害。白昼の強盗だが有力な目撃証言はゼロ。現在も未解決。見事だ」  ハイドはつぶやくと、さらに記事の日付を進める。 「当初、第一の事件のとき、エクス・エクスは自分の名前を名乗らなかった。その三か月後に起きた盗難事件で初めて公式の声明を出し、自らをエクス・エクスと名乗る。そして三か月前の強盗事件の犯人も自分だと声明を出した。……あなたは第一の事件のとき、記事を担当したわけではないのですね、ミスター・ベルジュラック?」 「ええ。ぼくはまだ学生でしたから」  そう言って、ベルジュラックは出されたコーヒーを一口飲んだ。ハイドはまだ口をつけていない。ノートパソコンに視線を据えて次々と記事をたどりながら、尋ねる。 「あなたが記事を担当したのはどこからですか?」 「三件目の事件からです」とベルジュラック。「フランスではこれまで、エクス・エクスが犯人とされる事件が八つ起きている。九つ目はここ、ロンドンだ。ぼくも<アルバ>からの指示で取材をすることになりました」  ハイドはうなずき、顔を上げてちらりと目の前の青年を見た。 「そもそも、あなたはなぜロンドンへ?」 「休暇のつもりだったんです。イギリスが好きで、たまに渡英するんですよ。シャーロック・ホームズとか、ジョン・ディクスン・カーとか、アガサ・クリスティーの影響ですね。カーはアメリカ人なのに、イギリスが舞台の小説が多い。そういえば、ウィルクスさんも今ぼくが言ったようなミステリがお好きですね」 「ええ」ハイドは短く答えた。「エクス・エクスの事件を取材してきた経験から、あなたが気づいたことは?」 「エクス・エクスはとても虚栄心が強い。大胆だ。手際が見事。罪の意識が感じられない。かといって、見境がないわけじゃない」 「そうだ」ハイドはつぶやく。「エクス・エクスはとても冷静です。暴力的な感情や血生臭い欲望、衝動に突き動かされて犯行に及ぶ、というかんじじゃない。彼は常に自分をコントロールしている。虚栄心が化け物並みに強くても、頭は冴えている。だから手強い」 「認めますか?」  ベルジュラックがささやくと、ハイドはうなずいた。そして言った。

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