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探偵と刑事と忘却の夜・二
「エドがゆうべ、ぼろきれのようになって帰ってきたよ」
黒い瞳に輝きが増した。ベルジュラックは自分の耳を触りながら、得体の知れない笑みを唇に浮かべる。
「ぼくのせいですか?」
静かな声でベルジュラックが言うと、ハイドはパソコンから顔を上げた。
「そうだろうね」
「それで、あなたは優しくいたわってあげた?」
「いや。ぼくも彼を追い詰めた」
「へえ。どんなことをしたんだろう? 『口直し』でもさせてあげたのかな?」
一瞬、あたりがしんとした。パソコンが発するかすかな音だけが満ちる。ベルジュラックの目は黒く、光を帯びて輝いていた。瞳孔が開いている。その目で彼はハイドの目を見つめ、穏やかな笑みを漏らした。
「ウィルクスさんは本物の淫乱だ。あまり放っておくのはかわいそうですよ」
「わかっているよ。だからきみは彼を助けようとした。そうだね?」
「そうです。だって、ほんとうにかわいそうだったから。よくあそこまで躾けましたね?」
ハイドは答えなかった。別の記事をエンターキーで開いて、ベルジュラックの目を見て言った。
「もうエドに近づくな、と言っても、きみは言うことを聞かないだろうね」
「あなたがもしもっとかわいい人だったら、乗り換えるんですけどね」
しばらく無言になったのち、ハイドは笑った。ベルジュラックも微笑む。それから、静かな口調で言った。
「あなたはみかけほど優しくない。冷酷で、無慈悲で、残忍だ。そうじゃありませんか?」
そうだよ、とハイドは言った。ベルジュラックは目を合わせてささやいた。
「でも、冷酷である勇気がないんだ。彼に嫌われたくないから。だからあなたよりぼくのほうが、彼を可愛がってあげられる。ウィルクスさんは虐げられるほど光を放つ人間ですよ。そうは思いませんか?」
扉がノックされ、ブルーム警部の巨体が姿を現した。浅黒い肌の牡牛のような男だが、小さな目は明るく澄んでいる。彼は探偵と記者に挨拶し、ハイドの隣の、一人掛けのソファに腰を下ろした。ベルジュラックをしげしげと見つめ、低く太い声で言った。
「フランスの<アルバ紙>で、刑事事件担当の記者をなさっているんですね? エクス・エクスのこと、きっと我々よりもお詳しいでしょう。いや、運がよかった。あなたが天からの使者に見えます」
ブルーム警部はのっそりとした見た目に反して、すらすらと軽口をたたく男だった。ぼくにできることならいくらでも協力しますよ、とベルジュラックが答える。
「いつからイギリスに滞在してらっしゃるのですか?」
警部の質問に、ベルジュラックは虚空を見る。
「一週間と三日ほど前だったと思います」
「ということは、リージェント街で事件があったとき、あなたはすでにロンドンにいた?」
「ええ。そうです」
「事件のニュースが流れたとき、エクス・エクスの犯行だとピンときましたか?」
「いいえ。大胆な犯行だと思いましたが……たしか、エクス・エクスの犯行と酷似しているという話になったのは、事件の翌々日のことでしたね。ぼくもネットのニュースで見て初めて知ったんです」
「なるほど。事件があった日、現場を見に行きはしませんでしたか?」
「そう、近くへは行きましたね。警官が見張りについていて、表のシャッターは降りていました。でも、ぼくは記者ですからね……大きな事件があると見に行く習性なんです」
「事件当日は、どちらに?」
「え?」ベルジュラックは笑った。「そうですね、ホテルで手紙を書いて、観光気分でベーカー街に行こうかと思いましたが……結局出掛けず、昼過ぎにはホテルでお茶をして」
それから警部の目をまっすぐに見て、言った。
「まるでアリバイを訊かれているみたいですね」
そんなふうに感じられましたか、と警部は言った。
○
「ウィルクス君」
刑事部のオフィスの扉から顔を出し、ハイドが呼びかけた。ウィルクスはキーボードをたたいていた手を止めて椅子の中からハイドを見上げる。
「いっしょに帰らないか?」
その声に、ウィルクスは少し悲しそうな顔をした。
「すみません、仕事がもうちょっとかかりそうで……」
すると隣から、「やっておくよ」と声がかかる。ウィルクスが振り向くと、隣のデスクのトルーマン刑事がうなずいていた。
「おれが片づけておくよ。入力だけだろ? きみは帰りなよ」
「だが、きみだってたくさん仕事が……」
「大丈夫。きみの顔、疲れてるよ。ハイドさんと帰ったほうがいい」
ウィルクスが迷っていると、後ろから覗きこんでいたストライカー警部もしわがれた声で同意した。
「今日は帰るんだな。で、回復したらまた馬車馬みたいに働く生活が待ってる。そう思うと安心だろ?」
帰るよ、と言ってウィルクスは立ちあがった。トルーマンに礼を言って、紙コップに入ったテイクアウトのコーヒーを飲み干す。ごみ箱に捨てて、荷物をまとめた。
部屋の外に出ると、ハイドが待っていた。穏やかで優しい顔を見て、ウィルクスは鼻のつけ根につんとした痛みと涙を感じる。だが、目には浮かばなかった。
「ミスター・ベルジュラックはブルーム警部と話してる。きみが心配しなくても、警部はいろいろ訊いてるよ。だから、今日はいっしょに帰ろう」
その言葉と共に差し伸ばされた大きな手を、ウィルクスは素直に握った。ハイドがぎゅっと握り返してくる。手を繋いだままスコットランド・ヤードの中を歩く二人は人目を惹いたが、ウィルクスは幸せだった。
「なにも心配しなくていいから」
そう言って、ハイドはウィルクスを車に乗せた。ウィルクスは荷物を足元に置き、パートナーを見上げる。運転席に腰を下ろしたハイドが、そっと彼のほうに体を傾けて唇にキスをした。ウィルクスがハイドの上唇を噛むと、ハイドは顔を上げてにっこりした。
ウィルクスの頬を涙が伝った。
「シド、おれ……」ウィルクスは涙を垂れ流したままハイドを見上げ、震える声でささやいた。
「したいんです、今も……」
わかってるよ、とハイドは言った。彼は手を伸ばして、ウィルクスのシートベルトを締めた。
「今夜、しようね」ハイドがささやく。
薄青い瞳は感情を読ませない。それでも、ウィルクスはそこに気遣いの光を読みとった。彼は夢中でささやいた。
「聞いてたんです。『もうエドに近づくな』って、言ってくれてありがとう。あなたはやっぱり優しい人です。冷酷なんかじゃない」
ハイドはそれには答えなかった。パートナーの頬を指の背で撫でる。
「大丈夫だよ、エド。忘れなさい。今夜のベッドのことだけ考えていればいい」
はい、と答えて、ウィルクスはほんとうにそのことだけを考えていた。リージェント街で強盗殺人事件が起こったとき、ジャン・ベルジュラックはどこでなにをしていたのか。ブルーム警部と入れ替わりにその場を去ったウィルクスは知らなかった。
ただ、ハイドの言葉に忠実に、夜のことだけを考えた。
その夜、ハイドはウィルクスが意識を飛ばすまで彼を愛した。
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