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22.探偵と刑事と夢

 目を開けると、夫が背中を向けていた。  ジャン・ベルジュラックとスコットランド・ヤードで別れた日の夜だった。エドワード・ウィルクスは枕に頭を埋めたまま、起きあがってベッドの中に座りこんでいるパートナーの背中を見た。ナイトテーブルの上に置かれたランプのほのかな明かりの中、広い背中が浮きあがっている。四十一歳だがハイドの皮膚はなめらかで、背骨が道のように腰まで伸びていた。  ウィルクスはしばらく夫の背中を見るともなく見ていた。パートナーが急に振り向く。  シドニー・C・ハイドはウィルクスの顔を見ると、かすかに微笑んだ。大きな手でウィルクスの頭を撫で、指先で浮きあがった頬骨を触る。それから手を伸ばして、ナイトテーブルの上に置いたミネラルウォーターのペットボトルをとった。手渡されるとウィルクスは上半身を起こし、貪るように飲んだ。  生ぬるい水のしずくが口から顎に垂れ、喉を伝う。ハイドが指で拭いてやった。ウィルクスはペットボトルを返すとまたベッドの中に体を沈め、夫を見上げた。  ふだんは凛々しく鋭い焦げ茶色の瞳が今はぼんやりして、生気に乏しい。虚ろで、夢見ているようだった。それから、ウィルクスは眼差しと同じような口調でつぶやいた。 「すみません、おれ……寝てましたか?」 「ああ、よく寝てたよ」  ささやきながらハイドはウィルクスの短い前髪を撫で、こめかみに触れる。それから、髪を指でくしゃくしゃしながら頭を撫でた。 「きみは長いあいだ、ドライでイってたよ。それから眠ってた。失神したみたいに」 「たぶん、そうなんでしょう」ウィルクスはぼんやり言った。「あなたが優しくしてくれたから、おれ、よくわからなくなってしまって。気持ちよくておかしくなってしまいました。ごめんなさい」  ハイドはじっとウィルクスの目を見た。焦げ茶色の瞳は濁って、澱んだ水たまりの中に漂う枯葉みたいだった。いいんだよ、とハイドは言った。  急にウィルクスが微笑んだ。 「いっぱい噛んでたんですね」  彼は自分の胸元を見ていた。薄い胸に赤い噛み痕が散らばっている。ウィルクスは毛布をめくって、自分の腹から下を見た。 「すみません、おれ……ちょっと痛いほうが、感じるから」 「きみも噛んでたね」  そう言って、ハイドはヘッドボードに背中を押しつけてベッドに座ったまま、自分の左側の、首のつけ根をウィルクスに見せた。彼は「覚えてません」と言った。 「たぶん、きみは頭が朦朧としてたんだろう。二回目だったかな。入れたとき、痛いって言ってたね。そのときに噛んだんだろう。……体は大丈夫か? どこも痛くない?」 「ええ」ウィルクスは微笑んだ。「平気です。ほんとは嘘だったんです。痛いって言えば、あなたがきっと……」声が震え、涙声になった。 「きっと、優しくしてくれると思って……」  ハイドは黙ってウィルクスの頭を撫でた。茶色の目には涙が浮かんで、今にも零れ落ちそうだった。しかし、彼はこらえた。顔を枕に押しつけて胸を上下させる。それから言った。 「すみません。あの……ときどき怖くなるんです。あなたがもし怪我だとか、なんらかの理由でセックスできなくなったら、おれはあなたのことを愛していけるだろうかって」  枕に顔を押しつけて、ウィルクスの言葉は途切れた。肩が震えている。ハイドはなにも言わずに頭を撫でていた。彼は指先に触れる短い髪の手触りに心を集中させていた。 「怖いんです。それに、自分が憎いんです。許せないんです」  顔を伏せたままウィルクスが言った。 「あなたが優しくしてくれるのに、裏切ってしまう。たぶん、気持ちよくなるためなら、おれは誰とでもいいんじゃないかと思う。どうしてこうなってしまうのか、わからない。あなたのことが大好きなのに。ずっとそばにいてほしいのに。でも、おれが悪いんです」  痩せた肩が震えだした。ウィルクスは震えを止めようとしたが、できなかった。ハイドが肩に手を置く。少し強くつかむと、震えは弱くなった。ウィルクスはくぐもった、低い声でつぶやいた。 「ときどき混乱するんです。あなたはおれのこと、好きなんだろうかって。ごめんなさい。あなたはいつも大事にしてくれる。でも、自信がもてなくて。おれなんかのこと、好きでいてくれるわけないって」 「そんなことないよ、エド」  肩をつかんだまま、ハイドが言った。 「そんなに謝らないでいいんだよ。きみはときどき、怯えた男の子みたいに卑屈になるな」  ウィルクスの肩が震える。ハイドは力を込めてつかんだ。震えは弱くなったが、まだ続いている。彼はパートナーに言った。 「非難してるんじゃないんだ。そんなふうに自分のこと、傷つけないでほしい。でもそれができないから、きみは今のきみなんだろうね。わかってるんだ。ぼくの態度や言葉が、きっときみのことを追い詰めている。ぼくもなぜかこうなってしまう。人並みに怒ったり、悲しんだりできない。きみの目から見たら、ぼくはきっと無関心に見えるだろう」  ウィルクスは答えなかった。ただ、喉からしゃっくりみたいな声が漏れた。ハイドは肩から手を離し、ウィルクスの後頭部を撫でた。短い髪の手触りや痩せた肩から、ハイドは幼い少年のそばにいるような気分になった。そう思うと、目に涙がこみあげた。 「ほんとうのことを言うよ、エド。きみがベルジュラックとしたことを聞いて、自分の心がどんなふうに動いたのか、よくわからなかった。怒ってはいないと思う。でもそれもわからない。ただ、きみが彼のところに行ってしまうのは嫌だ」  ごめんなさい、とウィルクスは言った。 「いいんだ」ハイドが言った。 「また、戻ってきてくれるのなら」 「おれ、淫乱だから、ごめんなさい」 「いいんだよ。エド。でもほんとうはきみのこと、首を絞めて閉じこめたかったよ」  しばらくのあいだ、ハイドは沈黙した。それから変わらない手つきで髪を撫でながら、つぶやいた。 「ごめん。怖がらせたね。きみにはいつも笑っていてほしい。いつも、幸せでいてほしいんだ」  ハイドの目に涙があふれた。だが、彼の口調は変わらなかった。落ち着いた穏やかな声で言った。 「ぼくがきみのこと、どうでもいいと思っているように見えたとしても、怒らなくても、泣かなくても、ほんとうはきみのことを大事にしたいと思っている。大好きだよ。いつもきみのことを思っているよ。ぼくは愚かだから、きみに尋ねられたら、いつも一人の人のことだけを考えていられるはずがないって答えると思う。でも、それはぼくがわかっていないからなんだ。そのことを覚えていてほしいんだ」  ウィルクスは両手で枕をつかんだ。指を立てて握りしめ、手の甲には血管が浮かんだ。彼は震えていたが、急に震えがやんだ。顔をわずかに上げると、へこんだ枕の中心は濡れていた。  ハイドはナイトテーブルに手を伸ばして、ティッシュペーパーの箱から紙を二枚引き抜いた。ウィルクスの真っ赤になった鼻に押し当てて、垂れた鼻水を拭いてやった。二枚目を目元に当てると、ウィルクスは受けとって涙を拭いた。それから体を起こしてベッドの上に座り、ハイドを見つめた。抱きしめる勇気が出ないまま見つめていたら、ハイドのほうが彼を抱き寄せた。ウィルクスは逞しい背中に腕をまわす。強く抱きしめ返されて、涙が静かに流れた。 「シド、おれ……今は、幸せです」  ハイドはうなずいて、青年の背中を抱いた。薄い皮膚を爪で引っ掻くと、ウィルクスはハイドの首のつけ根を軽く噛んだ。二重の噛み痕ができる。 「ぼくも、幸せだよ」ハイドは言った。 「きみと共にいるときは、いつも必ず幸せだ。そう言いたいけれど、冷静に考えればそんなことはあり得ない。きみもぼくも、相手の都合のいいように動く機械じゃない。生きているだけで、お互いを失望させたり、悲しませたりしてしまう。だから、幸せな瞬間があると夢を見ているみたいだ。いつも幸せだなんてありえないから、だから、きみと生きることがぼくの幸せだって、口ではつぶやいていたい」  そう言ったあと、ハイドはウィルクスの肩に顔を埋めたまま笑った。 「そうだな、ぼくはひねくれてるんだろうね」 「おれも、口ではつぶやいていたい。おまじないみたいに。ほんとは、もう救われてるんです」  どうかな、とハイドは思った。しかし口には出さなかった。  ときには、そういう奇跡もあるんだろうと思った。人が人に救われる、そう断言できる人間がこの世界にはいる。そう言えること、それ自体がハイドにとっては奇跡であり、彼の夢でもあった。 「おれを離さないで」  耳元で小さく聞こえる震えて上擦った声に、ハイドはうなずいた。  彼はウィルクスの体を抱きしめて、離さないよと言った。

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