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23.探偵と刑事と願う男・一

 朝が来ると、シドニー・C・ハイドは目覚めたパートナーに言った。 「午前中は仕事を休んで、いっしょに精神科に行かないか?」  エドワード・ウィルクスはベッドの中でしばらく身動きせず、黙ってハイドの顔を見上げていた。ハイドは年下のパートナーの頭を撫でる。ウィルクスとは違い、すでにシャワーを済ませてきれいに髭を剃っていた。コットンのセーターにベージュのチノパンツを履いて、ベッドにかがみこむ。  ウィルクスはゆっくりと体を起こすと、裸のままベッドの中に座りこんだ。 「精神科ですか?」  口に出して言うだけで、胸がどきどきして苦しくなる。ハイドはうなずいて、ベッドに腰を下ろした。ウィルクスの頭を撫でながら穏やかな口調で言う。 「きみの悩み、ドクターに話してみるのもいいかと思って。怖いか?」  ウィルクスは目を伏せて黙った。怖いかと問われると、怖かった。精神科どころか、ふだんだって病院にはめったに行ったりしない。それに、彼の父親は外科医だが、ウィルクスはこの父親に影響されて、精神科医には漠然とした不信感を抱いていた。  それでもウィルクスが視線を上げてパートナーを見つめると、ハイドは優しく微笑んだ。 「怖かったり、嫌だったら、むりをすることはないんだよ」  そう言って頭を撫でてもらう。それで、ウィルクスの肉体に巣食う恐怖の氷は溶けた。水となって体の外に流れだす。彼は力を抜いて首を横に振った。 「いいえ。大丈夫です。……病院、行きます」  うん、とハイドはうなずいた。 「知人の精神科医の先生、ドクター・バレットというんだが、いいドクターだと思うよ。予約をしてあるんだ。きみが嫌じゃなかったら、ぼくもいっしょに病院に行く。診察室の中にまでついてくるのが嫌だったら、待合室で待ってるから。……勝手なことをしてすまない」  ウィルクスは首を横に振った。 「いいえ。……むしろ、精神科にかかる踏ん切りがつきました」  そう言ったあと、彼はかすかに震えた。ハイドが痩せた肩を抱き寄せる。ウィルクスは素直にハイドの胸によりかかった。胸が幸福のぬくもりに満ちて、つかの間、性の渇望を忘れられた。ハイドはあやすような手つきでウィルクスの髪を撫でる。穏やかにささやいた。 「ドクター・バレットは気まぐれな人でね。優雅と言おうか、気ままと言おうか、もう半分は引退して、診る患者も減らしてるんだ。だから診察の依頼をねじ込ませてもらった」 「あなたの知り合いなんですか?」  だったら恥ずかしいなと思ってウィルクスが尋ねると、ハイドは笑って言った。 「亡くなった父が昔かかっていたんだ。だけど、親父はドクターのことを『おもしろい知人』としか思ってなかった気がするな。自分に問題があるなんて、生前一度も思ったことのない人だからね。……もしきみが嫌なら、きみが診察室で話したこと、ドクター・バレットに尋ねないからね。自殺の危険性がある場合には別だが」 「自殺なんてしませんよ」  ウィルクスはハイドの胸にもたれかかってそう言いながら、ふと思いだしていた。  この人は自殺未遂を起こしたことがあったな。  考えはじめると怖くてパニックになりそうだったので、ウィルクスはハイドを抱きしめた。大きな手と逞しい腕がウィルクスの背中にまわる。しっかり抱きしめられて、ウィルクスはパートナーの首筋に顔をうずめ、体をあずけた。  それから顔をあげて明るく言った。 「今朝はすごく気分がいい。まともな人間に戻れたみたいだ。今からシャワーして、髭を剃って、スーツに着替えます。ヤードに電話して、午前中は休みをもらって、あなたと病院に行きます」  うん、と言ってハイドは年下の男の頭を撫でた。ウィルクスが裸のままベッドから降りると、ハイドは彼に自分が使っているガウンを着せてやった。 ○  それから一時間を半ば過ぎた午前十時前、二人はハーレイ街にある診療所の待合室に並んで座っていた。  ウィルクスはきちんとスーツのジャケットを着て、通勤用のメッセンジャーバッグを背負ったままだ。彼は今朝、食欲がないと言ったが、ハイドに食べるように勧められて、車の中でコーヒーショップで買ったトマトとチーズのサンドウィッチを食べていた。食欲が出ず、流しこんだペットボトルの水を今も手に持っている。  待合室はこじんまりしていた。それに診療所自体もこじんまりしている。しかし、そのすべてに手入れが行き届き、経年の美しさが感じ取れた。木の手すりや診察室に続く扉、待合室のすぐ脇にある受付のカウンターは磨かれて、濡れて見える美しい焦げ茶色になっている。入り口を入ってすぐのところに置かれた三つの四角い布張りの椅子は、ふかふかしていた。壁紙は木々を描いた、茶色と緑のウィリアム・モリス風。受付前の椅子にはアイボリーの毛並みのテディ・ベアがちょこんと座っていた。  あきらかに緊張しているウィルクスの横顔を見て、ハイドはささやいた。 「今日もとてもハンサムだよ、エド」  そう言ってパートナーの手の甲を撫でる。 「ぼくは診察には付き添わないけれど、ここにずっといるからね。もし入ってきてほしかったら、そう言ってくれ」  ウィルクスは隣を振り向いてうなずいた。 「きみを怖がらせるものが、なにもなくなりますように」  ハイドはそう言ってウィルクスの額に口づけた。ウィルクスは急にむすっとした顔になる。ハイドは笑った。 「外でいちゃいちゃするのは恥ずかしいって、前言ってたな」 「……あなたが願ってくれたこと、とてもうれしかった」  ウィルクスは素早くハイドの頬に口づけた。それからはにかむように、少し笑った。  二人が体を離したとき、タイミングを見計らったかのように診察室の扉が開いた。 「ウィルクスさんかな?」  柔らかな低い声で言ったのは、きれいに禿げあがった頭と恰幅のいい体つきをした初老の男、ドクター・バレットだ。眼鏡をかけていない目は明るく、知的に輝いている。まるで年取ったマイクロフト・ホームズのようだ。ウィルクスは少し身を強張らせたが、ドクター・バレットはかすかに微笑みかけた。ウィルクスは腰をあげる。 「どうぞ」と言いながら、ドクターはちらりとハイドを見た。 「ハイドさん、お元気かな? あの小さかった男の子がこんなに大きくなるなんて、人生はふしぎだ」 「元気ですよ」ハイドは笑った。「ぼくのパートナーのこと、よろしくお願いします」  ドクターはうなずいてウィルクスをうながすように見た。ドクターの静かで落ち着いた目と、常識的なゆったりした物腰にウィルクスの緊張も少し緩む。彼はハイドのほうを振り返らず診察室に向かった。  診察室の扉が閉まると、ハイドは受付にいる看護師のミセス・ノーマンに向かって、「外で電話してきます」と言った。腰を上げて診療所を出て、道路に続く玄関の階段のところでパンツのポケットからスマートフォンをとり出す。  探偵はスコットランド・ヤード刑事部のブルーム警部に電話を掛けた。

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