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探偵と刑事と願う男・二

 診察が終わって待合室に戻ったウィルクスはいつもどおりしっかりした、凛々しい顔つきをしていた。ハイドは膝に広げた雑誌を椅子の上に置くと、老眼鏡を外し、腰を上げて彼を出迎えた。 「どうだった?」と尋ねると、ウィルクスは曖昧にうなずいた。ハイドが受付に行って料金を支払っているあいだ、ウィルクスは待合室の隅に佇んでいた。 「ありがとうございました、ドクター」  ハイドが診察室に向かって言うと扉が開き、ドクター・バレットが顔を覗かせた。 「気をつけてお帰り」  そう言ったあと、「持ってお行き」と言って、受付に置いてある小さなバスケットの中からキャンディーを二つ取って、ハイドに渡した。  車の中で、ウィルクスは言った。 「また、いつか……診察のとき、いっしょにいてください」それから、急いでつけ加える。「まだ、あなたにいっしょにいてもらう勇気が出ないけど。いつか」  もちろんだよ、と正面を見てハンドルを切りながらハイドが言った。ウィルクスはほっと息をついた。急に体から力が抜けた。彼はしばらく沈黙してから言った。 「ドクター・バレットは、同意してくれました。あなたのこと、大好きで、おれのことを大事にしてくれる人だって言ったら。あなたは伴侶に恵まれている、と言ってくれた。うれしかったんです」  そう、とハイドは言った。ウィルクスは前を向いたまま、膝に置いたバッグを撫でた。それから思い出を辿るように言う。 「先生が言ってました。一般的には、セックス依存は子どものころの愛情不足が原因になることがあると言われてるって。たしかに、おれはあんまり、そういうのがなかった。母親は影が薄いタイプの人で、いっつもなにかに怯えてた。おれが十五のときに亡くなりました。親父はものすごく厳しい人で、甘えることはできなかった。でも、それなら、治ってもいいはずだ。だって、あなたがこんなにも大事にしてくれるんだから」  きっと今とり戻しているんだよとハイドは思った。  ウィルクスは震えて、勇気をかき集めるように言った。 「おれ……治したいです。こんな自分はだめだと思うし、あなたを傷つけたくないから」 「ありがとう、エド」  ハイドがそう言うとウィルクスは隣を向いて、微笑んだ。  急に泣きだしそうになった。  ハンドルを切りながらハイドが言った。 「ブルーム警部に電話してみたよ。リージェント街で強盗殺人事件があったとき、ベルジュラックにアリバイはあったか、って」  ウィルクスは沈黙した。 「結果、アリバイはあった。そのころはホテルの自室にいたが、ちょうど事件の起きた十分後に、ボーイが彼にフランスから送られた郵便を手渡しに行っている」  ハイドは正面を見たまま続ける。 「ベルジュラックは白だ。一見ね。問題は、彼のアリバイを証明したのがボーイ一人であること。そしてときに、アリバイは金で買える。フランスから届いた郵便の中身は仕事で使う資料らしい。ベルジュラックによると、ある図書館に頼んでいたものだそうだ。封筒や送り状は始末した、と彼は言っている。図書館に連絡したら、確かに送ったことが確認された」 「アリバイを買う、なんてことがあり得ますか?」 「もしアリバイを買ったとしたら、ベルジュラックは金持ちなんだろうな。まっとうな新聞記者なら考えられないような」 「そもそもまっとうな新聞記者なら、アリバイを買ったりしませんよ。いくら本当はアリバイがなくて不安だったとしても、重要な容疑者としてマークされてるわけじゃないんだから」 「大事なことは、ベルジュラックはフランス人だということだ。エクス・エクスが犯行を犯したとき、当然フランスにいた。それに、リージェント街で事件が起こったときも、彼はここロンドンにいた」ハイドは言った。 「ブルーム警部は引き続きベルジュラックに気をつけておく、と言っていた。ただ、そこまで重要な人物だとは思っていない。……そうそう、今度の事件への協力で、パリ警視庁から刑事が来る。もうすぐヤードに着くみたいだよ」  ウィルクスは前を向いたまま黙っていた。ハイドはブレーキを踏んで車をヤードの前に横付けした。彼は隣を向いて穏やかに言った。 「ぼくはこれからブルーム警部と話がある。きみは、先に自分のオフィスに行ってるか?」 「いいえ。いっしょに行きましょう」  わかった、とハイドが言うと、ウィルクスは車から外へ出た。ハイドは駐車のために近くのパーキングへ車を走らせる。ウィルクスはしばらく、ヤードの玄関前でぼんやりしていた。  スマートフォンに着信があった。  彼が見ると、記憶にある番号からだった。ジャン・ベルジュラック。ウィルクスはスマートフォンを握ったまま、しばらく固まっていた。  電話に出ると、落ち着いた声がこう言った。 「ウィルクスさんですか? ベルジュラックです」  刑事は黙っていた。声はさらに呼びかける。 「ウィルクスさん? 大丈夫ですか?」  そんなわけないだろ。ウィルクスは叫びたくなった。おまえのせいで、おまえのせいで、おまえのせいで。手が震える。だが結局、電話に出た彼の声は落ち着いていた。 「いったい、どうしたんですか?」 「あの、あなたがどうしているか知りたくて」ベルジュラックは妙に焦っている口調になった。「ぼくのことで、苦しめてるんじゃないかと……」 「……ええ」  思わず正直な言葉がウィルクスの口から出る。ベルジュラックは電話の向こうで息をついた。刑事は言った。 「もう、おれにかまわないでください」 「すみません。でも、あなたが好きだから」  ウィルクスは黙るが、ややあって言った。 「おれは好きじゃない。おれとあの人のこと、もう放っておいてください」 「わかりました。あなたはあのパブの夜、ミスター・ハイドを守りたいと言った。そしてその代わりに、ぼくと来てくれましたね」  スマートフォンを持つウィルクスの手が震える。フラッシュバックに襲われたようにあの夜のことを思いだした。  たしかに気持ちよかった。  ウィルクスは我に返った。吐きそうに胃がむかつく。電話の向こうはなにか言っていた。 「ただ、わかってください、ウィルクスさん」ベルジュラックは言った。「ぼくはあなたが好きなんです。もしぼくにできることがあれば、いつでも言ってください。あなたを助けたいから」  ウィルクスは口の中を噛んだ。「できること」の中身が一つしか思いつかない。性的に飢えているとき、あなたの欲望を満たしてあげますよ。言外にその言葉を聞いて、ウィルクスは自分の頬を平手で強く叩いた。 「ベルジュラックさん、おれ……は……あなたに頼ることなんか、なにもありません。もうかまわないでください」  そう言ってウィルクスは電話を切った。さっきまでの平穏が体から流れ出す。その途端、彼は地面にしゃがみこみそうになった。  肩に手が触れて、ウィルクスはびくっとする。振り向くとハイドがいた。 「エド?」  驚いた顔をするハイドの胸にウィルクスは抱きついた。ハイドは目を丸くしていたが、すぐにパートナーの体を抱きしめた。そばを通る警官たちや、ヤードの職員たちが好奇の目で見て通り過ぎていく。時が止まったように、二人はしばらくじっとしていた。  ハイドの体を抱きしめたまま、ウィルクスは低い声で言った。 「ベルジュラックから電話がありました」 「なんて?」 「おれがどうしてるか知りたいって。苦しめてるんじゃないかって。おれのこと、好きだからなにかあれば助けたいって」 「それだけ聞くと、まるで愛の言葉みたいだ」  ハイドのつぶやきにウィルクスは一度大きく震えた。ハイドは彼の背中を撫でる。力づけるように抱き寄せて、「電話に出たんだな」と言った。 「頑張ったね。もう大丈夫だよ」  ウィルクスの目から涙が落ちた。 「オフィスに行けそうか? そばにいようか?」 「大丈夫です」  ウィルクスは顔を上げて笑った。 「もう大丈夫です」  ハイドはうなずいて、ウィルクスの肩を軽く叩いた。 「きみは頑張り屋だね。怖いこと、なにもなくなりますように」  ウィルクスはうなずいた。夫の手をぎゅっと握る。握り返してくる手に包まれると、彼はまるで自分が誇りを取り戻した気分になった。  怖いことがなにもなくなりますように。その願いの言葉に支えられ、ウィルクスは自分のオフィスに向かった。別れるとき、手を挙げて微笑みかけてくる彼の姿を、ハイドは黙って見送る。  もし、きみが苦しみ続けるなら、彼を始末するよ。  探偵はそのときそう思った。

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