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25.探偵と刑事と灯り
夜九時すぎに、パリからイヴ・ド・ユベールがハイドに電話を掛けてきた。ユベールはハイドの大学時代、一年先輩だったフランス人で、今は作家をしている。
彼は書斎の椅子にくつろいで座り、スマートフォンを耳に押し当てて小さなノートを開いていた。そばにブランデーが入ったグラスを置いている。
「<アルバ誌>つながりの出版社に、知り合いの編集者が転職したって言ったよな、シド? その編集者から話を聞いたよ。だけどな、バルドー事件は当時有名になった事件だが、依然迷宮入りだとさ」
「だが、まだ捜査が続いてるんじゃないか?」
ハイドが仕事机の前の椅子に座ったまま尋ねると、電話の向こうであくびを噛み殺す声が聞こえた。
「イヴ? 聞いてるか?」
ハイドは困った顔をした。そのとき、気配を感じて顔を上げると、ウィルクスが近寄ってくるところだった。目が合う。ハイドは手元のノートパソコンに視線を向けた。
「イヴ? また酔ってるんじゃないだろうな」
「酔うに決まってるだろ。モデルやってる若くて可愛い子を逃しちまったんだよ」
「それで?」ハイドはいつものことと流した。椅子の上にかがんでくるウィルクスの顎を指で触る。
「バルドー事件については?」
「八年前に起こった惨たらしい殺人事件だそうだな」老眼鏡をかけてユベールは目を細め、ノートを覗きこんだ。
「犯人はバルドー家の一家四人を惨殺。ペットの犬も殺された。動機は今も不明。当時二十八歳だったマクシム・デリダが容疑者の最有力候補だった。バルドー家の娘、クラリスと顔見知りで、デリダは事件が起こった夜、勤めを休んでる」
ユベールはブランデーを一口飲んだ。
ハイドはちらとウィルクスのほうを見て、彼の唇を人差し指でなぞる。乾燥した唇をなぞっていると、ウィルクスが指にキスしてきた。彼が口を開けると、ハイドはほとんど無意識に指を咥えさせた。ウィルクスが吸いついてくる。
ユベールはふたたび話しはじめた。
「フランスを揺るがす大事件だったそうだな。おれはそのころ、アテネで暮らしてたから知らなかったよ。そうそう、どうやらきみが一枚噛んでるらしいな、シド」
指にウィルクスの舌がねっとりと絡みつく。舌はひくひくと動いていた。ハイドは指をばらばらに動かして、ウィルクスの口の中を犯した。中指の先で口蓋を撫でると、彼はぴくっと反応する。
ユベールの声が驚いたかのように響いた。
「マクシム・デリダの無実を証明したそうじゃないか?」
ハイドはウィルクスの口の中を荒らし、吸いついてくる舌の中で身動きした。年下の男は目を細めてちゅぷちゅぷ音を立てながら、無心に指をしゃぶっている。まるでハイドの男根を咥えているかのように。
ハイドはスマートフォンを握ってささやいた。
「そう、ぼくが証明したんだ」
「そのあと結局、容疑者は絞りこめなかった。デリダは今もフランスのどこかで働いてる。さすがに、当時の勤め先にはいられなかったみたいだが。で、結局、あの事件は迷宮入りだ」
「今でも? 警察に動きは?」
「今でも捜査はしてると思うよ。だが、その進展が新聞やニュースになったりはしていない。知り合いの編集者も、そんなことがありましたね、っていう温度感だぞ」
「わかったよ」
ハイドはウィルクスの舌を指先で擦った。
「なにか進展があれば教えてくれ」
「了解。ところで」作家はまじめな顔で言った。「ウィルクスさんは元気か?」
ハイドはちらっとパートナーを見る。とろけた表情とうっとりした目で指に貪りつくウィルクスは、まるで甘えたがりの仔犬みたいだった。そして仔犬よりももっと本能的で淫らだった。ハイドはかすかに微笑む。
「ああ、元気だよ」
「きみはいろいろ罪作りなことをしてウィルクスさんを泣かせるからな。気をつけろよ」
わかってるよ、と答えて、ハイドは通話を切った。
横を向くとウィルクスがいる。指を口から引き抜くと、唾液でべとべとになっている。口の端から垂れた涎れをぬぐってやり、ハイドは椅子に座ったままささやいた。
「おいで」
ウィルクスはぷるっと震えて、ハイドに抱きついてくる。椅子に座るハイドの膝の上にそっと腰を下ろした。
ハイドが求めてくると、ウィルクスは受け入れた。黙って長いキスをして、大きく厚みのある手がウィルクスの着ているセーターの中にすべりこんでくる。
ウィルクスは黙ってハイドの首に抱きついた。薄い胸と平らな腹を撫でながら、エドは体温が高いんだな、とハイドは思った。
急に激しくウィルクスのことが欲しくなった。
○
そのころ、ジャン・ベルジュラックとヴィクトル・ラクロワはロンドンのパブに隣あって座っていた。ベルジュラックとウィルクスがいっしょに飲んだパブだ。奇しくもあのときと同じ席だった。
「ミスター・ハイドは聡明で優しい人だな」
ラクロワがビールを飲みながら言うと、ベルジュラックも同意した。
「そう、謎めいた人さ」記者はそう言ってビールを一口飲む。
「ヤードの刑事と結婚したんだ」
「へえ、婦警と?」
「いや、男の刑事だよ」
ラクロワはしばらく沈黙した。ビールを飲んで、左手の薬指にはめた指輪を触る。ぽつりと呟いた。
「そうなのか。おれは間違っているんだろう。でもさ……弟がゲイだから、そういう話を聞くとどきっとするんだ。同性愛者は好きになれない」
むりをすることはないよ、とベルジュラックは言った。
「感情には、理性にはまったく知られぬ感情の理屈があるってね」
「そうだな。ありがとう、ジャン」それからラクロワは少し困ったように笑った。
「みんなの幸せを祈らなきゃいけないって、わかってるんだけどな」
ベルジュラックは微笑んだ。つまみのサラミをつついて、言った。
「ミスター・ハイドのパートナー、どことなくきみに似てる」
「え? どこが?」
「美男」
「じゃあ、おれとは似てないよ」
「まじめで一途なところ。まじめすぎて時折自分を責めてしまうところ。忠実なところ。暗闇の中の灯りのように、輝いているところ」
ふうんと言って、ラクロワは笑った。
ベルジュラックが急に横を向いた。
「ほんとにパリ警視庁の刑事、辞めるのか?」
ラクロワはしばらく黙っていたが、うなずいた。
「ああ。妻の実家の近くに引っ越そうと思う。田舎のほうが彼女の性に合ってるんだ」
そうか、とベルジュラックが言った。
「きみは優秀な刑事だ。こっちにいたら、出世のチャンスをものにできるかもしれないのに」
「でも、妻のことをほったらかしにしてしまうから。……今回のことで、きみに久しぶりに会えてうれしかったよ。田舎に引っ越したら、なかなか会えなくなるからな。でもさ」ラクロワは笑った。
「落ち着いたら招待するから、遊びに来てくれよ」
ああ、行くよとベルジュラックは答えた。しかしそんな気はなかった。
二人はしばらく沈黙した。
だしぬけにベルジュラックが言った。
「好きな人ができた」
「そうか」
ラクロワはにこにこ笑って、うれしそうだった。ベルジュラックはかぶさるように言った。
「結婚は考えていないけど」
ラクロワの灰色の瞳が彼を見つめた。
「結婚だけがすべての形じゃないさ。きみの幸せを祈ってるよ」
ありがとう、とベルジュラックは笑った。黒い目がさらに黒さを増す。
きみはみんなの幸せを祈る人間だからな。そう言うと、ラクロワはまばたきした。彼の目に、友人の黒い目は眩しく輝いて見えた。
○
その夜、ハイドはベッドで丸くなっているウィルクスを眺めながら、ナイトテーブルの上に置かれた彼のスマートフォンに手を伸ばした。電源が落とされていたので起動させる。
ラクロワと別れてホテルに帰る道を歩いているとき、ベルジュラックのスマートフォンが振動した。番号を見ると、ウィルクスからの着信だった。ベルジュラックは電話に出た。低く落ち着いた声がこう言った。
「ミスター・ベルジュラックですか?」
ベルジュラックは唇にかすかな笑みを浮かべた。
「ええ。ミスター・ハイドですか?」
そうです、と電話の男は答えた。ベルジュラックはひと気のない道を通り過ぎる車の流れを見ていた。
「ウィルクスさんは?」
「眠っていますよ」
ハイドはそう言って、パートナーの顔を見下ろした。ランプの明かりでかすかに照らされて、とても幼く見えた。毛布にくるまって丸くなっている。喉仏の下に、ハイドが強く噛んだ痕が残っていた。きつく噛みすぎて、エドはむせていたっけ。ハイドは思いだす。ウィルクスの髪を指で梳きながら言った。
「もう彼にはかまわないでください」
「嫌だと言ったら?」
「対決になる」
「あなたは格闘技をやっているとウィルクスさんに聞きました。なんだったかな。そう、サバットだ。それでぼくを打ちのめすつもりですか?」
ハイドは答えなかった。ただウィルクスの髪を撫で続けた。彼はかすかに眉を寄せて「ん……」と言ったが、すぐにまた安心しきった寝顔に戻る。
ハイドが言った。
「ミスター・ベルジュラック、もう彼に手を出さないでください」
「ウィルクスさんがぼくを必要としていても?」
「肉体的には、そういうときもあるかもしれない。でも、誰でもいいのなら、きみでなくてもいい。彼はぼくが面倒をみます」
「バルドー事件では……」
「その事件のことは、また話し合いましょう。待っていますよ、ミスター・ベルジュラック」
ハイドは通話を切った。
眠るウィルクスの額にキスして、黙って隣に横になった。
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