17 / 201

第17話

 水曜日の午前10時。  案の定、唐煜瑾(とう・いくきん)は兄、煜瓔(いくえい)に付き添われて、静安寺地区のビジネス街にある、オフィスビル内の、包文維(ほう・ぶんい)ドクターのクリニックに現れた。  淡いミントグリーンを帯びたマオカラーのジャケットは、相変わらず最上級のシルクで作られている。唐家の深窓の王子様である、煜瑾が着るには相応しい逸品だろう。しかし、縁取りの鮮やかな緑や、胸元の草花の刺繍は見事だが、色白の煜瑾には少し顔色を悪く見せるようで、文維は残念に思った。  文維の顔を見た煜瑾は、緊張した様子だったが、それでも薄く微笑んだ。 (いつ見ても、キレイな子だなあ)  こちらもいつも通りの感想を抱き、文維は煜瑾を見つめた。  気品に溢れ、端整な顔立ちは、さすがに兄弟だけあって良く似ている。  だが、自信に満ち、高貴なものとしての威厳さえ感じる兄の煜瓔に比べ、煜瑾はどこか不安そうで頼りげない。そう言うところが、あの夜のような下卑た男たちに隙を与えてしまうのかもしれない。 「ようこそ、煜瑾。今日は初回ですから、リラックスして下さいね」  そう言って出迎えた文維は煜瑾の手を取って、待合室の落ち着いた花柄のソファに座らせた。 「簡単な問診票にご記入していただきます」  そう言って張女史が用紙を差し出すと、それを当然のように兄・煜瓔が受け取った。 「身分証と、医療保険の番号は私が記入しておこう」  そう言って、1本5000元(約8万5千円)もするボールペンを、高級なカシミアウールのスーツジャケットの胸ポケットから取り出して、煜瓔は弟の問診票に記入しようとした。 「いえ!」  それを動じた様子も見せずに、手早く取り上げた張女史は、ニッコリと微笑み、丁重に断わった。 「カウンセリングの一環ですので、ご本人の自筆以外はお断りしております」  そう言って張女史は、煜瑾に、近所で買った5元(約85円)のボールペンと共に、兄から取り上げた問診票を手渡した。 「では、こちらの待合室は、いつ次のご相談者が来られるか分かりませんので、ご相談者以外はお引き取り下さい」  丁寧というよりは、どちらかと言えば慇懃無礼な態度で、張女史は唐煜瓔に迫った。 「しかし…」  不服そうな兄に対して、煜瑾は従順な、それでいてハッキリとした口調で言った。 「お兄様、私のことならご心配はいりません。帰りも、迎えは無用です。1人で帰れますから」 「煜瑾…しかし…」  納得のいかない顔で、味方を求めるように煜瓔は文維の方を見た。 「もし、よろしければ、煜瑾のカウンセリングの後は昼休憩になりますので、昼食を兼ねて、私がお送りしますよ」  それは煜瓔の求める答えでは無かったが、それでも煜瑾をカウンセリングの後で1人にすることを思えばマシな選択だと思った煜瓔は、渋々それを受け入れることにした。 「いいだろう。煜瑾も文維先生と昼食をお相伴して来なさい。私はオフィスで待っているから、必ず午後には顔を見せるのだよ」 「はい、お兄様」  まさに後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながらクリニックを後にする唐煜瓔を見送って、残った3人は、揃ってホーッと大げさな溜息をついたのだった。

ともだちにシェアしよう!