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第37話

 今週も、煜瑾(いくきん)は、最近気に入っているレストランの、フランス人シェフが焼いたクロワッサンを持って、包文維(ほう・ぶんい)のクリニックがあるビルへと向かっていた。  前日に注文をして、焼き上がるのをその場で待って買って来たクロワッサンだ。バターの香りがまだ鼻をくすぐる。  時間より、少し早めにクリニックに着いた煜瑾だったが、迷わずドアを開いた。そこは明るい待合室だが、出口は別にあり、他の相談者とかち合う心配がないからだ。 「こんにちは…」  ここへ(かよ)うようになって、すっかり明るさを取り戻したように見えた煜瑾だったが、目の前の光景に、驚きすぎて、思わずクロワッサンを取り落としてしまった。 「(とう)のお坊ちゃん!ち、違いますよ、コレは誤解ですよ!」  いかにもセレブの着飾った女性が、文維の胸にウットリと身を任せている姿を見て、完全にフリーズしている唐煜瑾へ、慌てて医療秘書の(ちょう)女史が叫んだ。  彼女は急いでカウンターから出て、困惑している文維からお金持ちの女性を引き離した。 「さわるな~。あ~た~しは~酔ってなんてないの~」  フラフラの女性が突然大声で喚き出し、さらに煜瑾は驚いた。 「ほら、(よう)の奥さん、予約は今日じゃなくて明日と申し上げているじゃないですか」 「うそ~?そうなの~?そんなことないでしょ~?」  昼前から、こんなにベロベロに寄った女性を見るのは、これが初めてだった煜瑾は、理解不能といった様子で動けない。  ようやく酔っ払いを引き剥がしてもらうことができた文維は、静かに煜瑾に近寄り、足元のクロワッサンを拾い上げた。幸いなことに、包みは破れた様子も無く、美味しそうな熱々のクロワッサンが床に零れ落ちることは無かった。 「ようこそ、煜瑾。お待ちしていましたよ。さあ、あちらへ」  右手にクロワッサンを持ち、左手で煜瑾の右手を取ってエスコートしようとした文維に、またも酔っ払いが縋りついた。ドキッとした煜瑾は思わず身を竦ませ、文維からも手を放してしまった。 「ちょっと~、なんかいい匂いするじゃない~?ね~、コレな~に~?」  立っていることも、やっとなほど飲んで、どうやってここまで来たのか、煜瑾には不思議でならない。 「ほら~、ダメですって」  なかなかの腕力を誇る張女史が、彼女を後ろから羽交い絞めにすると、そのまま引きずるようにして2人はドアから出て行った。 「お騒がせしましたね、煜瑾」  なんとも言えない顔で硬直している煜瑾に、文維は柔和に声を掛けた。  だが煜瑾の様子がおかしい。表情は無く、顔色は悪く、まるで魂が抜けたようにぼんやりとそこに立っている。 「美味しそうですね、煜瑾」  文維は慌てず、そっとクロワッサンの包みを煜瑾の顔の前に持って来た。

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