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第38話

「ほら、まだ温かくていい匂いだ…」  人の嗅覚は、思っている以上に敏感で、記憶や意識と密接に繋がっている。  お気に入りのバターたっぷりのクロワッサンの香ばしい匂いは、煜瑾(いくきん)の幸せな意識と繋がっているはずだった。 「あ、あの…私…」  文維(ぶんい)が思った通りに、煜瑾はハッとして文維の目をしっかりと見た。 「とても美味しそうなクロワッサンですね。わざわざ買ってきてくれたのですか?」  大好きな香りと、目の前にある嬉しそうな文維の笑顔で、ようやく煜瑾は我に返った。 「はい。あの…、これは、さっき焼き上がったばかりで…。焼き上がるのをお店で待って買って来たのです」  少し恥ずかしそうに、それでもどこか自慢げに煜瑾が告げると、文維は優しく目を細め、診察室の方へ誘導した。 「さっきは驚かせて、申し訳ありません。アルコール依存の患者さんなのですが、予約した日時を間違えて来られて…」  いつものように文維は煜瑾をカウチソファに座らせ、自分は隅のテーブルでティータイムの用意をする。 「クロワッサンだから、たまには紅茶ではなく、カフェ・オ・レにしましょうか?」  文維が振り返って煜瑾に訊くと、まだ動揺しているのか、少し俯き加減でモジモジしていた。  紅茶の仕度しかしていなかった文維は、隣の待合室に内線電話を掛けた。なんとかあの酔った姚夫人は帰ったようで、電話にはすぐに張女史が出た。文維は彼女に、このオフィスビルの1階にあるカフェに、カフェ・オ・レを注文するように頼んだ、ビルの中であれば、このカフェは配達もしてくれるのだ。  注文を済ませ、煜瑾が用意した美味しそうなクロワッサンをデザートトレイに並べ、文維は自分の定位置である安楽椅子の前まで戻った。 「ほら、まだ温かい。本当に美味しそうですね」  文維が声を掛けると、煜瑾は、その形の良い顎を少し持ち上げるようにして、文維の顔を見た。 「訊いても…いいですか?」  おずおずと煜瑾が質問を向けるが、内容に文維は内容に心当たりがあった。 「何でしょう。私は、煜瑾に隠しごとなんてしませんよ?」  専属のカウンセラーとして、決して信頼を裏切ることの無いよう、文維は常に細心の注意を払っている。 「先ほどのようなことは…よくあるのですか?」 「先ほどのようなこと?」  薄々は分かっていたが、文維はわざと煜瑾の言葉を繰り返した。 「先ほどのように…、つまり、女性が…文維に…」 「私にしがみ付いたり、抱き付いたりするということですか?」  何でもないことのように、文維がサラリと言うと、煜瑾の方が動転してしまう。 「あ、あの、よくあるということですか?」  心配そうな煜瑾が、可愛らしくてたまらない。  たった1年しか違わない年齢なのに、唐家の深窓の王子と呼ばれ、大切な宝物として兄に守られた、世間知らずの、穢れを知らない美しい「少年」だ。  その彼の関心が、今、自分にあると思うと、文維は楽しくてならない。  だが、彼のカウンセラーとして、それを感じさせてはならないと文維は気を引き締めた。。

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