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第45話

「さあ、お待たせしました。いつもの物ですよ、どうぞ」  そう言って、文維(ぶんい)がカップの中のホットミルクを手渡すと、ジミーは急に大人しくなった。 「ありがとう…」 すでに涙ぐんでさえいる。 「さあ、ジミー、今日は何か話したいことがあって来たんじゃないかな」  まるで催眠術でも書けるような、単調な口調で文維が話し掛けると、ジミーはカウチに横になり、静かに遠くを見詰めながら、ゆっくり話し始めた。 「僕は、本当はこんな人間じゃない。こんな風になるはずじゃなかったんだ…」  文維は、ジミーの気が済むまで隣に寄り添い、黙って話を聞いていた。 「僕は、ママの期待に応えられたのに…」  泣きながら、ジミーは母親との幸せな思い出に繋がる、カップの中のほんの少し甘いホットミルクを、後悔と怨嗟とともにゆっくりと飲んだ。  それは、彼の自殺した母親が、生前作ってくれた味と似ていると、言っていたものだった。  ジミー・ヤオの予約時間が終わった。  一通り泣き言を言い、ホットミルクを飲み、少し眠って帰る。それがジミーの、このクリニックの利用方法だった。だが、それが間違っているわけでは無いことを、文維は充分承知している。  ジミーの傷もまた、そう簡単に癒せるものではないのだ。  ジミー・ヤオが帰ったことを確認して、(ちょう)女史が診察室に入って来た。 「この後の、マギー・アンから、予約キャンセルの連絡がありました」  カウンセリングに、キャンセルは付き物だ。  人間は、自分と向き合う恐怖に勝てないからこそ、何かに逃げてしまう。それが人間なのだから、「逃避」とは当たり前のことだ。誰を責める必要もない。 「なら、今日はこれで終わりですか…」  そう言って、文維は腕時計を見た。  従弟の羽小敏(う・しょうびん)との夕食の約束の時間までかなりあるが、まあ、いいだろう。 「では、張さん、今日はこれでお帰りいただいてもいいですよ」 「あら、先生。私は定時の終了時間まであと1時間半あります。せめてあと1時間はカルテの整理をして帰ります」  柔軟性があり、文維には付き合いやすい張女史だが、こういう真面目な部分でも助けられている。 「分かりました。ではあと1時間。でもちゃんと定時の時間分はお支払いします」 「ありがとうございます。先生はお帰りになりますよね」  なぜか断定されて、文維は戸惑うが、ここは逆らわないことにする。  クリニックの戸締りを張女史に任せ、文維は時間の潰し方をいろいろ考えながら、車が停めてある地下駐車場へ向かった。

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