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第54話

 文維(ぶんい)の手から、ホットミルクが入ったマグカップを両手で受け取り、煜瑾(いくきん)はそのまま飲もうともせずに俯いていた。 「元気を出して下さい、煜瑾。君が悲しい顔をしているのを、見ているのはツラいですから」  温柔な文維の態度に、煜瑾は幸せな心地になるが、すぐに「過去」のことを思い出し、苦しくなる。 「私の煜瑾が悲しむ姿を見ていられません」 「文維…『私の煜瑾』と…?」  泣き濡れて憔悴してもなお、煜瑾の上品な美貌はそのままで、ただ文維が愛でる青みを帯びた目が赤くなっているのが切ない。 「いけませんか?私が煜瑾を求めては?」  決して冗談とも思えない様子で、文維は煜瑾を見つめ、自分のマグカップをガラステーブルに置いた。 「包文維(ほう・ぶんい)には、唐煜瑾(とう・いくきん)のような高貴な人を、愛する資格は無いと思いますか?」 「違います…」  首を横に振って、必死に否定しながら、煜瑾はまた泣きそうになる。それでも涙がこぼれて来ないのは、先ほど泣きすぎて涙も枯れてしまったからだろうか。 「違います。私の方こそ…。あなたに愛される資格なんて」  ガックリと力を落とし、絶望したように煜瑾は呟く。 「なぜです?知らない男に体を弄ばれたからですか」 「!」  文維の容赦のない一言に、煜瑾は愕然とした。 「そんなこと、言わないで下さい!」  愛する人から、もっとも聞きたくはなかった言葉に、煜瑾は心を切り裂かれる思いがした。 「煜瑾は、過去、酒に酔った下劣な見知らぬ男に、いわれのない乱暴をされましたね」 「やめて!やめて下さい!」  煜瑾の中で、あの時、閉じ込められた薄暗い部屋の湿気や、自分に近付く男の酒臭い息や、汚らしい手が伸びて来る恐怖や、体を引き裂かれる痛みなど、あらゆる不快感が湧き上がってくる。  どうして自分があんな目に遭うのか、それが分からず混乱した。  これまで兄に守られ、暖かで、安全で、幸せな場所しか知らなかった煜瑾が、生れて初めて知った、本当の恐怖と絶望だった。  震える煜瑾を抱き寄せ、文維はその手からマグカップを取り上げた。 「落ち着いて下さい、煜瑾。私は、煜瑾の過去を知っています。知っていて、なお、あなたが好きなのです」  文維の言葉に、煜瑾はハッとした。  これまで、誰も知らなかった煜瑾1人の苦痛を、文維はすでに共有しているのだ。それでも、煜瑾のことを嫌悪したり、軽蔑したりしないというのだろうか。  煜瑾は、恐る恐る文維の顔を見上げた。そこには相変わらず理知的で、怜悧な顔立ちの文維が、包み込むような柔和な笑顔を向けている。 「文維…」  信じてもいいのだろうか。もう1人きりで思い悩んだり、苦しんだりすること無く、愛する人と、自分の痛みを分かち合ってもいいのだろうか。煜瑾の心は揺れていた。 「他の誰も知らない煜瑾のことを、私はたくさん知っています。煜瑾が心に負った傷さえ、私は受け入れ、一緒に乗り越えたいと思っているのです」 「文維…」  恐怖と苦痛に凝り固まった自分の中の一部が、少しずつ溶けて行くのを、煜瑾は感じていた。それはじんわりと温かい感覚で、文維にしか与えられない何かだと、煜瑾は確信した。

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