75 / 201

第75話

 煜瑾(いくきん)たちが出掛けた後、しばらくは茫然としていた申玄紀(しん・げんき)だった。  が、北京に出張中の煜瑾の兄、唐煜瓔(とう・いくえい)に連絡を済ませ、煜瑾が食べ残した朝食の後片付けを残念そうに済ませた、唐家の有能な(ぼう)執事に体よく追い出された。  素肌にジャージを着た上に、薄手のダウンコートを羽織っているだけだが、基礎代謝が高いせいか寒さは感じない。  しかも、羽小敏に、軽蔑され、嫌われたという悲しさが体感も鈍らせているようだ。  煜瑾のレジデンスを出て、そのまま駐車場に停めた愛車のBMWに乗って帰宅すれば、ますます外気に触れることは無いので寒くはないはずだった。  しかし…。  急に玄紀の内側から、猛烈な熱が高まって来た。 (煜瑾が、あんな勝手なことを言い出したり、小敏が私を(ないがし)ろにしたりするのは、何もかも、包文維が悪いに違いない!煜瑾はイイ子だし、小敏が悪いなんてことは無いのだから、悪いのは文維しかしない!)  完全に破綻した論理だが、羽小敏が絡むと、玄紀には理性が働かないのだ。 (留学する前に別れたとか言っているクセに、今でも私に黙って小敏に会ったり、最近は、煜瑾にまで近付いたりして…)  玄紀は沸々と湧き上がる文維への怒りから、駐車場に向かわず、そのまま公園の向こうにある文維のクリニックが入るビルに、歩いて向かった。  何も知らない包文維は、朝からもう酒に酔い、泣きわめく(よう)夫人の愚痴を黙って聞いていた。 「私だって、もう飲まないって決めたのよ!それなのに、夫ったら…、また若い女と一緒にどこかへ行ってしまって…。朝まで帰って来なかったの。分かる?私がどんなに惨めな気持ちになったか…。それなのに夫は私と離婚する気はないのよ…。私の実家の財産が目的なの。酷いわ…、私なんて誰にも愛してもらえないのよ」  木曜の午前中に包文維医師のクリニックきて、言いたいことを言い、号泣し、最後に断酒クリニックへの紹介状を手にして帰るのが、この姚夫人のルーティーンだ。  そして、断酒クリニックの紹介状は使われたことは無い。それは文維も重々承知しているが、患者の期待には応えざるを得ないのだ。 「姚夫人。(てい)社長がお帰りにならないのは、苦しんでいる貴女を見るのがお辛いからかもしれません。貴女を愛しているからこそ、妻の苦しんでいる姿を見るに忍びないのではありませんか?」  そうでないことは、鄭社長から直接聞いている包文維だが、妻の話し相手として十分な報酬を支払ってくれる社長の期待にもまた、文維は応えねばならないのだ。 「そう?そう包先生も、そう思われて?」 「私は、鄭社長ではありませんから、なんとも申せませんが、たまにはお2人でゆっくりお食事でもしながら、お話をされてみてはいかがでしょう?そのために、美容院へ行って、ネイルサロンにも寄って、新しいドレスもお買いになっては?」  取り敢えず、今日はアルコールへの依存を、買い物への依存に転嫁させる文維だった。  それでも、姚夫人の機嫌は良くなり、夫人にアルコールさえ入っていなければ鄭社長の機嫌も良くなるのだった。

ともだちにシェアしよう!