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第79話

 文維(ぶんい)は急に声を落とし、静かに低い声でゆっくりと問いかける。そのトーンが、まるで催眠術のように玄紀(げんき)の思考を鈍らせる。 「さあ、申玄紀、正直に考えてごらんなさい」 「な、何を?」  自分の全てが、この包文維に暴かれるような気がして、玄紀は不安になる。 「あの、美しい唐煜瑾(とう・いくきん)を、女性のように抱きたいと思っていませんか?」 「な、無い!絶対に無い!」  反射的に、玄紀は答えていた。  美しい幼馴染を、そう言う目で見る人間が少なからずいることは、玄紀ですら理解している。  しかし、玄紀にとって煜瑾は、物心ついた時から傍にいる、本当の家族と同じで、その煜瑾に(やま)しい感情を抱くことは、近親相姦にちかい禁忌感と違和感を覚えるのだ。  傷付けたくない、守りたいと思うことはあっても、その一線を越える感情は抱けない玄紀だった。  それは、正直なところ、聞くまでもなく文維にも分かっていたことだ。だが、こういう誘導をすることで、玄紀の中で唐煜瑾と羽小敏の「違い」が認識できることを期待していた。  申玄紀は、羽小敏の関心を引きたい…。  それは小敏を愛し、小敏をその腕に抱きたいという欲望の一部なのだ。なのに、玄紀はそれを認められない。  自分から選ぶことをすればいいのに、なぜか小敏に自分を選んで欲しいと、消極的に望んでいるだけだ。 (唐煜瑾といい、申玄紀といい、名門のお坊ちゃまというのは、恋愛においてさえ「貪欲」ということを知らない…)  文維はそんな感想を抱いた。 「そうですか。でも、私は違います。私は、煜瑾が欲しくてなりません…」 「ぶ、文維?」  唐突に文維は熱い吐息を落とし、濃艶な声で玄紀の耳元で囁いた。 「週に一度、患者として会っているというのに、時々、煜瑾のことを夢に見ます。甘い声や切ない眼差しで、私を求めて来る可憐な仕草が忘れられないのです」 「ちょ、ちょっと…文維…」  その生々しさに、玄紀も焦りを感じてしまう。  こんな風に文維が、男としてここまで煜瑾を欲しているとは、玄紀も実感していなかったことだ。  そして、それは小敏を想う自分に通じると気付いてしまう。  それを知ってか知らずか、文維は一方的に先を続けた。 「羽小敏の時も、それ以降のどんな相手に対しても、こんな風な気持ちにはなれなかった…。私にとって、唐煜瑾は特別な相手なのです」 「…そ、そう…なんだ…」  小敏の名前が出たことで、玄紀はまたも動揺する。  小敏の初めての相手は、この文維だと、本人から聞かされている。  お互いに愛し合って、求め合って、与え合ったはずなのに、煜瑾に対してそれ以上の気持ちを抱いているというのが、玄紀にはまだ体験としては理解できていない。  煜瑾ほどには、文維は小敏を愛していないのに、抱いたということなのだろうか。それでは小敏が可哀想だ。  小敏は文維に夢中だったのに、文維はそうでもなかったということになる。その上、留学を理由に棄てられたのだとしたら、小敏が今のように変わってしまっても仕方がないと、玄紀は思ってしまうのだ。 小敏は悪くない。 悪いのは、文維なのだ、と。  だが、一方でそうではないことも、この歳になれば玄紀でも分かる。  その時の気持ちは、本人たちにしか分からないだから…。

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