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第84話

 2人はモールを出て、陝西南路(せんせいなんろ)を目指した。  この辺りは外資系のデパートやホテルがあり、いつでも人が多い。それでも少し道を外れると、旧フランス租界の雰囲気がそのまま残っている。  プラタナスの並木。  ヨーロッパ調のクラシカルな建物。  上海らしい喧騒も、ここまでは届かないような、ゆったりと時間が流れる通りに、煜瑾(いくきん)が目指していたブックカフェはあった。  店内に入ると、まるで図書館のような紙の匂いと、カフェならではの引きたてのコーヒーの匂いが混じった、穏やかな香りがした。  少し薄暗い店内に客は少なく、BGMも小さく古いシャンソンが流れるような、落ち着いた雰囲気で、いかにも煜瑾が好みそうな場所だった。 「ステキなお店だね」  小敏(しょうびん)がそう言うと、煜瑾も嬉しそうに微笑み、2人は窓際の席に向かい合って座った。  ふと壁を見ると、幾葉かのスナップ写真が飾られていた。小敏は、芸術的なポートレートなのかと思ったが、よく見るとそれは夭逝した有名俳優の写真で、しかも今2人が座っている場所だった。  名優が愛した名店、それだけでも文系の煜瑾や小敏はテンションが上がる。  煜瑾はウィンナーコーヒーを、小敏はカフェモカを注文して、しばらくは2人とも黙って店の空気を味わった。  見回すと壁は一面が書架となっていて、装丁の美しい洋書や、写真集、絵画集など芸術的な書物が多く、希望すればそれらは購入することも出来るとのことだった。  無口で不愛想な、だがどこか品があるマスターが2人の前にコーヒーカップを置いた。 「あ、このケーキも1つ下さい」  小敏がテーブルの上のメニューにあったケーキを注文する。 「夕飯が食べられなくなるといけないから、2人で1個だよ」  小敏が微笑みかけると、煜瑾も目を輝かせて頷いた。煜瑾は、高校時代から、甘いお菓子と飲物をいただくのが好きなのだ。 「どうぞ」  差し出されたケーキは、チョコレート生地のしっとりしたもので、洋酒を利かせたサクランボ・ジャムの入った、見た目はシンプルなカットケーキだった。2人の会話を聞いていたのか、1つのケーキにフォークが2つ付いている。 「煜瑾からどうぞ」  小敏が言うと、煜瑾はニッコリして、フォークで切り取りひと口食べた。途端に、パッと目を見開いて、小敏に何事かを訴える。 「すっごく美味しいです!チョコレート生地はビターでしっかりしていて、サクランボの甘酸っぱさが良く合って…。とにかく、信じられないくらいに美味しい!」  手放しで褒める煜瑾に、小敏も急いでひと口食べてみる。 「うわ、この洋酒の香りが、チョコレートを引き立ててるよ。美味しいねえ」  小敏と煜瑾は顔を寄せ合い、目を見つめ合い、嬉しそうに、クスクスと楽しそうに笑った。 「なんだか、幸せだね」  小敏が呟くと、煜瑾は不思議そうに聞き返す。 「どうかしたのですか?」 「え?何?ボク、幸せだって言ったんだよ?」  笑いながら答える小敏だったが、煜瑾は釈然としない顔で見返してくる。 「だって、幸せそうな言い方ではありませんから」

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