88 / 201

第88話

「え~っ、文維(ぶんい)、帰っちゃうの?」  迷わず小敏(しょうびん)は声を上げるが、煜瑾(いくきん)は何も言えずに俯いていた。 「明日も、クリニックはありますからね」  何でもないように言って、文維は熱々の紅焼肉(ホンシャオロー)が入った取り皿を、(ぼう)執事から受け取った。 「煜瑾も、明日は出勤ではありませんか?」 「あ、あの…私は…」  文維にそう言われ、戸惑いながら、煜瑾は茅執事の方を見ると、承知しているように執事は頷いた。 「煜瓔(いくえい)さまは、明日の3時に上海にご到着です。煜瑾さまは、午後からオフィスにいらっしゃればよろしいですよ」  そう言った茅執事にチラリと視線を送り、もう一度文維から厳しい目で押し止められ、モヤモヤしながら小敏はカイランの炒めを口に運んだ。モグモグと咀嚼しているうちは、何も余計な事を言わずに済む。 「羽小敏さまは、今夜もこちらにお泊りいただけますか?」  紅焼肉の入った皿を差し出しながら、茅執事は小敏に訊ねたというよりは、確認した。 「ええ。煜瑾さえ、良ければ」  皮肉の色を隠せずに、嫌味な笑顔で小敏は答えた。 「もちろん、良いです!文維が…帰ってしまうのは、残念ですけれど…」  そう言って目元を紅くした煜瑾に、茅執事は批判的な目をするが、何も言わない。その態度が、また小敏を苛立たせるが、文維の手前、黙って堪えた。 「文維は、甘いものが苦手でしょうが、果物はお好きでしょう?茅さん、デザートの仕度はしてありますね?」 「もちろんです、煜瑾坊ちゃま。包文維さまには、今の時季には珍しい完熟のマンゴーをご用意してあります。坊ちゃまと羽小敏さまには、そのマンゴーを使ったマンゴープリンがございますよ」  マンゴープリンは煜瑾の大好物だった。 「それに、確か高校生の頃に、当家で煜瑾坊ちゃまの誕生会をしました時、包文維さまも、私の手作りの湯圓(タンユエン)をお気に召していただけたと記憶しておりましたので、少しだけですが、ご用意させていただきました」 「茅さん!よく覚えていてくれましたね。私ですら、そんなこと覚えていませんでした」  煜瑾は自分の事のように喜んだが、当の文維は薄く微笑むばかりで、小敏に至っては完全に無視をして、黙々と紅焼肉を食べ続けた。  美味しい食事に、デザートまで堪能し、小敏は満足してリビングに移った。  すっかり気に入ったらしいラム革のソファに寝転がるとテレビを点け、小敏はスマホを取り出した。  煜瑾は、文維が完熟マンゴーを楽しみながら、高校時代の煜瑾の誕生会の思い出などを茅執事と語り合うのを、大人しく隣で甘いマンゴープリンを味わいながら見守っている。それだけで、煜瑾は幸せだった。

ともだちにシェアしよう!