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第89話
甘味を抑えた、香ばしい胡麻餡の湯圓 を味わい、最後に香り高い茉莉花茶 を飲んで、包文維 は紳士的な態度で茅 執事に話し掛けた。
「茅執事は、今夜は、宝山 のお屋敷に戻られるのですか?」
「はい。こちらのお片付けをして、煜瑾 坊ちゃまのご就寝の仕度が整いましたら、失礼させていただきます」
それを聞いて、煜瑾は思わず可愛い笑みを浮かべる。親の目を盗む子供のような無邪気な笑顔だ。
「よろしければ、私が車でお送りしますが?」
文維の自宅は北 外灘と呼ばれる新興住宅街にあり、唐 家の豪邸がある宝山区は、さらに北になるが、この静安寺 地区の高級レジデンスから帰るなら同じ方向ではある。
「いえ、包文維さま、私も唐家の車で来ておりますので、ご心配には及びません」
丁寧に茅執事は辞退し、次にウキウキしている煜瑾に厳しい態度で声を掛けた。
「仲の良い羽小敏 さまとご一緒だからと言って、あまりに夜更かしをされてはなりませんよ」
「はい、分かりました」
神妙な顔で返事をする煜瑾に、文維はフッと笑いかけた。それだけで、煜瑾は気持ちが弾む。ドキドキして、耳が熱くなり、落ち着かなくなる。
「本当に、お分かりですか?」
その時、念を押す茅執事から救い出すように、リビングの小敏が煜瑾を呼んだ。
「ねえ煜瑾、テレビで玄紀 のニュースやってるよ~」
「え?玄紀が?」
煜瑾は素直に席を立ち、弟のような申玄紀がテレビに出るのを慌てて見に行った。
「煜瑾さま…」
心配そうな茅執事に、文維は励ますように言った。
「茅さんのご苦労も尽きませんね」
「恐縮でございます。ですが、煜瑾さまには、世の中の苦労や醜いものなど、知らずにいていただきたいので…」
そう言いながら、茅執事は愛おし気に煜瑾の背中を見詰めた。
この執事もまた、兄の唐煜瓔 と同じく、煜瑾を手中の珠として過保護にすることこそ、愛する煜瑾のためだと信じているのだと、文維は察した。
「本当に、玄紀は選手を引退するのでしょうか?昨日はそんなこと何も言わなかったですけど…」
「ま、サッカー選手を辞めても、パパの会社があるし、生活には困らないから、いいんじゃない?」
お気楽な小敏の言葉に、煜瑾はちょっと眉を寄せた。
煜瑾にとって、羽小敏は親友であるし、申玄紀は弟のような存在だ。
その玄紀が小敏を特別な目で見ていることに、煜瑾が気付いたのは、小敏が留学先の日本から帰ってからの事だった。
煜瑾は、玄紀と、このことを話し合ったことはないが、おそらく、高校時代から淡い気持ちを抱いていたに違いないと思う。
そう考えれば、思い当たることもある。けれど、元々大人しく、晩熟 である上に、自分自身が遠くから文維を見つめることに精一杯だった煜瑾は、そんな玄紀の気持ちに気付くことは無かった。
だが、今は違う。
愛しい相手に振り向いてもらえない切なさも、寂しさも、そして、ほんの一瞬の笑顔で心から幸せになることも、今の煜瑾は知っていた。
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