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第98話

 会議が終わり、社内幹部たちは会議室を後にした。居残った煜瑾(いくきん)は、自分のノートをまとめ、秘書たちに質問することを確認していた。 「煜瑾?」 「はい?」  それを見守るようしていた兄に呼ばれて、煜瑾は急いで顔を上げた。 「私が留守の間、随分と楽しんだようだね?」 「はい!久しぶりにみんなとお話をしたり、小敏(しょうびん)と買い物に行ったり、昨日も小敏が泊ってくれて…。」  ウキウキとした表情で語る弟に、唐煜瓔(とう・いくえい)は少し厳しい顔を見せた。 「煜瑾、お前は、私と約束をしなかったかい?」 「え…?約束…?」  あれほど、明るく楽しそうに輝いていた煜瑾の表情が、見る見るうちに硬くなる。 「お前は、確かに私に言ったね、『友人たちとは楽しむけれど、お兄様の信頼を裏切るようなことはしない』と」 「…は…はい」  煜瑾は、兄の不興を買ったことで、顔色を変え、不安げに俯いてしまう。 「確かに煜瑾は真面目で、私用で仕事を休むようなことは、したことがない。それを、たまに友達と夜更かしした時くらい、仕事を休んでもいいだろう。煜瑾が、心から楽しんだのもよく分かった。しかし…」  兄の冷ややかな声に、煜瑾の美貌が、ますます翳る。 「いつも世話をしてくれている(ぼう)執事に、逆らうというのはどうだろう」 「……」  煜瑾は何も言えずに、顔を上げることなく、青い顔のまま唇を噛んだ。 「茅執事に心配を掛けるというのは、私の信頼を裏切ることと同じことではないかな?」  何か、言い返さなければいけないと、煜瑾も分かっている、だが、何を言えばいいのか、言葉が出ない。 「昨日の事は、煜瑾の友達の前で、茅執事がお前に恥をかかせた、と言えなくもない。だから私も、昨日一日は煜瑾の好きなように過ごさせるよう、茅執事にも命じたのだよ」 「は…はい。ありがとうございます、兄上」  煜瑾は全身を硬直させ、震えながらやっとそれだけを言った。 「それでも、茅執事は昨日もイヤな顔を一つせずに、お前たちの夕食の世話などしてくれたのだろう?」  兄の言葉に、煜瑾はピクリと反応した。  そんなことを、頼んだわけでも無い。昨夜は小敏と外食して、そこに文維(ぶんい)も呼んで、と楽しい計画があったのだ。  それなのに、強引に茅執事が煜瑾たちを呼び集め、当てつけるように子供扱いし、監視までしていたのだ。その上、そんな執事に対し、兄は感謝しろと言わんばかりの口調だ。  煜瑾の中で、何かが爆ぜた。 「いい加減に、して下さい!」  大人しく、素直で、従順な煜瑾が、急に大きな声を出したことで、煜瓔は驚いた。 「どうしたんだ、煜瑾。どこか、具合でも悪いのかい?」  急に心配になり、煜瓔は弟に近寄り、その肩を抱いた。 「熱でもあるのか?」 「やめて下さい!」  その手を振り払い、煜瑾は泣きそうな顔をしながら、それでも勇気を振り絞るようにして、生れて初めて兄を拒絶した。

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