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第112話

 煜瑾(いくきん)は、過去を突き付けられることを拒んだ。 「それは違いますよ、煜瑾。今だからこそ、心の箱のことを思い出して下さい」  しかし文維(ぶんい)は、声のトーンを巧みにコントロールしながら、催眠術に近い暗示で煜瑾の心を解放しようとしていた。 「煜瑾は、今では、しまい込んだ箱の中身ではなく、箱そのものを恐れているのです。それが、とても直視したくない重荷だと言うのは分かります。けれど、箱の蓋を開けて、しまい込んで来た物をもう一度見て下さい。決して煜瑾が思うような恐ろしいものは、そこにありません」  誰にも相談せず、1人で心に抱えてきた煜瑾の苦悩の原因を、あえて今、直視することで煜瑾は初めて心の傷と向き合い、癒すことができるはずだと、文維は説得しようとしていた。 「嘘です。見たくないのです、もう…忘れてしまいたいのです」  だが、その現実の厳しさに、煜瑾は追い詰められて泣き出してしまう。それほどの重苦しい痛みだった。 「箱にしまい込んだものを、もう一度見て、確かめない限り、『それ』を忘れることは出来ないのですよ、煜瑾」 「いや!いやです!」  涙で、その美しい頬を濡らしながら、煜瑾は必死に文維に訴えた。  その苦しさは文維にも分かる。だが、これは心を扱う医者として必要なことなのだ。 「怖がらなくていいのですよ、煜瑾。私がいます。私がずっと煜瑾の傍に居ますから、何も恐れないで下さい」 「文維…」  愛しい煜瑾をその胸に抱くことは、加療中の医者として適切ではないと、充分に自覚していながらも、気が付くと文維は煜瑾を抱き寄せていた。  その行為で、文維の体温を感じ、クリニックでの毎週の面談の時にされる、秘密を分かち合うような抱擁とキスを、ようやく思い出した煜瑾だった。  文維が居れば、文維の腕の中に居れば、何も不安を感じることはないのだ…、と思い知る。 「何もかも現実を受け止め、それで煜瑾は何も悪くないと自覚して欲しいのです。本当は、煜瑾はもう箱の中身を乗り越えているのに、何も入っていない空き箱を1人で怖れているだけだということに、気付いて欲しいのです」  煜瑾は、文維の言うことをその腕の中で、じっと沈思黙考する。その慎重さが、煜瑾の心の傷の深さなのだろう、と文維は切なくなる。 「さあ煜瑾。心の準備が出来たら、私と一緒に、心の中で、鍵を掛けた箱の蓋を開きましょう」  文維はそう言うと、ソファにゆったりと煜瑾を座らせ、自分はその隣に座ると、煜瑾の両手を取った。温かい手で、優しく握り込む。 「怖がらないでいいのです、煜瑾。私が、ここにいます」 「…文維…」  拭えない恐怖に煜瑾が震えていた。

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