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第113話

「さあ、息を深く吸いましょう。そう、ゆっくりと…。そして、心の奥にしまった箱を取り出してみましょう」  少しずつ文維(ぶんい)に誘導される煜瑾(いくきん)だが、その手は緊張で震えている。 「さあ、箱の蓋を開けます。ここから物語は始まりますよ。…それは、いつの出来事ですか?」 「あれは…、高校を卒業する直前の、5月の連休のことです…」  催眠効果があったのか、文維の温もりと柔らかな声で、煜瑾は目を閉じ、まるで夢の中にでもいるように、フワフワとした現実味の無い感覚で言葉を続ける。  中国でも5月1日の労働節を祝って、前後1週間ほどの大型連休がある。  煜瑾たちが高校卒業前と言うことは1つ先輩である文維は既に卒業して、北京の大学の医学部に進学していたため、上海を離れていた。  高校の卒業年度の5月と言えば、6月の全国一斉の大学入試に向けて、死に物狂いで勉強をする時期だが、文系では学内トップの成績であり、「唐家の王子様」である煜瑾にはそれほど気負うものではなかったのだろう。  文維はその「時期」について深く考えることはしなかった。 「文維が上海から離れ、卒業後は小敏も日本へ留学すると知って、私はとても寂しくなりました。それを知ったお兄様が、私に留学を薦めて下さったのです」  それは文維も初めて聞くことだった。煜瑾が留学を考えていたとは、想像もしたことが無かった。あくまでも煜瑾は「唐家の深窓の王子」というイメージだったからだ。 「お兄様は、ご自分が通学された大学を一度見学してみるように仰って、私は生まれて初めて1人で英国の唐家の本家へ行きました」  これもまた文維には驚きだった。あの弟を溺愛する唐煜瓔が、煜瑾をたった1人で海外へ出すとは信じられない。 「もちろん、ヒースロー空港には唐家の弁護士がお迎えに来て下さって。本家の伯父様、伯母様たちも、とても優しく迎えて下さって、初めて会う親戚たちにもちゃんとご挨拶出来て、私はとても嬉しく思いました」  人見知りで、自分から他人と打ち解けるのが苦手な煜瑾は、初対面の人間が一番苦手だ。その煜瑾が親戚たちに歓迎されたのは、もちろん兄である煜瓔の根回しもあっただろうが、一族に相応しい美貌と品格、そして無垢で純真な煜瑾の人柄が愛されたからに違いない。 「唐家のお屋敷から、大学は遠いので、弁護士のカーンさんが大学の近くのホテルを用意して下さり、私はロンドン郊外のお屋敷に2泊した後、ホテルに移りました」

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