114 / 201

第114話

「ちょうどカレンダーの都合が良く、土日を使って9日間の連休だったので、次の金曜に唐家の本家のお屋敷に戻ることになり、私は月曜から金曜の朝までの、ほぼ1週間の大学生活を見学できることになっていました」  なるほど、1週間の大学の流れを見学することで、具体的な学生生活をイメージしやすいだろう。何もかもが煜瑾(いくきん)のためにと細やかに配慮されていたのが分かる。 「大学見学の1日目は、弁護士のカーンさんが付き添ってくれました。中国系の先輩や中国からの留学生にも紹介してもらい、寮の中まで見せてもらって、とても楽しかったのを覚えています」  文維(ぶんい)には、夢を語るような煜瑾の心の動きがよく分かった。その腕に抱いた体が、緊張して力が入ったり、抜けたりするのを(じか)に感じるからだ。  次の瞬間、文維は煜瑾のその体に、強張りを感じた。 「あ…、あれは…、2日目の火曜の午後でした…」  ついに「事件」のあった日に事を、おそらく初めて口にするのだろう。目を閉じたままの煜瑾の端整な顔は蒼白となり、体は固くなり、肩は震えている。  文維は、そんな煜瑾を励ますように、その肩を抱く手に力を込めた。 「弁護士のカーンさんはお仕事でロンドンに帰ってしまわれ、私は先輩や留学生たちと学生がよく行くというパブに連れてもらいました。初めてイギリスのビールを飲み、みんなと楽しくおしゃべりもしたのですが、少し疲れてしまったので、私は先にホテルに帰ることにしました」  ここで、煜瑾はゴクリと唾を呑み込んだ。まさにこの先の恐怖に、固唾を飲んだのだろう。 「パブはホテルから2ブロックしか離れていなくて、パブからホテルが見えるほどの距離でした。みんなは、もう少し飲みたいと言うので、送って下さると言うのを辞退して、私は1人でパブを出たのです」  こんなに美しく、純粋な煜瑾を、異国の地で、ましてやほろ酔いで1人、歩かせるなどという危険に、文維は怒りさえ感じた。 「くれぐれも、誰かに声を掛けられても足を止めてはいけない、と先輩たちには言われていたのです。それなのに、私は…」  文維が、煜瑾の黒々とした睫毛が濡れているのに気付いた。 「私がパブを出て1人になった時、車が近寄ってきて、私の隣に停まったのです。そして中から声を掛けられ、私は注意されたことも忘れ、迂闊にも、足を止めてしまいました」  そう言って、煜瑾はギュッと身を竦め、文維の胸に顔を埋めた。 「車の中に引きずり込まれたのは、一瞬の事でした。運転手に気を取られていた私は、後部座席に居た男に気付かなかったのです。声を上げる暇もありませんでした。すぐに鼻と口を塞がれ、私は意識を失ってしまったのです」

ともだちにシェアしよう!