136 / 201

第136話

 ある朝、(とう)家の(ぼう)執事は申玄紀(しん・げんき)からの電話を受けた。 「おや、お珍しい。申玄紀坊ちゃま」 「今、上海に帰って来ているのですが、煜瑾(いくきん)が病気だと聞いたので」 「はい、安静になさっていますよ」 「お見舞いに行ってもいいですか?」  意外な言葉に、茅執事は怪訝に思うが、煜瑾の気晴らしも必要かと思い直した。 「お1人で、ですか?」 「うん…。私1人ではダメですか?」 「いいえ、とんでもございません。まだ煜瑾坊ちゃまも弱っておいでなので、お1人でお越しいただいた方が、お疲れになられないと存じます」  茅執事の言い分に、玄紀は煜瑾がそれほどに重症なのかと、ここにきて心配になった。 「煜瑾は、大丈夫なのですか?」 「ご本人次第なのですが…。なかなか元気を出して下さらないので、玄紀坊ちゃまには、ぜひ煜瑾坊ちゃまを励ましていただきたいと存じます。よろしくお願いいたします」  そう言われて、翌日の午後に、玄紀は、唐家を訪問することになった。 *** 「じゃあ、煜瑾にはくれぐれもよろしくね」  南京(ナンヂン)東路(イーストロード)にあるホテルのレストランで、玄紀と羽小敏(う・しょうびん)は待ち合わせてランチをした。もちろん、先日と同様に個室を予約している。 「分かっています」  玄紀が好きそうな、イタリアンレストランのランチのコースを前に、2人の会話は弾まない。 「怒ってるの?」  玄紀から視線を外し、パスタをフォークの先で突きながら、少し自嘲的な薄笑いを浮かべて羽小敏は呟くように言った。 「何が?」  玄紀もまた、小敏を見ずに端的に答える。玄紀は、生ハムのサラダをほんの少しずつ食べている。  それを悲しい目で見ていた小敏は、次に玄紀の目を真っ直ぐに見据えた。 「ボクが、君を利用したから、怒ってる?」  その一言にハッとして顔を上げた玄紀は、そのまま小敏の目を見てしまい、捕らわれてしまう。  端整な美貌の小敏の、物憂げな眼差しは、妖艶で、誘惑的だ。年齢よりも若く見える可愛い容姿で、小敏は何人もの男たちを手玉に取って来た。  彼らに対して小敏が求めるのは一過性の欲望の昇華だけで、まるで愛など信じていないようだった。  そんな孤独な小敏を、玄紀は救いたい、愛で以て抱き締めて、守ってあげたいと、ずっと思ってきた。  そんな玄紀を、小敏は受け入れようとはしない。  その上、今回は何の理由の説明もなく、利用しようとしている。 「小敏を、この私が、怒る、と?」  ポツリ、ポツリと言葉を刻んで、真面目な顔の玄紀が言うと、小敏は薄く笑った。 「玄紀だけは、ボクを怒っても仕方ないと思ってる」  玄紀の、一途に自分を慕ってくれる気持ちを、踏みにじっているという自覚のある小敏は、物憂げにそう言う。 「いつでも…ボクを抱いていいよ、玄紀」  今にも泣きそうな顔で言う小敏が、玄紀を切なくした。

ともだちにシェアしよう!