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第156話

 胡娘(こじょう)は嫁入り前から、この(とう)家のメイドとして雇われ、その仕事のほとんどが煜瑾(いくきん)の世話係だった。煜瑾が1人で眠れるまで、傍で子守唄を歌ったり、お話をしてくれたのは、若い胡娘だった。  それから胡娘は、この唐家に出入りする配達員・(りゅう)と恋に落ち、まるで唐家の親戚であるかのような持参金を用意され、豪華な結婚式を行い、唐家を出て行った。まだ中学生だった煜瑾は、大好きな胡娘が辞めることをひどく反対した。  けれど、子供が生まれたと唐家まで見せに来てくれたり、メイドを辞めた後も、胡娘は家族のように付き合いがあった。 「胡娘姐さんが戻って来てくれた時は嬉しかったです。ご家族には申し訳ないとは思いますが」  けれど、胡娘と幼い子供を残し、夫は他の女性と広州へと駆け落ちしてしまい、胡娘は離婚し、子供を1人で育てる決心をした。  それを知った当主である唐煜瓔(とう・いくえい)は、メイドではなく、その上のハウスキーパーとして、もう一度胡娘を雇うことにしたのだ。 「旦那様には、本当に感謝しています。私など、家事の他に取柄もないような女が、子供を1人で育てていくのはとても無理だと思っていたのに。しかも、メイドではなく、ハウスキーパーにして下さって、お給料も上がって、本当に今があるのは旦那様のおかげです」  以前の煜瑾であれば、大好きな兄を褒められて手放しで嬉しいはずだった。けれど、今の煜瑾は素直に喜べない。 「それに何より、煜瑾さまのお傍に戻れたのが、本当に嬉しかったのですよ」  それは、いつも優しい「ねえや」だった胡娘の声だった。 「旦那様や茅執事には、御恩があります。けれど、私にとって一番大切なご主人様は煜瑾さまですよ」 「胡娘姐さん…」  この屋敷に、もう味方は居ないと思っていた煜瑾だった。 「もしも、煜瑾さまのお役に立つなら、誰にも言わずにお手紙くらいならお届けしますよ」  声を潜めて言う胡娘に、煜瑾はハッとした。 「い、いいえ…。今は、大丈夫。でも…胡娘姐さんが居てくれるのは、とても安心です」 「ふふふ。今夜はお休みになるまで、お傍におりましょうか?子守歌でも歌いますよ」  胡娘がからかうように言うので、煜瑾も思わず笑ってしまった。 「やっと、心から笑って下さいましたね」  煜瑾の笑顔に、胡娘はホッとした様子だ。 「ずっと気になっておりました。旦那さまや茅執事の前で笑っている煜瑾さまは、心から笑っておられない。笑う振りをされているような気がして」 「胡娘…」 「まだお心に痛みが残っておられるのは分かります。けれど、せめて私の前ではご無理をなさらないで下さい、煜瑾さま」  思いやり深い「ねえや」の言葉に、煜瑾は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。 「ねえ、胡娘ねえさんの息子の…」 「柳勇(りゅう・ゆう)と言います。13歳になりました」 「私が会った時は、まだ赤ちゃんでしたね」  まだ幼かった煜瑾は、こんなに小さな命が懸命に生きているのかと、少し怖いような気もしつつ、感動したのを覚えている。 「今度、クリスマスツリーを見に来るように言って下さいね。私がクリスマスプレゼントを用意します」 「ありがとうございます、阿勇も喜びます」  そう言って、胡娘は頭を下げて、煜瑾の寝室を出て行った。

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