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第162話

玄紀(げんき)が、もう空港へ向かうというので、そこまで送ってきますね」  煜瑾(いくきん)は、敢えて兄ではなく、少し離れたところで兄の(せん)第一秘書にそのように伝え、会場を出た。  ニコニコと愛想良く、玄紀と共に、荷物を受け取り、会場から一番離れたトイレに向かった。さすがに誰も居ない。 「急いで下さい、煜瑾!」  煜瑾は無言で玄紀が開けたキャリーケースから着替えを受け取り、個室に飛び込んだ。 「プレゼントに、スマホに…現金?」  煜瑾の持ち物を確かめていた玄紀は意外に思う。今どき、上海で現金を使うことなどまず無いからだ。 「スマホ決済は使えないし、カードはお兄さまに取り上げられました」  そう言って慌てて着替えて出てきた煜瑾から、ロイヤルブルーのスーツを受け取り、玄紀はキャリーケースに雑にしまい込んだ。 「高級なシルクのスーツなんですよ、そんな風に扱うなんて」  文句を言いながらも、煜瑾はしっかりと鏡を睨みつけ、髪を直し、服装を整えている。 「今はそんなことを言っている場合じゃありません」  煜瑾は、一緒に買いに行った小敏が言うところの「文維とのデート服」に着替えていた。 「とっても素敵ですよ、煜瑾」 「ありがとう…」  好きな人のために、あの煜瑾が、これほどの行動力を発揮するとは玄紀には信じられなかったが、今、目の前にある輝くような笑顔に、煜瑾だけでなく、なぜか玄紀も幸せな気持ちになった。 「はい、これ」  玄紀は、自分のチームの黒いロングのダウンコートを煜瑾に着せた。そこに黒いニット帽をかぶせ、黒いマスクまで手渡す。 「申し訳ないですが、私のマネージャーっぽく見えるように、このキャリーケースを持って下さいね」 「大丈夫。心配しないで下さい」  眼だけを見せた煜瑾だが、その下で力強く微笑んでいるのが分かる。 「行きましょう」 「はい!」  玄紀とマネージャー風の煜瑾は、エレベータに乗り、貴賓楼1階のホールに向かった。 「やあ、さっきは!」  先ほど一緒に記念撮影をしたセキュリティ係に玄紀が挨拶をすると、相手も嬉しそうに話し掛ける。 「もうお帰りなのですか?」 「ええ。今から空港へ向かって大連に帰ります」 「ああ、週末は試合ですか?」 「まあ、そんなところですが…」  他愛もない会話で繋いでいる間に、目立たないように煜瑾は貴賓楼を出た。 「空港まで行かれるなら、タクシーを呼びましょうか?」 「いや、自分で呼んだから、じゃあ」  煜瑾がこの建物を無事に脱出したのを確認して、玄紀もセキュリティ係との会話を切り上げ、煜瑾を追って建物を飛び出した。

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