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第163話

 錦江飯店(ジンジャン・ホテル)貴賓楼を出ると、左右にクラシックな北楼と現代的に改装した南楼がある。煜瑾(いくきん)たちは、北楼の前を通ってホテルの門を出ることになっていた。  オールド上海の名残を残す名門の錦江飯店北楼の前から、目の前の茂名(マオミン)南路を渡れば、すぐそこに日系の老舗ホテル、花園飯店(ガーデン・ホテル)がある。  煜瑾と小敏(しょうびん)の作戦は、錦江飯店の宴会場から抜け出し、向かいの花園飯店で合流するというものだった。  最初は、同じ錦江飯店の3棟あるうちの貴賓楼から抜け出し、他の北楼か南楼で会うことも考えたが、煜瑾が抜け出したことがバレた場合、同じホテル内だとすぐに見つかってしまう可能性があった。 (もうすぐ、文維(ぶんい)に会える)  そんな、一途で駆けだしたくなる思いを抑え、煜瑾は目立たぬように北楼の正面玄関の手前まで来た。  その時、隣に停まっていた車から降りてきた男性が、煜瑾の前に立ちはだかった。 「!」  煜瑾が避けようとすると、男性も移動する。  妙な動きに、煜瑾が顔を上げるのと、追いついた玄紀(げんき)が、煜瑾の前に居る男性に気付いて声を上げたのは、ほぼ同時だった。 「(ぼう)執事!」 「どうして…」  煜瑾は忽ち、真っ青になった。 「私が、煜瑾坊ちゃまのことで知らないことはございません」  沈着冷静な茅執事に、煜瑾は心が折れそうになる。それでも、通りの向こうに見える、租界時代のフランス倶楽部だった建物まで行けば、恋しい包文維に会えるのだと思った煜瑾は、ここで勇気を振り絞らねばと決意した。 「そこを、どいてください、茅執事」 「煜瑾坊ちゃま…」  困った顔をする茅執事を、煜瑾は目いっぱい睨みつけた。 「もう一度言います。主人の命令です。下がりなさい」 「出来ません、煜瑾坊ちゃま。私のご主人様は唐煜瓔(とう・いくえい)さまです」  当然のように答える茅執事に、煜瑾はマスクの下で唇を噛んだ。 「煜瑾…」  玄紀もまた、困惑した表情でオロオロしている。 「どちらにおいでになるのですか、煜瑾坊ちゃま」 「お前には、関係ありません」  強引に茅執事の横をすり抜けようとした煜瑾を、茅執事は思わぬ力で抱き留めた。 「放しなさい」 「いけません。煜瑾坊ちゃまに、あの男は相応しくありません」  その瞬間、玄紀は息を呑んだ。あの温厚で天使のような煜瑾が、目の前で茅執事に見事な平手打ちをしたのだ。 「お前のような者に、包文維を『あの男』呼ばわりする資格はありません!」  あまりにも毅然とした煜瑾の態度に、玄紀は驚いて何も言えず、動けなくなった。 「だとしても、大切な煜瑾さまを、みすみす間違った方へと送り出すわけには参りません」  マスクの下で強く唇を噛んだ煜瑾だったが、その眼はもう涙で潤んでいた。

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