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第173話

「お兄さまは?」 「書斎におられますよ」  煜瑾(いくきん)の質問に、(ぼう)執事は何の不審も抱かずに答えた。 「お兄さまに御用ですか?」 「ええ。大切な、お話があって…」  だがすぐに茅執事は煜瑾の思い詰めた眼差しに気付いた。 「煜瑾坊ちゃま?何か、お困りの事でしたら、私が承りますが」 「いいえ。お兄さまに、お話したいのです」 「……」  それ以上、煜瑾は何も言わず兄の書斎へ向かおうとした。それを、茅執事は呼び止めた。 「あ、煜瑾坊ちゃま。煜瓔(いくえい)さまの書斎に行かれるのであれば…」 ***  唐煜瓔の書斎の重厚なドアを、煜瑾は緊張した面持ちでノックした。 「お兄さま、煜瑾です。お話があって参りました」 「入りなさい」  落ち着いた、威厳のこもった声で、唐煜瓔が応じる。  ドアを開けた煜瑾は、いかにも中華デザインの蓋付のマグカップを手にしていた。それを兄のデスクを上に置くと、煜瑾は無垢な天使の笑顔を浮かべた。 「これは?」 「生姜茶です。茅執事がお兄さまにお持ちするというので、代わりに私が…」 「そうか。ありがとう」  一時は幽霊のように病みやつれた煜瑾が、これほどまでに元気になったことで煜瓔は心から安堵した。唐煜瓔にとって弟・煜瑾は、何物にも代えられぬ宝であり、生きがいでもあるのだ。  見目美しく、心が清らかで、聡明な、「唐家の至宝」が、いつまでも人生の辛酸を知ることなく、自分の傍らで、明るく無邪気に微笑んでいることが、唐煜瓔の望みだった。 「それで、話とはなんですか?」  蓋を置き、温かい生姜茶を一口飲んで、ホッとすると唐煜瓔は煜瑾の目を見た。  煜瑾は、兄のいる広々としたライティングデスクから少し離れた、ほとんど使われない装飾のようなフランスアンティークのアームソファに腰を掛けた。凝った彫刻が成された、猫脚の優美な1人掛けのソファに座った煜瑾は本物の貴公子に見える。  この弟の気品と優雅さ、そして穏やかな美貌が煜瓔には自慢だった。いつまでも、このままこの世の穢れを知らずにいて欲しいと心から願ってしまう。  そんな兄の想いを知ってか知らずか、煜瑾は優しい笑みを消し、思い詰めた、真剣な表情になった。  そして、緊張した時のクセで、唇を少し噛んで煜瑾は一度俯いた。そして、次に顔を上げた時は何かを心に決めた、強い表情になっていた。  こんな弟を見たことが無いように、煜瓔は思った。 「お兄さまに…。私と包文維との関係をお許しいただきたいのです」 「何?」  煜瑾の言った言葉が、まるで知らない外国語のように、煜瓔には理解できなかった。ようやくそれが頭の中で意味を成すと、怒りよりも困惑の方が先に立った。 「あの、包文維に、お前はまだ執着があるのか?」

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