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第174話

 あの男は、確かに、カウンセラーとしては有能だったかもしれない。  人見知りが激しく、いつも不安そうに兄の後ろに隠れたがるような煜瑾(いくきん)が、随分と落ち着き、毎日のように笑顔を浮かべるようになった。  だがそれは、卑怯なカウンセラーが、煜瑾に恋人の振りをし、偽りの愛を囁き、そうやって騙したうえで、心を開かせただけだ。確かに、この手段は成功だった。他の、どのカウンセラーにも真似が出来なかったことだ。  けれど、煜瑾が本気になってしまった以上、煜瓔(いくえい)もいつまでも大目に見るわけにはいかなかった。  熱に浮かされた煜瑾が、この屋敷を飛び出し、あの包文維(ほう・ぶんい)の許へ行ったと聞いた時、煜瓔は気が気ではなかった。  しかし、包文維から何を言われたのか、たった一晩で煜瑾は戻って来た。その後の弱り方は予想外だったが、それでもこうやって煜瑾は立ち直ったではないか、と煜瓔は思っていた。  それなのに、今になって、またなぜあの男の話を持ち出すのか、煜瓔には理解できない。 「治療だと称して、お前を騙し、傷つけ、病人にまでした、あんな卑劣な男の事など、もういい加減に忘れてしまいなさい」  唐煜瓔は、憮然としてそう言うと、煜瑾に背を向けて、デスクの上の手紙を片付け始めた。 「私には、包文維がいなければ、生きていけない理由があるのです」  煜瑾は、硬く、しっかりした声で兄の背中に打ち明けた。 「理由?」  煜瑾の深刻な様子に、煜瓔はゆっくりと振り返る。 「私には、1人では抱えきれない秘密がありました」  煜瑾の顔は、青白く、何かを深く思い煩い、胸を痛めているのがよく分かった。 「秘密?お前に、私が知らない秘密があるというのか?」  驚いた煜瓔の問いに、煜瑾はただ、黙って頷いた。 「その秘密のせいで、私は心の傷が癒えず、知らない人に近づくことが出来ず、いつも何かに怯えていました」  そうだった、と煜瓔は気付いた。  元々大人しく、人見知りしがちな弟が、成人しても他人との関りを避け、兄である自分の陰に隠れてばかりいたことを、庇護者として満足するあまり、その違和感を見て見ぬふりをしてきたのだ。  確かに、煜瑾は他人との接触を不自然なほど怖れていた。 「それを、文維に何もかも話すことが出来て初めて、やっと自分を取り戻すことができたのです」 「何を言っているんだ、煜瑾」  堪らずに煜瓔は立ち上がり、煜瑾の傍に寄った。 「秘密とは何だ?私に言えないような秘密が、どうして煜瑾にある?」  兄に問い質され、煜瑾は緊張で乾いた唇をもう一度噛んだ。  そして、震える声で、少しずつ、ゆっくりと話し始めた。 「私は…、高校を、卒業する直前…、1人で、イギリスに行った時…、お兄さまもご存じない…、『事件』に、巻き込まれ、ました…」 「事件?」  思いも寄らぬ告白に、煜瓔は眉を顰めた。

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