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第175話

 事件の核心を兄に告げる前に、煜瑾(いくきん)は左腕にある腕時計に触れた。  それは、包文維(ほう・ぶんい)の高級スイス時計、パティックフィリップの腕時計で、彼の一部とも言える物だ。  まるでそこに文維が居て励ましてくれるような気がして、煜瑾は一度深呼吸をし、しっかりと兄の目を見詰めて残酷な事実を打ち明けようとしていた。 「…あの時…、私は…2人組の男に誘拐され、監禁され…」  ここまで言っただけで、もう煜瑾の息が荒くなる。  またパニック発作ではないかと、煜瓔(いくえい)は動揺するが、当の煜瑾は左手の腕時計をしっかりと握って、気持ちを整えようとしていた。  煜瓔は、その腕時計に見覚えが無いことに気付いた。 「何があった、煜瑾?この兄に秘密にすることなど何もないのだよ」  健気にも目を逸らすことをしない煜瑾の目に、じわじわと涙が浮かんでくるのを、煜瓔は不安な気持ちで見守った。 「……」 「煜瑾?」  大切な煜瑾が誘拐され、監禁されたと聞くだけでも煜瓔はショックで、激しい動揺に襲われていたが、煜瑾がその先を話そうとしているのが気になった。 「…監禁中に、乱暴されました…。何度も、何度も、この体を穢されました…」  それだけを言うのが精一杯だったのか、煜瑾は両手で顔を覆い、上体を倒すようにして泣き出してしまった。 「ごめんなさい…。お兄さま、ごめんなさい」 「!」  余りの事に、唐煜瓔は言葉を失い、愛らしい煜瑾の顔も見ていられなくなった。呆然となった煜瓔は、そのまま崩れ落ちるように、床に座り込んでしまう。視線も何を見ているのか、ボンヤリ壁を見詰めている。 「…ずっと、お兄さまに助けを求めていました。けれど、私は独りぼっちで、お兄さまも、誰も助けに来てはくれませんでした。誰も居ない…、私を助けてくれる人は誰も居なかったのです」  そう言って号泣する煜瑾の、震える背中に煜瓔は視線を移した。 「怖くて、独りぼっちで、私は誰にも話すことが出来ず、苦しくて、悲しくて…」  そんな残酷な出来事が、煜瑾の身の上に起きていたなど、想像さえしたことが無い唐煜瓔だった。  安全で、安心できる場所しか知らないはずの「深窓の王子」・煜瑾だった。世の中の悪意も、苦痛も、決して近づけないようにして育てて来たはずだった。  そんな煜瑾が、心も体も痛めつけられ、それを誰にも言えず、ずっと苦しんできたと言うのか。煜瓔はそれに気付かなかった自分の愚かさに腹が立った。 「けれど、文維が!」  ようやく煜瑾が顔を上げた。その美貌は涙に汚れている。 「文維が、私を助けてくれたのです。1人で苦しまなくても良いと、私の苦しみや痛みを分かち合い、一緒に心の傷を癒しながら生きてくれると、約束してくれたのです」  これまでの唐煜瓔であれば、それは自分の役割だと即答したであろう。   だが、今は違う。  煜瑾は、兄には告げられなかった「秘密」を、あのカウンセラーだけには話したのだ。 「他の誰であってもダメなのです。それが例えお兄さまであっても、私は生きていけないのです。文維でなければ…」  煜瑾はひたすら必死に訴えかける。 「文維だけが、私を救えるのです」

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