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第176話

 煜瑾(いくきん)は、疲れ切った顔をして立ち上がり、兄の手を取り、自分の代わりにアームチェアに座らせ、自分は兄の足元に跪いた。 「どうか分かって下さい、お兄さま…。私は文維(ぶんい)が居なければ病気になってしまうし、文維もまた私無しには生きていけないと言ってくれました」  唐煜瓔(とう・いくえい)は、煜瑾の身に起きた、自分が知らなかった「事件」のことと、自分から煜瑾を奪おうとする男のことを、同時に考え、処理しなければならなかった。 「…包文維は、お前を利用しているだけなのだ」  ようやくそれだけのことを言い、唐煜瓔は弟の悲しそうな顔を見た。 「いいえ。私には分かっています。私は文維を信じています」 「何度言えば分かるのだ。お前は、包文維に騙されているのだよ」  唐煜瓔は、大事な弟を思えばこそ、あらゆる憂いから煜瑾を守りたかった。ただ、それだけであるのに、煜瑾にはその想いが伝わらないのがもどかしい。 「お兄さまこそ、何度言えば分かって下さるのですか。私は、文維に騙されていても構いません。私が文維を愛しているのです。文維と引き離されては生きていけないのです」  濡れた黒瞳で、煜瑾は思いの丈を兄に訴え続ける。 「煜瑾…」 「お兄さまは、包文維を誤解なさっているのです。文維は、お兄さまに『私を愛している』と言って、私たちが引き離されるのを怖れただけです」  そう言った煜瑾は、兄の両手を握り込み、その手に(ぬか)づいた。 「…18歳でいわれのない暴力に踏みにじられ、私は恐怖と絶望で、そこから動けなくなっていました。ずっと独りぼっちで、誰も信じられず、誰にも心を開けず、自分を偽って、お兄さまに隠れて生きることしか出来なかった…。私は、心も体も壊れてしまったのだと、諦めていたのです」  苦しそうな煜瑾を見ているのが、唐煜瓔には何よりつらかった。今日まで苦しんで来た弟が哀れで、泣き伏せる煜瑾の髪を優しく何度も撫でた。 「でも文維は、こんな私でもいいのだと言ってくれました。私は、在りもしないモノに怯えているだけだと教えてくれました」  涙を浮かべ、足元に跪き、いじらしく見上げる煜瑾を、唐煜瓔は複雑な思いで見つめた。  これほど苦しむ弟になぜもっと早く気付けなかったのか、と唐煜瓔は自分を責める。 「お兄さま…、私は…、唐煜瑾は、自分らしく生きるために包文維と共にありたいのです。包文維なしに、私は私ではいられないのです」  煜瑾は、立ち上がると兄に抱き付いた。  兄・煜瑾もしっかりと、傷つけられた弟を抱き留めた。  たった2人の兄弟は、互いを思いやり、愛し、慈しんでいる。それなのに、これほど相手を傷つけているとは、悲しい事だった。

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