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第177話

「お兄さま…。煜瑾(いくきん)は、お兄さまが大好きです。…けれど、唐煜瑾が幸せになるには、包文維(ほう・ぶんい)が必要なのです。私が幸せになってはいけませんか?」  幼い頃のように煜瑾を胸の中に抱き留めた唐煜瓔(とう・いくきん)は、大切な「唐家の至宝」を手放すことになるのかと、胸の痛みを感じた。それは決して家宝ではなく、煜瓔自身の唯一の宝物だった。  一度、ギュッと煜瑾を抱き締め、それから煜瓔は名残惜しそうに離れた。 「煜瑾、今夜はもう寝なさい。私にも、考える時間が欲しい」 「…はい、お兄さま」  煜瑾は立ち上がり、兄に向かって頭を下げ、そのまま静かに書斎を退室しようとした。  最後に振り返り、煜瑾は自分が信じる言葉を口にした。 「私たちは、愛し合っているだけです。決して恥ずべきことはしていません」 ***  それは、日曜の朝だった。  風光明媚な宝山地区にある唐家の邸宅の電話が鳴った。  超然とした態度の(ぼう)執事がその電話を取った。 「唐家でございます」  次の瞬間、茅執事の顔が怪訝に歪んだ。 「何か、当家にご用事でも?」  明らかに棘のある口調の茅執事に対し、電話の相手は冷静で淡々としていた。 「ご無沙汰しております。包文維です。突然で失礼とは思いますが、ぜひ唐煜瓔さまとお話がしたいのですが」 「しばらくお待ちください」  朝食の途中だった唐家の兄弟は、言葉を交わすことも無く、静かというよりも陰気な食卓だった。 「旦那様…」  茅執事が、煜瑾に聞かれないよう、ソッと当主・煜瓔に耳打ちした。 「旦那様、いかがいたしましょうか」  唐煜瓔は、泰然として頷いた。 「…昼食後で良ければ、時間を作ろう。1時にここへ来るように言いなさい」 「承知いたしました」  チラリと兄と執事に視線を送った煜瑾は、何か不安なものを感じたが、何も言えず、ヨーグルトに沈んだバナナを突いた。 *** 「分かりました。では、本日午後1時に伺います」  電話を切った文維は、大きなため息を落とした。 「お疲れ様」  労わるというよりも、好奇心に満ちた楽しそうな笑顔で、(ほう)夫人恭安楽(きょう・あんらく)は息子の好きなブラックコーヒーを差し出した。 「で?煜瑾は何て?」  包夫人の後ろから、夫人お得意の手作りブラウニーを運んできた従弟(いとこ)羽小敏(う・しょうびん)も、好奇心いっぱいに目を輝かせている。  早くに実母を喪った小敏を、母親代わりとなって育てたせいか、不思議なことに、実の息子である文維よりも、この2人の性格はよく似ている。 「煜瑾は関係ありません。私が煜瓔お兄さまに謝罪に伺うのです」 文維は毅然とそう言って、今は唯一の味方である母と従弟に頷いた。

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